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 緑青の海へ

 ――to the sea of "rokushou"――

 


   ―― 11 ――
   (後半)   


 

 家を出たのは朝の八時少しすぎだった。
 江村には挨拶せずに、祖父ともろくに口をきかずに家を後にした。
 祖母の、四十九日は帰れそうにないかしら、との問いに、まだわからないよ、とだけ答えた。
 もういいかげん、頭を切り替えなければいけない。この現実をひきずっていたら、明日からの勤務や研究に影響が出るだろう。電車にのったら、そこで、故郷はいったん切り捨てなければいけないのだ。
 大西は、駅へと、町のメインストリートを朝日の方角に向かって歩いていた。
 なんだかとてもまぶしい。
 駅へと向かう途中で、通学途中の小学生の集団とすれ違った。この先に、大西も通った小学校があるから、そこへ向かっているのだろう。黒いランドセルや、赤いランドセル、黄色い帽子は朝日の中で、さわやかで、まぶしくて、大西の胸を大きく揺らした。
 もう哀しみの事実は、頭の中で形を保っていないはずなのに、なぜかまぶたを熱くする。
 まだどこか、自分はおかしい。
 何かが完全に、戻りきれていないのだ。
 駅へと入ると、朝のピークは過ぎているらしかった。町の外へと通勤通学している場合、八時代にこの駅にいてはもう遅いのだ。大西も高校生の時は、朝七時半ごろの電車に乗って通っていた。電車はすべて各駅停車で、一時間に四本。あと五分で次の電車が来るというところだったので、きっぷの自動販売機で特急電車の指定席つきの乗車券を買った。
 大西は指定席つきの乗車券を、二つしかない自動改札のうちの一つに通そうとして、ふと、その切符をみつめた。特急停車駅で乗り換えて、その駅の出発時間が八時四十二分になっている。特急電車は確か、一時間に一本ではなかったろうか。
 大西は、腕時計を見た。
 次の電車が来るまで後二分弱、改札口の前に立ち止まる大西の横を、スーツ姿の男性がよけながらイライラと通り過ぎて、彼は改札の前からよけた。
 それから、きっぷの自動販売機まで戻ると、画面の案内に従って次の特急電車の時間を検索する。やはりちょうど一時間後だったので、大西は一度買った切符を販売機に差し込んで、列車変更のボタンを押した。一時間後のものに買いなおすと、彼は鞄をそばにあったロッカーに放り込み、それから駅を後にして、歩き始めた。
 なぜか鼓動が激しく音を立てている。
 自分でもなぜ、それを確かめたいのかわからなかった。そこにいって、何があるわけでもないのに、何もないのに、どうしても行かずにはすまなかった。
 今いっておかなければ、きっとずっと、ひきずって、やり残したもののようにずっと頭の中に残ってしまうことだろう。だから、ここでその始末をつけておきたかったのだ。
 彼は時計を見ながら、あの海岸沿いの遊歩道へと道を歩いた。
 おそらく、祥子が五歳の子供を連れて歩いたのなら、今の自分よりもっと時間がかかっただろう。役所の人間が、中に人がいないことを確認してしめたといったのなら、祥子は五時過ぎに一度閉められた鍵を開けたはずなのだ。それは五時を過ぎてから休憩所に到着したはずで、すると、五時を過ぎてコンビニの前でアイスクリームを食べていた小夕実に祥子が電話をかけたのはいつだったろう。
 祥子が電話をかけるのなら、それは家に帰ってからだろうか。
 案外彼女も携帯電話を持っていて、帰る道すがらだったかもしれない。祥子が休憩所に隆をいれ、その場を離れて小夕実に電話をかけた。小夕実が到着するまで、どれほどの時間だったろう。彼女らがいただろうコンビニの前から、自転車で走ってきても、十分足らずなのではないだろうか。仮に十五分かかったとして、おそらく隆が閉じ込められるまでの時間は二十分程度ではないだろうか。仮に三十分かかったとしても、その間に子供が待ちくたびれて寝るだろうか。
 祥子に殺意がなかったのなら、彼女は隆に何か声をかけていったろう。その後、小夕実がやってきて、隆を下ろしてやるはずだった。小夕実は気づかなかったが、その時、隆は、実際その時眠っていなくて、小夕実に声をかけたのではないだろうか。
 本当に過失なのだろうか。
 小夕実には、全く悪意はなかったのだろうか。
 大西は考えながら、住宅街を抜けて海岸沿いに走る国道を海側へと渡り、案内標識にしたがって遊歩道のなだらかな坂をのぼっていった。
 この坂を登りきると、比較的高い位置から海を見渡すことができる。
 遊歩道にそってめぐらされた柵も丸太様の柵でおしゃれに出来ている。柵の向こうは海が控えていて、遊歩道の坂の向こうは断崖絶壁ではなく、草の生えたなだらかな斜面が海へと落ちていた。
 問題の休憩所は、こちら側からのぼって一番手前にあったはずだ。今は取り壊されて、その跡もないらしい。大西は自分の記憶を頼りに、休憩所のあった位置をたどった。あそこは、坂もつきて、断崖の見える場所だった。背後は山で、なだらかに整備した上に、植樹してあったはずだ。あの場所からしばらく道が直線になっていたはずで、その先の道は、山に沿って曲がっていた。
 大西は覚えのある景色で、足を止めた。
