少女マンガ名作選作品リスト

担当者:咲花圭良 作成日:2007/4/05

作 品

アラベスク

作 者

山岸涼子

コミックス

りぼんマスコットコミックス(集英社・全四巻・一部のみ)、花とゆめコミックス(白泉社・全八巻)、白泉社文庫全四巻

初 版

第一部初版はりぼんマスコットコミックスで刊行。
その後、白泉社花とゆめコミックスで1975年6月20日に第一部として刊行。
第二部は以下の通り
?1975/4/20 ?1975/8/20 ?1976/1/20 ?1976/3/20

初 出

第一部は『りぼん』(集英社)にて昭和46年(1971年)10月号〜昭和48年(1973年)4月号で連載
第二部は『花とゆめ』(白泉社)で1974年創刊号(1973年12月)〜1975年22号(11月)連載

登場人物:ノンナ・ペトロワ(主人公)、
ユーリ・ミノロフ(ソビエトの星と呼ばれる天才舞踊家)、
アントニーナ・スホワ(通称アーシャ・ノンナの寮の同室の先輩であり、親友)、
マイヤ・イワネンコ(一部でのノンナのライバル)、
トロヤノフスキー、イリナ・コルパコワ、レオ・リジンスキー(映画監督)、
ライサ・ソフィア(愛称ラーラ・ボリショイバレエ団の天才プリマ・一部のみ)、
ミニコフ(ボリショイバレエ団員)、アリサ・パフスカヤ(一部のみ)、
オリガ・デミードワ(一部のみ)、アレクセイ・デミードワ(一部のみ)、
クレール・マチュー(一部のみ・フランス人)、ロベール(一部のみ・フランス人)、クレール・モットー(一部のみ・フランス人)
エドアルド・ルキン(通称エーディク・二部のみ)、スヴェトラナ・エフレモワ(通称ヴェータ・二部のみ)、セルゲイ・ラバウリー、
レミル・ブロフ(二部のみ)、カリン・ルービツ(二部のみ・バレエピアニスト)、リュミドラ(二部のみ)、ザカレフスキー(キーロフバレエ学校副理事長)他

あらすじ:時は一九七〇年代、まだペレストロイカなど影も形もない頃のソビエト連邦(現ロシア連邦)が舞台である。
 そのソビエト連邦のウクライナ共和国キエフにあるキエフ・シェフチェンコバレエ学校の六年生ノンナ・ペトロワは、十六歳。母がそのバレエ学校の教師、姉イリーナも同じく一年上の生徒という、バレエ一家の中に育った。しかし、ノンナは一六六センチとバレエをやるには大柄で、それ故に優雅さにかけ、演技がダイナミック。特に一つ違いの優雅な姉の演技と比べられ、才能のなさにバレリーナとして生き残れるかと自身で危ぶむほどだった。
 ある日の夜、家をこっそり抜け出して学校までやってくると、ノンナは一人で進級テストの「白鳥の湖 アダージョ」のレッスンを始めた。暗闇の中で練習しながら「ここでパートナーの背が高ければ」と思っていたところへ、男の手がノンナの補助に入る。暗闇で相手が誰かわからないまま踊り続けたが、信じられないほど踊りやすい。ところが、気がつくとその補助に入ったはずの男役は消えていた。
 翌日感動で眠れなかったノンナは、進級テストに遅刻、相手役が他の人と踊ってしまって既にいないため、レニングラードキーロフ・バレエ劇場のトロヤノフスキーと共に視察にきた男と踊ることになった。そして、その男こそが、昨夜ノンナの補助に入った謎の男であり、ソビエトの金の星と呼ばれる秀才ユーリ・ミノロフだったのだ。
 相手役の背の高さもあって、今までになく上手に踊れるノンナ――結局ノンナは、姉のイリーナが抜擢されるという周囲の期待とは違って、レニングラード・バレエ学校の編入メンバーとして選ばれたのだった。

