最初、この『残酷な神が支配する』を読みはじめたとき、とても意外な印象を受けた。萩尾望都という人が、こんな日常を舞台にした人間ドラマを書くとは思えなかったからだ。萩尾ファンがこれをきいたら、「何を言ってるんだ」と激昂するかもしれないが、私の中での萩尾というのは、SFやファンタジーを題材にした、どちらかというと抒情的で淡白な印象のある作家だったのだ。
だから『残酷な神が支配する』というタイトルをきいたときも、タイトルからして、また何かのSF作品ではないかと思ったほどだ。人に勧められるままに作品を手にとり、そして、前評判通りに話の中に引き込まれていった。
私がこの『残酷な神―』を手にとったときは、話がクライマックスにかかったところで、最終回の感想というものもあがってきてはいなかった。
最終回の後いろんな感想があがってきていたが、一番多かったのが、「ひっぱりすぎではないか」という感想だった。私はコミックスを主にして読んでいたので、その感想はとても意外に思えた。この6巻までのジェルミの事件を読んだならば、20巻は確実に超えるだろうと思っていたからだ。精神的にダメージを受けた人間が、そこから立ち上がるのは容易なものではない。カウンセリングを受けて軽いもので早くて1年だという。コミックス6巻で半年もかかっているのに、あと一年かかったとして最低でも最終巻は18巻だ。
ただでさえ、萩尾は非常に丁寧に6巻までの過程を描いている。主人公ジェルミがどんな虐待を受けて、そして心を殺されていったのか。あの丁寧な過程を経れば、逆にその心が生き返るには、同じだけの丁寧さで描くと、どうしても20巻は超えてしまうだろう。それが私の読みだった。
で、いざ最終巻が発売されて読んでみると、あまりに予測通りのラストだったので、かなりがっかりしてしばらく読み返すことなどしなかった。そして、本当に他の読者さまと違って、精神的に萩尾が耐えられなくなって急いで終わらせたんじゃあないのか、という印象さえもったものだ。とにかく、もの足りなかった。
ジェルミがもう少し、幸福を感じてから終わってもよかったのではなかったかと。
それでレビューを書き出す段になり、あらすじを書くために読み直して改めて気がついた。わざわざ「事件」だけを先に書いて、イアンに萩尾はこういわせているのだ。
「ある悲しみの話をしようと思う」
これは、悲しみの話なのだ。悲しみの話であるから、あそこで終わりで正解なのだ、と、私は気づいたのである。そこでもう一度この作品を丁寧に考え直すと、実はほぼ萩尾の考え通りに話が進んでいたのではないかと思った。
萩尾の考え通り、というのは、ストーリーの上で、ではない。その底を流れるテーマと、彼女が必要としていた「踏まえなければいけない登場人物たちの精神的段階」ということだ。
二巻目のカバーの見返しにも書いてある。「この物語は3部構成になっています」と。確かに本当に、最後から振り返ると3部構成になっている。1部が、ジェルミが事件を起す冒頭のシーンまで。これは萩尾が自身で述べるとおりである。そしておそらく2部が、ジェルミがおちて、そのジェルミのおちたところまでイアンがおちていく決心をするまで(コミックスでいうと11巻あたり)、それから3部が、イアンによってジェルミが、その悲しみから救いあげられるまで、である。
ストーリーというのは、最初すべて出来上がっているようで、完全ではない。確実に長くなるとわかっている複雑な話を、3部構成と決めた時、確実に決まっているのは、最初の1部くらいまでで、後はストーリーのおおまかな流れができているといった感じである。それが、目標地点が決まったとき、今度はストーリーを運んでいく上で必要な点をおさえて、それを線でつないでいく。点は、たとえば3部なら、ジェルミの告白、間にそれぞれ両親たちのエピソード、周囲の心の病をもち、かつジェルミの症例を解く上で関係のある説明的なエピソード等である。
それらのストーリーは、3部構成と決めてあり、1部であれだけの冊数と展開を要したのなら、確かに同じ展開と速度を要しないと、全体のバランスが悪くなってしまう。
二巻のカバーには、3部構成と書きながら、物語そのものは最初(6月)から始まってストーリ時点で1年(翌6月)ほどで終わる予定にしていると書いている。これはあがってきた作品からすると、大幅に違っていて、それを根拠に、なんだ萩尾は延び延びに書いて延ばしているではないか、と思われるかもしれないが、実際は、最初の時間設定の見通しが甘かったというだけのことだろう。ストーリー全体の長さやエピソードは予定していた通りだと思うのだが、実際一度殺された心はそう簡単によみがえるものでもないし、登場人物の心理状態というものは、作者そのものが経験していたのでもない限り、書いてみないと手に取るようにはわからず、書いた後でその再生にどれほど時間が必要かというのがわかってきたということなのだ。
このストーリーは、「魂の殺人」の物語である。
サイコ・サスペンスと書き、ジェルミが二人の親を殺したようでありながら、実は殺されたのはジェルミの心だった。
心が次第に殺されていき、再生するまでのことを書いたのであるが、ジェルミが殺人を犯すまでの段階、あるいは、ジェルミが心を殺されて、愛されるということの意味をジェルミが喪失する段階を、萩尾は納得いくように書いて、そこからまた丁寧に引き上げるように書いている。
