コメント:山岸涼子の作品は、なかなか重い。
重いだけあって読むのに時間もかかる。
しかしその時間をかけても、読みとおさずにはいられない魅力もある。
正直いって、このコメントを書くにも相当時間を費やしている。正確にいえば、書くまでに、相当時間を費やしている。
一度目に読み返して、書誌情報を作り、登場人物をならべて、コメントまで走りきれずに、やめた。また読み返して今度はあらすじを書いたが、やはりコメントまで走りきれずに、やめ、仕方なくその次に読み返したときは、付箋をつけてメモをとり、そして今にいたる。
そういった、過程を経て書く、今回の『アラベスク』コメントである。
難攻不落の城のようだ。
『アラベスク』は、山岸涼子が『日出処の天子』を書き上げるまでは、彼女の代表作であった。いや、中には、『日出処』よりも、『アラベスク』を代表作としてとらえている人もあるかもしれない。
以前読売新聞に、記者が、普段は少女コミックなど読まない父親に進められて読んで、夢中になって読んだ作品としてこの『アラベスク』をあげていた。記者の父親というのだから、相当のご高齢であろうに、その人をもその魅力にはめこんだということなのだから、相当のツワモノである。
確かにこの作品は、クラッシックバレエのマンガである。時期的にもスポーツ根性もの、いわゆるスポ根ものが、マンガ、アニメ、ドラマのジャンルを問わず熱狂的にはやっていた時代に書かれたもので、バレエというのだから、半分は演劇同様スポーツの要素を含んでいるので、やはりそういう熱い作品と思いきや、実はそうとも限らない。
体全体で表現し、情熱は傾けねばならぬが、やはりこれは芸術でもある。
芸術であるからこそ、なのか、それとも山岸涼子自身の気質によるものなのかはわからないけれども、なかなかに深い。バレエというジャンルにとらわれぬ、何か大きな全体に通じるものがあって、読みごたえがある。
そして、この作品が多くの人に愛され、年齢を問わず、男女を問わず愛されるというのも、この作品のそこここに流れる、人を納得させる『真実性』にあるのではないかと思うのだ。(C)少女マンガ名作選
たとえば、いくら天才であっても、その才能をおごり、高慢ちきになってはそこで終わり、もうその才能はそれ以上伸びないということや、また謙虚であるからこそ人一倍努力して伸びるという考え方も、バレエに限らず多くの人を納得させるところであるし、また、人の心をうつものが、穢れを知らぬ清らかさではなく、苦労に苦労を重ねて悩み苦しみ、時には恨み、それを乗り越えて磨き上げられたが故の高潔さであり美しさであるというというのも、納得させられるところであろう。
さらに、一流であるための条件みたいなものがそこここに書かれているが、ノンナの最初の方のモノローグで「本を読むにも映画をみるにも道を歩くにもバレエに良かれと思うことしかやってこなかった」というセリフや、ソビエトの星とまで言われる天才舞踊家ユーリ・ミノロフが、ノンナの稽古をつけたあと、深夜まで一人レッスンを重ねていたりというシーンをみるにつけ、本当の創作家、一流になるための条件とは、このようなことは当然なのではと思い知らされる。
かのサッカー日本代表の三浦知良選手も、ベテランになっても朝一番にやってきて基礎練習をし、新人チームメイトがそれを見習ったとか、大リーグのイチロー選手もやはりあれだけ大選手になっても練習を怠らない姿をみて、WBCで同じチームとなった選手が気合いを入れなおしたという話があるが、一流のものどもは、他人から努力と思われることも当たり前にこなしているし、さぼるということもしない。より高みを目指すものにとって、それはより自分の中にある目標に近づくために、当然の行為といえるのかもしれない。
そして、これはこと芸術に関わることであり、私などはどうしても創作という意味ではそこに目がいってしまうのであるが、技術を磨いて磨いて、最後にノンナが行き当たった壁を乗り越えたのが、芸術を志すものに必要とする「情緒性」「叙情性」というものであった。