 さっそくノンナはレニングラード・バレエ学校に編入した。つく早々にみんなの前でグラン・フェッテ・アン・トールナン(『白鳥の湖』第三幕黒鳥のオデールによる三十二回の大回転)をやらされるのだが、二十一回目でノンナは転倒し、みんなの笑い者になった。しかし、数名の優れた者は笑わなかった。ノンナのその回転に、ライバル心さえ覚えた者もいた。
 こうしてレニングラード・バレエ学校でのノンナの生活は始まった。
 寮では親切で才能のある一年上の先輩アーニャ(アントニーナ・スホワ)が同室となった。(C)咲花圭良
 レニングラード・バレエ学校の同級生たちは、寸暇を惜しんでレッスンする。またそのレベルの高さにノンナは圧倒され、すっかり自信をなくしてしまう。そこへ、このレニングラードへ来ることを促したミロノフが、「まだまだレニングラードのレベルではない」と、ノンナに居残りの特訓を行うことになった。
 毎日毎日特訓に励むノンナ。しかし、あまりの特訓の厳しさに、退学してキエフに帰ることを決意する。
 帰り支度を始めるノンナに、同室のアーニャがわけをきくと、ミロノフは才能のない自分をここに呼び寄せてしまい、それでは自分の面子がたたないからこうした激しい特訓を強いるのだ、それは真っ平ごめんだというのだ。しかしアーニャは、最初のノンナの大回転を見たときに「スペースパターンが他人より大きく、ノンナには人にはない才能がある」と思ったといい、帰ることをひきとめる。学校の休暇の都合上退学届けを出すまでまだ三日あるからよく考えたら、というものの、ノンナの心は帰郷へと向かっていた。
 しかし三日目の夜、とうとう踊れないことを我慢しきれなくなったノンナは、夜中に一人レッスン場へと向かう。そこで、ミロノフが一人で練習しているのに遭遇するのだった。
 結局その練習にノンナも参加。結果、ミスもなく落ち着いて演技できるようになり、プロも他校の生徒も参加するというモスクワ・バレエコンクールの校内で数少ない出場者の一人として抜擢されることとなった。

 この後ノンナは、コンクールでは入賞しなかったものの、大舞台の主役に抜擢され、スターへの階段をかけのぼっていくことになる。

コメント:山岸涼子の作品は、なかなか重い。
 重いだけあって読むのに時間もかかる。
 しかしその時間をかけても、読みとおさずにはいられない魅力もある。
 正直いって、このコメントを書くにも相当時間を費やしている。正確にいえば、書くまでに、相当時間を費やしている。
 一度目に読み返して、書誌情報を作り、登場人物をならべて、コメントまで走りきれずに、やめた。また読み返して今度はあらすじを書いたが、やはりコメントまで走りきれずに、やめ、仕方なくその次に読み返したときは、付箋をつけてメモをとり、そして今にいたる。
 そういった、過程を経て書く、今回の『アラベスク』コメントである。
 難攻不落の城のようだ。

 
 『アラベスク』は、山岸涼子が『日出処の天子』を書き上げるまでは、彼女の代表作であった。いや、中には、『日出処』よりも、『アラベスク』を代表作としてとらえている人もあるかもしれない。
 以前読売新聞に、記者が、普段は少女コミックなど読まない父親に進められて読んで、夢中になって読んだ作品としてこの『アラベスク』をあげていた。記者の父親というのだから、相当のご高齢であろうに、その人をもその魅力にはめこんだということなのだから、相当のツワモノである。
 確かにこの作品は、クラッシックバレエのマンガである。時期的にもスポーツ根性もの、いわゆるスポ根ものが、マンガ、アニメ、ドラマのジャンルを問わず熱狂的にはやっていた時代に書かれたもので、バレエというのだから、半分は演劇同様スポーツの要素を含んでいるので、やはりそういう熱い作品と思いきや、実はそうとも限らない。
 体全体で表現し、情熱は傾けねばならぬが、やはりこれは芸術でもある。
 芸術であるからこそ、なのか、それとも山岸涼子自身の気質によるものなのかはわからないけれども、なかなかに深い。バレエというジャンルにとらわれぬ、何か大きな全体に通じるものがあって、読みごたえがある。
 そして、この作品が多くの人に愛され、年齢を問わず、男女を問わず愛されるというのも、この作品のそこここに流れる、人を納得させる『真実性』にあるのではないかと思うのだ。(C)少女マンガ名作選
 たとえば、いくら天才であっても、その才能をおごり、高慢ちきになってはそこで終わり、もうその才能はそれ以上伸びないということや、また謙虚であるからこそ人一倍努力して伸びるという考え方も、バレエに限らず多くの人を納得させるところであるし、また、人の心をうつものが、穢れを知らぬ清らかさではなく、苦労に苦労を重ねて悩み苦しみ、時には恨み、それを乗り越えて磨き上げられたが故の高潔さであり美しさであるというというのも、納得させられるところであろう。
 さらに、一流であるための条件みたいなものがそこここに書かれているが、ノンナの最初の方のモノローグで「本を読むにも映画をみるにも道を歩くにもバレエに良かれと思うことしかやってこなかった」というセリフや、ソビエトの星とまで言われる天才舞踊家ユーリ・ミノロフが、ノンナの稽古をつけたあと、深夜まで一人レッスンを重ねていたりというシーンをみるにつけ、本当の創作家、一流になるための条件とは、このようなことは当然なのではと思い知らされる。
 かのサッカー日本代表の三浦知良選手も、ベテランになっても朝一番にやってきて基礎練習をし、新人チームメイトがそれを見習ったとか、大リーグのイチロー選手もやはりあれだけ大選手になっても練習を怠らない姿をみて、WBCで同じチームとなった選手が気合いを入れなおしたという話があるが、一流のものどもは、他人から努力と思われることも当たり前にこなしているし、さぼるということもしない。より高みを目指すものにとって、それはより自分の中にある目標に近づくために、当然の行為といえるのかもしれない。

