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  石と女 

 

(続き)

 家に帰り、植木屋に電話すると、おじいさんは帰っていた。もう少しで寝るところだったらしい。危ない所だった。
「桜の下に…?」
「そうです。おじいさんが来てた頃はどうやった?掘り返された後とか、なかったかなあ。」
「いいやあ、見んかったなあ。」
「ホンマに?」
「ホンマや。その死体は何年前て?」
「十五年から二十年前て。」
「十五年から二十年!」
別に驚いているわけではないようだが、おじいさんは大義そうに言葉を吐いた。
「うーん、二十年なあ。あの桜植えたの何時やったかなあ。ちょうど二十年…待てよ。」
電話の向こうからブツブツ言う声が聞こえる。それから、
「そや、お嬢ちゃん覚えてへんか。あれは、あんたのお父さんがいいひんようになった頃やで。あんたのお父さんがおれへんようになったって聞いたのは、その桜植えにいた日や。一週間も経ってなかったんちゃうかいな。」
「え。」
「そやそや、そやでぇ。来年のあんたの入学式のために植えてくれて言われたんや。それで植えに行ったらお父さんが帰れへんねんて言うてなあ。」
私の驚きを他所に、おじいさんはべらべらと話し続ける。私の年齢と父の失踪時が一致している所からみても、年寄りの勘違いではなさそうだ。
「じゃあ、その時は、死体は…。」
「あれへんあれへん。死体どころか、掘り返した後もなかったわ。」
受話器を持ったまま、私は呆然としてしまった。落ち着いて考えようとするが、頭が混乱して動いてくれない。すると、死体は何時埋められたのか。桜を植えた後か、それとも…。
「じゃ、じゃあ、おじいさんは…、違う、えっと、植えた当日は何もなかったんですか、あの、次の手入れの時も…。」
「うん、やっぱり、何もなかったなあ。」
どちらかというと無邪気な感じでおじいさんの声が返ってくる。ふと、水口くんの植木屋犯人説が頭に過ったが、その無邪気さがすぐに打ち消した。 
 とりあえずその時は、一応の礼を言って電話を切った。電話を切っても、頭の中の混乱がまだ晴れない。何故、何をこんなに動揺する必要があるのだろう。分からない。
 しばらくして落ち着いてくると、おじいさんの話を頭の中でまとめてみた。つまり死体が埋められたのは、桜が植えられてまだ土が新しい頃、であり、次の手入れよりはずっと前のことである。掘った時何もなかったのなら、それ以前の可能性は否定されるだろう。つまり、死体が埋められたのは、父の失踪時期と重なるのである。
 考えがまとまると、また手が震え始める。いたたまれなくなって、涙がこぼれた。水口くんに電話しようかと思い、でも、電話してもどうなるものでもないじゃないかと心が打ち消した。こんな時、一人がいたたまれない。警察は、今電話しても無駄だろう、時間外だし、あした電話してもそれ程変わりがあるものでもない。
 一人がいたたまれなかった。涙はまだ止まらない。
「お母さん。」
小さくつぶやいても、部屋の中には物音一つ聞こえなかった。  

 翌日、仕事先から時間を見計らって梨本警部に電話をかけた。それで植木屋の山岸さんと話した内容を説明した。
「分かりました。その植木屋の所在と電話番号は分かりますか。」
電話の向こうの刑事は落ち着いた声で植木屋の所在を尋ねた。尋ねられることを予想して、住所と電話番号はメモして持って来ていた。
「あの、それで、そちらの方は何か分かりましたでしょうか。」
「ああ、はい、お父さんの方ですね。…ところで、榊原さんはお父さんの…何か身体的特徴を現すようなものを持っていませんか。」
「は、身体的特徴、ですか?」
「ええ。」
「いえ、そういう種類のものはほとんど…。」
「そうですか。」
警部の少し落胆したような声が聞こえてくる。父の診断書がみつからないのかもしれない。何といっても、十八年前のことである。それでは失踪当時の写真を持っていませんかと尋ねられ、それなら持っていますと答えると、しばらく貸してもらいたいとのことであった。
 警部本人が家まで取りにくるといったのだけど、明日は休みであることだし、出来れば、あの家か、植木屋の山岸さんの所へ行ってみたいとも思っていたので、私の方から出向く旨を告げた。
 用件がすんでそれでは、と警部が電話を切ろうとしたので、私は慌てて引き止めた。
「あの、父の、失踪した日のこと、何か分かりました?」