時としてそれは「表現力」とも評されるかもしれないが、やはりテクニックだけではいかんともしがたいところがあって、技術で競っても結局その技術には一定の完成がある。しかしその表現の奥深さは、人間的な成長とあいまった精神や思考の深さに裏打ちされるところがあり、この深さが人の心をうつのはいうまでもない。さらに、「個」ということも大切で、AさんとBさんの表現力が全く同じであってもAさんとBさんがそれぞれ存在する意味がない。
結果としてノンナは「自分だけの叙情の世界」を目指していく。
もちろんこれは一定以上の技術を持ち、一定以上の技術を保つ努力をしている人間だからこそ許されることであって、中身を表現する技術を持ち合わせぬものには到底許されぬ域の話ではあるが、アイデンティティに基づいた中身の深さ、またそれを磨くということの大切さなどがさりげなく書かれていて、たいへん創作に携わるものには参考になるものではないかと思う。
さらに、この叙情性に加えて、必要となってくるのが、「自信」というものである。
その能力に対して謙虚であることは、才能を伸ばすにおいて必要なことではあるが、能力に応じた「自信」も持たないと、人を納得させられるだけの「力」が得られない。
確かに行き着く先ははるか上で、今の途上ではそれが精一杯かもしれない。でもその精一杯なりの現段階に対する自信をもたなくては、受け手の心を打つ「力」となって表れてはこないのである。
最後にノンナがぶつかるのは、叙情性の完成と深い関わりのあるこの「自信」というものであり、結局はすべてを乗り越えることで大成功をおさめるのである。
この到達へと至るラストシーンは、何かが心の中でストンと落ちたような気持ちよさを感じさせ、比較的静かなラストであるのに感動で何度も読み返さずにはおかない。
いろんなことをさりげなく織り交ぜながら、なおかつそれを動かぬ平面でバレエとして表現する山岸もまた見事である。読んでいる人には聴こえない音、動いていないはずの音に、聴こえない音をきき、霊感の発せられたがごときバレエが、心の中に映し出されるのではないだろうか。
山岸涼子はうまい。
しかも偶然か天才かわからないうまさがある。
ストーリーテラーとしてのうまさはいうまでもないが、いろんなところで気がきいていて、この前まで敵だった人が涙を流して喜んだり悲しんだりするところに心うたれるし、いいところで感じのいい天才が現れたり、師匠が現れ、それが味方になったりして、やはり読者をどきどきさせる。
確かにノンナが逃げ出したシーンあたりの展開は、うまくできすぎではないかと思える節がなきにしもあらずであるが、別段責め立てるものでもないし、マンガというものが一つのエンターテイメントであり、読者を楽しませるという必要性もあるのであるから、むしろこれでよいのだろう。
絵という点で特筆すべきは、『日出処の天子』もそうであったが、真っ白な背景に、なぜか明日香の空気が漂うし、『アラベスク』の絵の背景にも、なぜかソビエトの空気が漂う。この人独特の画力なのだ。
キャラクターたちも魅力的だし、私などは、やはり天才クラスでありながら、天才クラスゆえに汚い考えには走れず、純粋であり続けるレミル・ブロフというキャラが、このストーリーでは一番好きだ。
バレエもそうである。マンガもそうである。小説も、絵も、音楽も、何かを表現しようとするものは、精神的にタフでなければいけない。自分の中身を磨き表現するにも、他者の批判を受けてそれをどう受け止めるかということについても、相当のタフさが要求される。
また乗り切るだけのかしこさも要求される。
『アラベスク』は読んでいて、ちょっとしんどい。
ノンナが努力し苦しみながら成長し続けるというせいもある。
もしかしたら、書いている山岸自身も苦しみながら進んでいた時期があったのかもしれない。
でもそうやってみんなタフになり、そうやって高みを目指していく。
誰もみな手を抜かない。
しかし、それは、もしかすると、表現するということのみならず、生きるということすべてに、つながるのではないだろうか。
手を抜けば、自分という人間の成長から脱落するばかりである。
誰との競争でもない、自分との戦いである。
『アラベスク』は深い。
今も幅広い層に読まれて、しかるべき作品である。