コメント:十年に及んで断続的に続けられたシリーズだけあって、神坂自身の絵柄もストーリーの作り方もシリーズ全体では初期から終盤にかけて大きな変化が見られる。シルクロードシリーズだけを単独で読んでみるのもいいが、このシリーズと並行してどんな作品が描かれていたか、と思いながら読んでみると、またいっそうの深みがあるかもしれない。
とりあえず、シリーズ始めの、コミックスで二巻分に相当する部分は、いわゆる神坂が属した同人誌「作画グループ」色が色濃く出ているのに対し、シリーズが進むにつれて、どこかに『小春日和』『ドイツ日和』『T.E.ロレンス』の雰囲気を漂わせながら描かれていく。つまりは、最初はSF的色彩が濃かったのに、そこからレトロな感覚に移って、砂漠の色、現地伝説色が濃くなり、シリーズ後半は人間ドラマの色彩が濃くなっているといった感じだろうか。
私自身は、この砂漠の国の人間ドラマが強くなる、コミックス五巻目「砂漠幻想」あたりの作品からが好きである。正直言って、シルクロードシリーズの初期は、作品の中枢となって動かしていく十人のテングリ(神)の設定を理解するためには、必要なのだが、読まなくてもまったく問題はないようにも思う。第一、このテングリがそろうまでのエピソードに相当する部分は、「ちょっとこの展開は強引なのでは…」「この設定には無理があるのでは…」という箇所がなきにしもあらずなのだ。そんなトントン拍子に話が運ぶのか(当時としては枚数の限られた中であったし、当時の周囲の作風が許したのだろうけど)とか、長が死んだり子孫が残ったり変じゃないか?とか、もしそれなら、十人ばらばらになったら、不老不死も終わるのでは?とか考えてしまう。早い話が、初期神坂作品の設定の甘さを感じずにはいられない。
が、シルクロードシリーズというのは、このテングリの設定に目をつむれば、何とか読みこなせる代物であるし、一つ一つの短編として読めば、一度読めば忘れられなくなる秀作、あるいは、一度読むと記憶に残ってしまう画がそこかしこに存在する。
おそらくシルクロードシリーズ自体、最初作ったときには、あれほど長くなる予定ではなかったろうと思う。テングリが生まれるまでの、一度人類が滅亡する前の世代にまつわるエピソードが終わったあたりから、作者神坂が他の作品を描いているうちに描きたくなった、あるいは砂漠を歩くうちに描きたくなって描いた作品、というのが圧倒だろう。十人のテングリあるいは、シルクロードにまつわる不思議という設定を準備しておいて、順々に気が向くままに作品を描いていったという感じだったのではないだろうか。連載されたシリーズではないから、連載ものの気負いもなく、十年にわたって描かれているので絵も描き方も最初と最後を見ると比べ物にならないほどに変わっていて、その分、神坂智子の作家としての成長、作家としての歴史を見るようで興味深い。
私自身は特に『T.E.―』を描いていたのと並行して書かれた頃の作品が好きで、亡国の自殺を図る娘を思わず助け、その瞳になき母のおもかげを見たテングリの長のストーリー「聖者の泉」や、国外持ち出し禁止の繭を、愛の証に国外に持ち出す漢王朝の姫のエピソードを描く「金の髪・金の繭」、モンゴル・タングートの遺された財宝とテングリのチビ長との交流を描く「黒水城の魔女」、あるいは「巻き毛のカムシン」「波斯の井戸」などが、ちょうどシルクロードシリーズに出会ったのも、このあたりの作品だったのもあって、思い入れも深くて気にいっている。
どちらかというと、そういった時期の作品の登場人物たちはあまり幸福にはならないし、中でも心に残るような秀作の中にはアンハッピーエンドの作品が多いように思う。それもその秀作陣は、神坂独特の毒気のでているもので、人間の欲や身勝手さや、初期には見られない、計算された偶然などが招く悲劇がそこかしこでストーリーを運んでいき、「あ」と思うラストへと導かれて、彼女独特の人間ドラマを短編で楽しむには、格好のテキストであろうと思う。(C)少女マンガ名作選
残念ながら、シルクロードシリーズは、この原稿を書いている現在、新刊で手に入れるのは難しい。難しい分、古本で手に入れるのなら、できれば、最初から順に読もうとせずに、上記にあるような中期頃のものから読まれることをお勧めする。
中盤作品あたりから読み継いでいくうちに、どこか不思議な空気の中で、死と永遠を問い続けながら、終わりがあるから何かのために生き、また、命はいとしいのだろうかとも思いたくなってくる。ただ描くことから、何かの答えを求めつつ、かけぬけたような、そんなシルクロードシリーズ。
一気に読む必要もない、どこかで、どれかを手に入れられれば、ゆっくりと、一つ、また一つと味わっていただきたい。