 
 そして、これはこと芸術に関わることであり、私などはどうしても創作という意味ではそこに目がいってしまうのであるが、技術を磨いて磨いて、最後にノンナが行き当たった壁を乗り越えたのが、芸術を志すものに必要とする「情緒性」「叙情性」というものであった。
 時としてそれは「表現力」とも評されるかもしれないが、やはりテクニックだけではいかんともしがたいところがあって、技術で競っても結局その技術には一定の完成がある。しかしその表現の奥深さは、人間的な成長とあいまった精神や思考の深さに裏打ちされるところがあり、この深さが人の心をうつのはいうまでもない。さらに、「個」ということも大切で、AさんとBさんの表現力が全く同じであってもAさんとBさんがそれぞれ存在する意味がない。
 結果としてノンナは「自分だけの叙情の世界」を目指していく。
 もちろんこれは一定以上の技術を持ち、一定以上の技術を保つ努力をしている人間だからこそ許されることであって、中身を表現する技術を持ち合わせぬものには到底許されぬ域の話ではあるが、アイデンティティに基づいた中身の深さ、またそれを磨くということの大切さなどがさりげなく書かれていて、たいへん創作に携わるものには参考になるものではないかと思う。
 さらに、この叙情性に加えて、必要となってくるのが、「自信」というものである。
 その能力に対して謙虚であることは、才能を伸ばすにおいて必要なことではあるが、能力に応じた「自信」も持たないと、人を納得させられるだけの「力」が得られない。
 確かに行き着く先ははるか上で、今の途上ではそれが精一杯かもしれない。でもその精一杯なりの現段階に対する自信をもたなくては、受け手の心を打つ「力」となって表れてはこないのである。
 最後にノンナがぶつかるのは、叙情性の完成と深い関わりのあるこの「自信」というものであり、結局はすべてを乗り越えることで大成功をおさめるのである。
 この到達へと至るラストシーンは、何かが心の中でストンと落ちたような気持ちよさを感じさせ、比較的静かなラストであるのに感動で何度も読み返さずにはおかない。

 
 いろんなことをさりげなく織り交ぜながら、なおかつそれを動かぬ平面でバレエとして表現する山岸もまた見事である。読んでいる人には聴こえない音、動いていないはずの音に、聴こえない音をきき、霊感の発せられたがごときバレエが、心の中に映し出されるのではないだろうか。

 
 山岸涼子はうまい。
 しかも偶然か天才かわからないうまさがある。
 ストーリーテラーとしてのうまさはいうまでもないが、いろんなところで気がきいていて、この前まで敵だった人が涙を流して喜んだり悲しんだりするところに心うたれるし、いいところで感じのいい天才が現れたり、師匠が現れ、それが味方になったりして、やはり読者をどきどきさせる。
 確かにノンナが逃げ出したシーンあたりの展開は、うまくできすぎではないかと思える節がなきにしもあらずであるが、別段責め立てるものでもないし、マンガというものが一つのエンターテイメントであり、読者を楽しませるという必要性もあるのであるから、むしろこれでよいのだろう。
 絵という点で特筆すべきは、『日出処の天子』もそうであったが、真っ白な背景に、なぜか明日香の空気が漂うし、『アラベスク』の絵の背景にも、なぜかソビエトの空気が漂う。この人独特の画力なのだ。
 キャラクターたちも魅力的だし、私などは、やはり天才クラスでありながら、天才クラスゆえに汚い考えには走れず、純粋であり続けるレミル・ブロフというキャラが、このストーリーでは一番好きだ。

 
 バレエもそうである。マンガもそうである。小説も、絵も、音楽も、何かを表現しようとするものは、精神的にタフでなければいけない。自分の中身を磨き表現するにも、他者の批判を受けてそれをどう受け止めるかということについても、相当のタフさが要求される。
 また乗り切るだけのかしこさも要求される。
 『アラベスク』は読んでいて、ちょっとしんどい。
 ノンナが努力し苦しみながら成長し続けるというせいもある。
 もしかしたら、書いている山岸自身も苦しみながら進んでいた時期があったのかもしれない。
 でもそうやってみんなタフになり、そうやって高みを目指していく。
 誰もみな手を抜かない。
 しかし、それは、もしかすると、表現するということのみならず、生きるということすべてに、つながるのではないだろうか。
 手を抜けば、自分という人間の成長から脱落するばかりである。
 誰との競争でもない、自分との戦いである。
 『アラベスク』は深い。
 今も幅広い層に読まれて、しかるべき作品である。

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