「ああ、ええ…いや、今まだはっきりしたことは分かりませんので…。明日にでもお話しますよ。お気持ちは分かりますが…。」
気持ちなど分かってくれなくていいから、と少しイライラしたが、この警部はこれ以上何も言いそうにない。明日にでも聞けることであるし、仕事の途中であったからその時はそれで引いた。十八年も前の人間の動向が分かるものだろうか、と不思議に思ったが、案外何かつかめているのかもしれない。
 緑色の公衆電話の受話器をかけると、テレフォンカードの出るピーピーという音がうるさい。ぼんやり電話を眺めながら、案外つまらない色をしているなと思った。ピンクのコイン専用電話の方がデザインは好きだな、と思ったが、今はそんなことはどうでもいいことであった。
 事務所に向かう階段の前に立つと、何だか妙にうっとおしかった。一人でため息をつきながら、明日は一人で行かなければならないのだと思うと、何だか疲れが込み上げる。しかし、いつまでも他人に頼っているわけには行かない。
 そういえば、今日は水口くんはどうしたのだろうと思った。昨日のお礼など、まだ言っていない。見ない所をみると、売り場の方に出ているのかもしれない。
 しっかりしろ、と頬をたたいた。歳末戦線だって始まる、何もかも、これからが勝負じゃないか。

 警察に父の写真を持って訪れたのは、午前十時頃だった。梨本警部は私が来るのを待っていたのか、すぐに取り次いでくれた。
「山岸さんの方には連絡を取りました?」
「ええ、今朝電話して、午後には詳しい話を聞きに行こうと思って…。写真の方は…。」
言われて警部に写真を渡した。しばらく預かってもいいかとのことだったので、別にかまわないと返事をした。
「それで、あの…父の行方不明になった日のことですけど…。」
「ああ、はい。反対方向の電車に乗ったのを見たという同僚の証言が最後となっているらしいですね。」
「ええ、そうです。…叔父にお聞きになったんですか?」
「ええ。その後のことですね。お父さんが反対方向の電車に乗って…。」
警部は淡々としゃべるせいか、聞いている方はかえって次第に緊張が高まってくる。私が息を飲んで警部の顔をみつめた。
「分かったんですか。」
「分かったというよりも、そうですね…。」
しゃべりはじめた所で、警部は急にくちごもらせる。本当にはっきりしない人だというイラ立ちがまた起こる。
「あなたは、お母さんからお聞きになってませんか。イヤ、叔父さんの話では多分知らないだろうとおっしゃってたんですけど…。」
「父が反対方向の電車に乗ったということですか?」
「いや、その先ですよ。」
その先?
 私は一瞬目の前の刑事が何を言っているのか分からなかった。それでは、母は父が反対方向の電車に乗ってどこに行ったか知っていたということではないか。
「その先って…どういうことですか。」
「つまり、お父さんの行き先ですよ。その、お父さんはその時、同じ会社の若いOLと付き合いがあったらしいと…。」
「OL? 父の愛人ですか?」
「そういうことになりますな。」
 部屋の中が変に薄暗かった。刑事の無表情な顔の口だけが笑って見える。私は、愕然としていた。指輪の話を聞いた時からそういう線もあり得ると自分で考えていたのに、私は自分の耳が信じられなかった。分かっていたはずではないか、母から聞かされていたのは、母が造りあげた偶像の父だったと。
「いや、驚きになるのも無理はありません。今までご存じなかったんでしょう。」
「母は…、母は知っていたんですか?」
「知っていたも何も、当時離婚話が出ていたらしいてすよ。」
「離婚話?」
「と、いうか、愛人の方が捨てられないから、妻と離婚するかも知れないと、あなたの叔父さんに相談に行っていたらしいのです。」
「じゃあ、母は…。」
「当然、ご存じだったでしょうね。」
体が小刻みに震え、歯の根がかみ合わずカチカチと音が鳴っていた。
 母が知っていたのなら、おじいちゃんも当然知っていたのだろう。では、二人して私に嘘を言っていたことになるではないか。
「でも、母は、調べたけどそれ以上のことは分からなかったと…。」
母は笑ってそう言ったのだ。諦めたような、悲しげな微笑みを浮かべながら、確かに、そう言ったのだ。
「多分、あなたが幼かったせいでしょう。それに、あなたはお父さんをご存じなかったから、あなたの中のお父さんを傷つけないように、気をつかわれたんでしょう。」
そんなことは分かっている。あの母なのだから、そんなことは当然ではないか。でも…!