 しかしそこにはやはり、休憩所はなく、まだつぼみの固い大きな桜の木があった。樹齢は十年か十五年か、その周囲だけが広く、まるで桜がそこに居座るために用意された土地のようになっている。
 大西は海から吹き上げる風に背を向けて、その桜の木を見上げた。
 当日はおそらく、夏の日暮れ時で、こんなにさわやかな春の日差しではなかったろう。彼は遊歩道の舗装された道を基準に、おそらくこのあたりに休憩所があったろうと見当をつけて、桜の木を見上げた。
 確か外から見ると、見上げたあたりに小さな丸い小窓があった。開けられないはめ込み式のもので、早い話がただのロフトの明り取りだったのだ。当時まだ中学生だった大西は一度だけ上がってみたことがあったが、まるで小鳥の巣のように外がのぞけたように思う。暗いロフトの床の上から、目の前に小さく、遠く海がのぞけたが、のぞく前ほど、のぞいたときにはドキドキしないものだった。
 そして、ドアがあったのはこのあたりだろうか。半分がまるごと二枚式のドアで、鍵は、確か合わせのところに差しんでかけるようになっていたのだ。
 あの日、このドアの位置へと、ロフトの上から、隆は鍵を閉められて、慌てて、ここをのぞいたりしなかったろうか。
 声を、かけはしなかったろうか。
「おおい。」
大西は小さく声を出してみた。
「おおい。」
今度は大きな声でいってみた。
「おおい!」
叫んで、それから後ろの海を振り返った。
 海風が彼の髪をかきあげる。それよりも、海はあんなに穏やかなのに、空はこんなに晴れているのに、この耳をおおう海鳴りの音は―――こんなに海鳴りが耳に響いて、声を包んでは、ロフトの中からは叫んでも、小夕実の耳には届かない。これに風がふいて、木が揺れていれば、さらに声は届かないだろう。
 大西の目の前に、午前中の陽をうけた、穏やかな海原が広がっている。空も、海も大きく広がり、障害物も何もないから、心も晴れんばかりの視界だった。
 彼は呆然とした。
 自分は一体何をしているのだろうと。
 何のためにここに、何を確かめにきたのだろうと。
 たとえ小夕実が、殺意があってその鍵を閉じたとして、その結果にどれほどの変わりがあろうか――いや、その前に、あの子は紀代美にきちんと言ったじゃないか。「あの時、中にはしごがあって、壁にたてかけてあったのに、なんで、あたしはちゃんと」
 確認しなかったのか、と。
 なぜ、ロフトにのぼるときに使うはしごが、壁側にたてかけてあったのか、ロフト側にたてかけると見えにくかったからか、誤って壁がわに倒れたのか、それとも、小夕実が来る前に隆が自分で下りては危ないから離しておいたのかは、わからない。だけど、もうこれ以上戻らない時に縛られた、決して裁かれないあの人たちの、その原因となった出来事を語るのに、どうして彼女らがウソをつく必要があるだろうか。
 そこにウソを探したとして、一体何になるというのか。
 一体自分は、何を探していたのか。
 大西は、きっとそこに、ドアがあったろう場所に、顔を両手で覆ってひざまずき、うずくまった。
 彼は期待したのだ。
 どこかに、この、苦痛の抜け道があるのではないか、と。
 あったことが、なかったことにはならないのか、と。
 小夕実の命をひきとめる、最後のたずなを、自分が握っていたのに、つかみそこなった、その罪から、どうにかして逃げ切れるのではないか、と。
 彼は、声を殺して泣いた。
 許しを請うて泣いた。
 きっと、祥子と小夕実の犯してしまった過失を、特に、小夕実の小さな小さな過失を、隠蔽してしまった町の連中は、「鍵をかけたくらいで」としか思っていなかったろう。ところがどうだ。
 この胸に、深く刻みこまれた、いのちの重さはどうだ。
 永遠に、心の中に打ち込まれた、罪悪感のくさびは、どうだ。
 彼は握り締めた拳を地面について、顔をあげた。顔をあげながら、小夕実が何度も何度も繰り返しただろう、あのドアごしに見た、壁にたてかけられたはしごの光景を思い浮かべた。
「まちがえたんだ。」
 大西はまた、歯をくいしばった。
 いくらも選択肢のあった迷路で、わざわざよってたかって、最悪の選択をたどりながら、一人の少女を地獄に落としたのだ。
 落として、生き長らえさせた。
 この、軽々しい命の扱いをどうしようか。
 どの道も、それは最良の選択のはずだった。でもそれは、それぞれの中で最良の選択だっただけで、小夕実にとっては最良の選択ではなかったのだ。
 彼自身も――――。
 うっとおしかった。
 あの憂鬱な少女が、うっとおしくてならなかった。
 いつ帰ってくるの、という言葉がいつも、うっとおしくてならなかった。
 でも、心の病とどこかで気づいていたなら、無理矢理でも田舎からひきとって、治療を受けさせればよかったのではないか。
 伴侶と決めた女じゃないか。
 共に生きるはずの、半身ではないか。オレが救ってやらなければ、他にいったい誰が救うのだ。
 まちがえたんだ。
 たとえ結末がそうなるつもりはなかったとしても、まちがえたことに変わりはない。
 まちがえたのに、訂正がきかない。まちがえたのに、裁かれもしない。彼は永遠に、小夕実の死を繰り返すのだ。小夕実は死んだのに、もう一度、繰り返し、この胸の、なかで、あの悪夢ばかりが、生き続ける。
 なんという、報いだろう―――。