でも読み進めるうちに、ジェルミの心を殺したものは、グレッグの虐待だけでなかったことが次第に解かれていくのだ。それはそっと、話の中に織り込まれて描かれていく。
ジェルミがあの虐待を招いたのは、サンドラの幸福を願ったからだった。しかしその願う心は、その親達から受け継がれた呪縛であるのだとわかる。サンドラの祖母のイギリスに帰りたいという願い、母のように不幸な人生と死を迎えたくないという願い、夫に愛されて幸福な家庭を作りたいという願い、それらが複合されて、息子のジェルミに植え込まれてしまった。彼はその母親の願いを壊さないために生きるよう育ってきてしまった。母親の夢をかなえておくのは、夫だったはずなのに、その夫の役割を息子であるジェルミが引き受けてしまったとき、母親=自分である夢を壊さないため、その不幸を引き受けねばならなくなってしまう。
また、グレッグそのものも、ジェルミと出会って変態的欲望を育てたのではなかった。
自分の育った愛のない家庭のせいで、完璧な愛ある家庭を夢みた。夢見てそれを最初の妻に強いた。それに息詰まった妻は死んでしまう。その妻との傷が、妻との関係をだめにしてしまったボストンでであった、妻の形見である対の刀のつばを所有していた親子に託されてしまう。妻への愛をサンドラに、妻への憎しみをジェルミに。あるいは、妻の愛した別の男をサンドラの元夫=ジェルミに仮託して復讐しているかのように。
サンドラの、ジェルミ=サンドラという図式ができあがってしまっていたとき、押し付けられてしまった価値観の中に、ジェルミ自身がどれほど存在したろうか。「私の愛を受け入れろ」といっては、セックスを強要したグレッグと、それはいかほどの相違があるだろう。気持ちを押し付けられ、それを「愛である」と既にサンドラから学習してしまっていたジェルミは、親によって心を支配されてしまっていて、あの虐待で「いけにえ」としてささげられることで、具現化してしまったのだ。(C)少女マンガ名作選
それを、自分の分身としてでなく、あの日の自分への復讐ではなく、彼そのものだけを愛したイアンが救うのは、当然といえば当然なのだ。二人の親から与えられた傷を、ほぐして、癒して、救った。ジェルミという人間を、一人間として扱い、欲望の道具ではなく彼を愛し、愛をそそぎ、誰かの形代や分身としてしか存在しなかった空っぽな彼の中に、自立的である、彼を目覚めさせたのだ。
ストーリーの中では、専門的なことがわからなくても理解が通るように、いろんなケースが紹介されている。子供の頃に受けた傷が、自分の子供の手術でふいに蘇り、自分の幸せの価値観を押し付けようとして、結局は子供の自我を殺してしまい自殺に追い込むナディアの母、あるいは、自分と相手の区別がつかなくなるあまりに、自分を犠牲にして、子供ができることでようやくその傷に気づいてしまったバレンタイン。
専門的知識を頭に入れたとして、それを文面で説明してしまうのは、学者の仕事である。ストーリーを組み立てるには、自然に、世界に溶け込ませて読者にわかりやすく説明していかねばならない。それは作り物であるから、ともすれば、その「作り物」が見えて、下手をすればくどくどしく説明してしまうのであるが、萩尾は間違えてもそんなことはしない。
事件を設定して、本当に読者の知らないうちに説明し、解き明かし、終わらせてしまった。たくさんの不可解やわだかまりを、知らないうちに溶かしてしまっていることに、気づいている読者がどれほどいるだろう。
あれより長ければ、おそらく非常に足りない感じを残して終わっただろう。急いで終わればバランスを崩し、専門分野の人間にも不評を買い、しかしあれ以上長引かせては非常にだらしない作品になったことだろう。
話の面白さに引きこまれて、早くイアンの恋が成就して幸せになってほしい、ラストシーンに持ち込んでほしいと待ち望んでしまう。仕方ないだろう。読者は傷を負ったジェルミではないのに、ジェルミの気になってイアンの愛に酔いしれているのだ。しかし実際、心の傷を負ったものの回復を待つというのは、あれぐらいもどかしいものだし、回復する本人ももどかしいものなのだ。
話の面白さと、イアンの愛にひたって読むのもいい。あんな男と出会って、あんな風に愛されてみたいだろう。そういう話の部分を楽しんでも、もちろんOKなのだ。でも、もし余裕があったなら、気づかないうちにたくさんのわだかまりや、不可解を解いてしまっている萩尾の罠と、その抒情的表現力を含めたテクニックを、一度読んだあと、もう一度読み返して、気づいていただきたい。
ちなみにサンドラは、二人の関係には気づいていたが、虐待には気づいていなかった。救うどころか、自分の愛を奪う男を遠ざけようとしていたのだと気づいた読者は、どれほどいるだろうか。ジェルミとイアンの視点で描かれるあまり、語りの罠に落ち、サンドラを憎んではいないだろうか。サンドラからのお別れとも許しともとれる、最後のキスが描かれた、その価値もわからずに。
サンドラそのものも、罪を犯しながら、この事件と「残酷な神」の犠牲者なのだ。彼女もまた、罪と気づかず罪を犯してしまったにすぎない。
語ってもつきないほど、ベテランの技術に埋め尽くされた作品である。