 私を見る警部の目に気付いて、はっと我に返った。動揺している場合ではない。落ち着かなければ…。震えを静めなければいけない。
 警部は待っていた。私が少しずつ息を整えて震えを抑えるのを、彼はじっと待っていた。
「それで、あの、相手の方は、どう…。」
「ええ、相手の方ですね。事件があった二年後に会社を退職し、結婚したとのことです。現在の消息は依然不明、…捜査中です。」
「その人が、父を殺したんですか。」
「いえ、それはまだ…。」
「でも、指輪がなくなってるんだから、その人じゃないんですか。その人が父の指輪を持っていれば…。」
「まだ分かりません。…ですが、もしその人だったら、どうやってあなたの家の庭に穴を掘って遺体を埋めたかが問題ですね。」
「誰かと一緒になってやったっていう可能性もあるじゃないですか。」
「そうですね。それもあります。」
それもあります。その可能性もあります。頭の中で言葉が反復する。可能性じゃない、可能性じゃないんだ。その女がやったんだ。そうに決まってる!
 その後、死体状況などの簡単な説明をしてくれた。死体の男はスーツを着ていたということ、背後から刺されたらしいということなどである。しかし私は話を聞きながらまだ上の空であった。衝撃ばかりが胸を占めていた。
 しかし、警部の前を辞した時には、随分落ち着いていたと思う。確か駅までお送りしましょうかと言われたような気がする。それで私はいえ結構です、と微笑んで断ったはずだ。警察署を出るまでは、どこかぼんやりしていたけど、気はしっかり持って、ちゃんと歩いていただろう。ところが、警察署を一歩出て外を歩き出した途端、ふと自分が何をしていて、どこを歩いているのか分からなくなった。目の前の建物が妙に無機質なものに見えた。
 どこかに落ち着こう、休まなければならない。そうして急いで頭の中を探った。今座り込むわけにはいかないのだ。元地元だから、どこに何があるか、たいてい知っている。そうだ、あの喫茶店に行こう、この前来た時、水口くんと入った所――。
 喫茶店の戸を押すと、カランと音がなった。店員のイラッシャイマセという声が飛んで来る。席につくと店員が水を持って来た。それで注文を待っている店員の目にやっと我に返ったのだ。店員は怪訝そうな顔をしている。そうだ、しっかりしろと自分に言い聞かせた。
 急いでメニューを取って見ているふりをしていると、店員は「お決まりになりましたら、お呼び下さい。」と言って、行ってしまった。それで何とかごまかせたと思って、少しはほっとしたものの、やはり気持ちがひどく高ぶっている。落ち着け、落ち着けと心の中で念じながら、なるべく平静を装うことに努力した。
 それで何とか落ち着いてくると、なんとなく、店の中の様子が目に入り、それをしばらくぼんやりと見ていたが、店員の視線に我に返り、またメニューに視線を転じた。そういえば、もうすぐお昼なのだ。あと三十分もすれば近所の会社もお昼休みに入り、店も混んでくるだろう。最初はその気もなかったが、前の家や植木屋の近所には飲食店がないことでもあるし、ここらで食事を済ませておくのが無難だと思い、軽食を注文することにした。
 店員に注文をすると、また店の中をじっとみつめる。ピアノがある。その上の壁に、星座盤を下地にした時計があった。星の一つ一つが等級にあわせて光るので、とても奇麗だと思った。店の所所にあるライトの明かりが優しい。この辺りは国道が通っていて、他にファミリーレストランもあったのにこの店を選んだのは、この店独特の雰囲気が好きであったからだと思いだした。
 それで、食事が運ばれてきた頃には、何とか平静を取り戻していた。手と口を動かしながら、さっき警察で聞いたことをもう一度復習してみる。
 つまり、母は嘘をついていたのだ。それはおそらく、おじいちゃんも一緒になってのことだったに違いない。父には同じ会社のOLだった愛人がおり、反対方向の電車に乗ったのを最後に消息が不明になったと私は聞かされていた。しかし本当はそうでなく、おそらくは愛人宅に向かったのだろうと推測できる。当時愛人のために父は離婚話を持ち出しており、母は愛人の存在は知っていた。指が切断されていたのは、その愛人が父を殺害した後、指輪を取るためであったと、私は思った。
 もしかしたら、遺体は父ではなかったのではないか。でなければ、あの庭に父の遺体を埋めるのは難しい。