 
 昼過ぎには、家に戻れた。
 けだるい町のけだるい建物、今の自分にはとても、お似合いに思える。
 昼間だけあって家のあるビルの扉は、開け放たれていた。一応郵便物をチェックするのに、ポストまで行き、鍵をあけ、中を開いてみた。
 前のマンションから転送されてきたものが一通と、ちらし、それに、何かメモが入っているらしい。何気なくメモを開けると、乱雑な男の字で、「新しい鍵」と書き出されていた。大西は心臓が止まるような衝撃につつまれ、それから、震えながら口を手で覆った。体からしとど汗がふきだしている。震えながら、続きの文章に目を通したが、意味が頭に入ってこない。最後に管理人である老人の名前があって、もう一度落ち着いて文章を読み返すと、「新しい鍵につけかえましたので、お帰りになりましたら管理人室までご足労願います。」と書かれていた。
 がくがくと震えながら、涙と一緒に、侮りとも嘲りともつかない笑いが漏れていた。
 救われるときが来るのだろうか、と笑いの中で考える。
 考えると同時に、自分が突き落としておいて、どうして自分が救われるのだろう、と、思い直した。
 誰も知らない絶望を抱え続けて、さらに、いつものように、この生を送らなければいけない。
 傷なのだろうか。
 それは一体、誰の痛みなのだろうか。
 彼は、鞄の中にポストの中のものを仕舞うと、もう一度ビルの入り口へと引き返した。管理人室に、鍵を受け取りに行くために―――。 

 

 その夜、女は現れた。
 かけられた鍵、もう大西と管理人以外、誰にも開けられないはずの鍵がかかっているのに、女はうつつの実体を保ち、大西に迫った。
 そして大西は、癒しともつかぬその快感の中で、それは夢なのだと思った。
 もう現実には見ていけないものを、彼は夢で補っているのだと思った。
 なんと自虐的な夢なのだろう。
 自虐的な夢に、大西は目から涙がこぼれるのを感じた。とめどなく流れる涙に、女はその涙をぬぐい、優しく口づけたような気さえする。
 一体オレは、なぜこんな女を夢みているのか。
 一体オレは「女」に、何を、映しているのか―――。

 

    1部 ――「鍵」―― 完

 

 


 
 ここまで読んでいただきありがとうございます。いかがでしたか。
 現在?部は一章まで進んで停止した状態になっております。
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咲花実李(二〇〇八年一月末日)


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