 しかし、植木屋のおじいさんの証言をもとにすれば、あれは十中八九、父に間違いはない。証拠はほとんどないけれど、私の勘では百パーセントそうだという確信があった。
 また星座盤の時計をぼんやりとみつめる。気持ちが落ち着いても、心のどこかがぼんやりしていて今いち集中出来なかった。ぼんやりした頭の横で、あの刑事は確か遺体は後ろから刺されたらしいと言っていたことを思い出していた。それから、スーツ姿のまま殺害されたらしいということも。

 食事を終えて店を出た後、さて前の家に行こうか、植木屋に行こうかと少し考えた。最初はどちらか片一方にでも行けたらいいと思っていたが、結局両方行く気になってしまっていた。それで、先に植木屋に行くことに決めた。後回しにして昼から行くと言っていた梨本警部に鉢あわせても気まづいし、前の家に行った所で庭に入れるはずもないからだ。
 植木屋につくと、平日のせいか、それとも家と事務所が樹木に囲まれているせいか、本当に人がいるのだろうかと思うほどしんとしている。樹木の間の細い道を事務所の方に向かって行きながら、そういえばここは平日来るといつもこんな風にしんと静まり返っていたのだということを思い出した。
 プレハブで出来た事務所で、上がガラスで出来た扉から中を覗くと、事務員や他の社員の姿は見えず主人一人が座っていた。私の視線に気がついて主人は立ち上がり、私がペコリと挨拶をすると主人の方も頭をさげながら滑りの悪い扉をガタガタと横に開けてくれた。
「こんにちわ、あの、榊原ですけど…。」
私がそういうと、主人は得心したようにパッと顔を明るくし、
「ああ、榊原さんの、お嬢さん。お久しぶりです。お元気でしたか。」
「ええ、…先日は電話で失礼しまして…。」
「いえいえ、あの親父で何か役に立ちましたか。」
「はい。ありがとうございます。それで、今日もおじいちゃんにお話を聞こうと思って来たんですけど…。」
「ああ、はい。それなら母屋の方にいると思いますんで、…母屋の方に行きましょか。」
「あ、お願いします。」
主人は先になって私を母屋の玄関まで案内してくれた。がっしりとした感じで、色の黒い、いかにも人の良さそうな顔をしている。玄関の所で奥さんを呼びながら、私を玄関の中に招じ入れてくれた。
 主人は奥さんに私を預けると、仕事がありますので、とまた事務所の方に帰ってしまった。どうぞお上がりくださいと家の中に入れられると、床の間のある部屋に通され、しばらくしておじいさんがヨボヨボとした足取りで入ってきた。
「ああ、お嬢さん、お久しぶりです。」
おじいさんはシワシワの顔をニコニコさせながら座卓の正面に座った。
「先日はお電話でありがとうございました。」
「いえいえ、お役に立てましたかな。」
「はい。何とか…。」
「榊原さんとこは、ずっとお世話になってましたからなあ、引っ越ししはったって聞いた時にはびっくりしましたわ。なあ、そんで今度の死体でっしゃろ。旅行から帰ってくるまで知りませなんでな、まあ驚いたの何の。」
「はあ…。」
「何せ私らが手入れしてた庭ですさかいなあ、しかも桜の木ぃの下言うたら、私が掘ったもんやからよけいびっくりして…。」
座宅の上でもみ手をしていたおじいさんの手の、黒くてシワシワなのが目に入る。シャツからのぞく首の細さもやけに目についた。私の記憶の中ではもっとピンシャンしていたから、何か一度に年をとったように見えた。
「あの、そのことでもう一度お聞きしますけど、桜を植える前と、それから次の手入れから後は、掘り返した後がなかったんですね。」
「ああ、そうそうそう。ありませんありません。よう覚えてます。榊原さんトコの庭の土はなあ、表面が白うて、中の土は湿って黒いんですわ、だから、掘ると後がはっきり残るんです。土ならしてたのもずっと私らでっさかい、他の人が触っても分かるもんですわ。」
そこでおじいさんはひょっと何か思いついたという感じで頭をピクリと動かした。
「そやそや、あの時はなあ、奥さんが最後の仕上げをしはったんですわ。」
「え?」
「だから、あんたのお母さんが、木を埋めてしまいはったんです。」
「はあ、母が最後にならしたんですか。」
「違います違います。最後にならし直したのは私なんです。」
「え?」 おじいさんは言っていることがかみあっていなかった。それで私が眉を寄せると、
「ふん、つまり…つまりですな、木を埋めはったのはあんたのお母さん、土をならしてあんじょうしたのが私ですわ。」
「掘ったのは誰ですか?」
「私です。」
おじいさんは広げた両手を机についてうなづくように言った。
「じゃあおじいさんが掘って、それで、掘った上に母が置いて、で、土をかけたのがおじいさんと…。」
何でわざわざ作業を分けたのだろう、記念植樹の意味合いが強かったからか。しかしそれなら私が植えるのが妥当であったろうに。
「いやいや、違うんですわ。…いや、そうなんですけどな、ちょっと違うんです。私がまず掘って、そんで私が植えようかな思たら、突然家の中から奥さんの声が聞こえてきてな、『山岸さん、ごめんなさい。今日日ぃ悪いみたいやから、明日にしてくれます?』言うて、て出てきはったんですわ。」
「それでどうしたんです?」
「まあ、奥さんがそない言わはんのやったら思て、掘ったのはそのままにして明日続きしてくれたらええわて事でしたんで、その日はそのまま帰ったんです。で、次の日行ってみたら、ついでやから今朝植えてしまいました、て、もう木は植わってたんです。そいで、ちょっと土がいがんでましたんでな、私がならさしてもろたんですわ。」
「つまり…あの桜は母が植えたっていうことですか?」
「そういうことです。」
おじいさんは一人で納得したようにうなづいている。私は気が遠くなりそうな気持ち悪さに襲われた。おじいさんは、自分の言ったことの重要さがが分かっているのだろうか。
「それで次の手入れの時は、掘り返した後はありました?」
「いや、なかったと思いますで。」
その時廊下から「おじいちゃん」と声がかかった。おじいさんが「はい」と返事をすると、するすると障子が開いて、奥さんの顔が現れた。顔を見えるとおじいさんは早速、
「何や、お客さんに早お茶出さんかいな。」
「ええ、いえ、そうなんですけど…。あの、おじいちゃん。」
「何や。」
「警察の方が見えられたんです。」
 植木屋の山岸宅を後にし、山岸宅で一緒になった梨本警部の車に乗って前の家に向かったのは、午後三時を過ぎていた。家に行って別に何をするというわけでもなかった。警部が駅まで送ってくれるというのを、前の家に行きますから、と断ると、では次いでだからお供しますよと車で連れて行ってくれたのである。
 あの時、梨本警部ともう一人、若い刑事が部屋に入ってきた時、梨本警部は私を見て、このまま一人で帰すわけにはいかないと思ったのだろう。私は、動けなかったのだ。前後が全く分からなくなってしまう程に。警部に頬を叩かれるまで、我を忘れていた。でも我に返った途端、体中に震えが起こり、とまらなくなった。警部は私をかかえながら、水を、と奥さんに頼み、それから私に水を飲ませた。ふと警部の体温を感じて正気に返ると、もう大丈夫ですからと座り直したのだ。
 警部もおじいさんも奥さんも、私を心配そうにみつめていたが、私が「平気です。何かお話があるならしてください。」というと、私の方をうかがいながら、警部が何故こんなことになったのか、おじいさんに事情をきいた。おじいさんは、私に話した通りのことを話した。聞きながら警部は、やはり顔色一つ変えなかったが、話を聞き終わってから、桜は本当に母が植えたのか、そして、本当に他の人が土を掘った場合分かるのかどうかを何度も聞き返した。するとおじいさんは、前よりもっと念を入れた様子で、分かると答えた後、草の生え具合や並びが違ってきますからねと言った。また、母は庭のことに関しては鑑賞専門の人であり、自分で土をいじるなどということは、その桜の木を植えて以来、後にも先にもしたことがない。触るといえば、子供の私がすみの方で土遊びをした程度で、しかし子供のいじることだから、触ったかどうかはすぐに分かったという。つまり、桜の下の土は、母が植えた後は自分以外は誰も触っていないはずだということである。
 おじいさんは、それがどれ程の意味を持っているのか分かってはいなかった。桜の植えられた年、父の失踪年、遺体の死亡推定年代が重なるということ、そしてあの桜の下の土を触ったのが、母とおじいさんだけであったこと。そうすると、おじいさんでないのなら、遺体を埋めたのは、母以外に考えられないではないか。おじいさんが掘った穴から、さらに深く掘り下げ、遺体を埋めた後、上から桜の樹を植えたことになる。
 落ち着いて考えれば、母が埋めたというのが一番自然なのだ。私さえ眠らせておけば夜中に穴を掘るのに何の差し支えもない。まして、とがめる人など誰もいない。背中から刺したというなら、それは父が気を許せる相手であり、離婚話が出ていたのなら、愛人が刺すよりも母が刺す方が自然なのだ。私の入学祝いの桜の木を、秋に植えたというのも不自然である。しかし、私にはどうしても信じられなかった。どうしても認めたくなかった。何故なら、母は待っていたのだ。十八年間、失踪宣告も受けず、母はずっと父を待っていたのだ。母は本気で待っていた。あれは、みせかけなどではない。そんなことは、十八年間ずっとそばにいた私が一番よく知っている。
 それに、母は愛している者を殺すはずがないのだ。母は子供の頃から祖母と一緒に祖父が来るのを待っていた。祖父にとって母は晩年になって出来たただ一人の女の子だったから、跡目はつがせなかったものの、母を溺愛したのだ。幼い母は祖父がやって来るのをいつもいつも楽しみにしていた。来る日を待ちわび、そして祖父が帰らぬ人となって二度とやっては来ないと知った時、はじめて失うことの悲しみを知ったのである。
 もう二度とこんな思いはしたくない――祖父を失った時、母は心からそう思ったと、私によく話していた。
 そんな母が、自ら父に手を下したりするのだろうか。
「着きましたよ。降りますか?」
刑事の声にふと我に返った。見慣れた風景が窓の外に見える。
「ええ、一応、降りてみます。」
そう言って、私は車から降りた。ただ来てみたかっただけなのだ。入ろうとか、そんなつもりは全くなかった。外から見た家は、昔と変わっていない。ただ、こんなにも古い家だったろうかと、いまさらのように思えた。家はひっそりと静まり返っている。塀の向こうに庭を見上げると、以前見えていた桜の木が見えなくなってしまっていた。
「桜の木が見えませんね。」
横に立った梨本警部と、もう一人の刑事に話しかけると、
「ええ、切り倒されて、確か庭に寝かせてありますよ。」
と、梨本警部が答えた。
 決して広い庭ではなかったけれど、美しい庭だった。今は無残に掘り返されているのだろう。家から反対の方を振り返った。ここに住んでいた頃は、毎日眺めた景色である。山あいを挟んで民家や向かいの山が見える。景色は、頭の中で思い描いていたよりもずっとこじんまりしていた。そういえば、家を離れたのは半年前なのに、記憶の中のものはいつも小学生くらいのが圧倒的に多かったのだ。景色が小さく見えたのは、そのせいかだろう。
 冬の風景を見ながら、心は妙に冷めていた。先程の動揺とは裏腹、むなしいほど、心は静まりかえっていた。

 駅まで警部に送ってもらうと、梨本警部が駅の改札まで来てくれた。最初は家まで送ると言ってくれたけれど、私が心配いりませんと固く辞したため、結局改札までに止まったのである。
 電車の時間までは、あと三分程であった。
「母が父を殺したんでしょうか。」
ぼんやりとそんなことを尋ねると、警部は静かに私の顔をみつめながら、
「まだ、断定出来ませんね。一応、お父さんと関係があったという方にも当たってみないと。それに、あの遺体があなたのお父さんだという決定的証拠はまだ上がっていませんから。…まあ、それは、近いうちあなたにも協力してもらうと思います。」
「はい。」
私が視線を定めるでもなくじっと一点を見ていると、警部は、
「榊原さんには、他にご家族は…。」
「いません。一人です。」
「この間ついていらした方は…恋人か何かでは?」
「いえ、あの人は会社の同僚です。」
「なるほど。」
そう言うと、電車が来るというアナウンスが流れてきた。気を取り直して、梨本警部に向き直ると、
「それじゃあ。」
「ああ、また何か分かり次第連絡しますよ。」
「お願いします。」
一礼して改札の方に向かった。何か言わなければいけないと心の中でわだかまりが出来る。私は振り向いた。
「母は…。」
梨本警部は眉間を寄せた。
「母は、ずっと父を待っていたんです。本当です。父は、きっと帰ってくるって、母は信じてました。」
それからホームにかけこんだ。扉が閉まる寸前の電車にかけこんで、息がつまりそうなほど苦しかった。
 電車の席に腰掛けながら、窓の外を見るでもなく見ていた。高校生の姿があちこちに見える。もうそんな時間なのかと思って時計を見ると、四時だった。家につくのは五時を過ぎるなと頭の中で計算する。電車の中で私は、全く何もなかったように冷めていた。どこか馬鹿馬鹿しいとシニカルな気分で笑いたくなった程である。しかし、何もしていないのに、いつも長く感じる電車の中の三十分がその日は妙に短かったのも、確かであった。

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