少女マンガ名作選作品リスト

担当者:咲花圭良 作成日:2002/10/05

作 品

カリフォルニア物語

作 者

吉田秋生

コミックス

フラワー・コミックス(小学館・全8巻)、小学館文庫(全4巻)

初 版

1 1979/11/20 2 1980/1/20 3 1980/3/20 4 1980/5/20 5 1981/1/20
6 1981/10/20 7 1982/1/20 8 1982/4/20(フラワーコミックス)

初 出

別冊少女コミック1978年2月号〜1981年12月号

登場人物:ヒース・スワンソン、イーブ・ルチアーノ、インディアン、ブッチ、スゥエナ(ブッチ妹)、アレックス、ジェーン、
 テレンス(ヒース兄)、スージー(テレンス婚約者)、マイケル(ヒース父)、シャーロット(ヒース母)、イルサ(ヒース妹)、ギャラハン先生
 ホールデン・マニフィールド(陸上部マネージャー)、エレイン・ウィルビー、サイファン、
 リロイ、ルシンダ・ヘイワーズ、ジェンキンズ警部、チャールズ刑事

あらすじ:アメリカのカリフォルニアから、ニューヨークにたどり着いたヒース。18歳の彼は、かつてカリフォルニアで知り合った画家のインディアンを訪ねてきたのだが、途中の旅で変なのがおまけについてきた。それが二つ年下のイーブ。カリフォルニアへ向うはずだったイーブは、なぜかヒースにくっついて、出身のニューヨークへ舞い戻ってしまったのだ。そのイーブは、結局ヒースがインディアンに世話してもらった、インディアンの上の階の部屋でヒースと共同生活を送るようになる。
 さて、当初予定になかった同居人とともに、ヒースのニューヨーク生活は始まった。ところがこのイーブ、字が読めなくて、虫下しを「頭のよくなる薬」とだまされて買わされそうになったり、神様を深く信じて、冒涜するヒースを殴ったりする。ヒースについてきた理由も、どうやら、タバコをくれたからだったらしい。彼が言うところでは、彼の父親はプエルトリコ系の移民で仕事も満足になく、貧乏で、ただでものをくれるような人はいなかったという。人に、ものをあげられるのは、自分が充足しているからだというイーブ。(C)咲花圭良
 手癖は悪いが、どこかおめでたすぎる純粋さにひかれ、ヒースはこの同居人に心を許すようになるのだった。

 そうこうするうちに、ヒースの元へカリフォルニアに来る途中で知り合った、ブッチが訪ねてくる。彼は、マラソンをやっていたヒースが市民マラソンに参加するのではないかと、朝のマラソンコースをはっていたのだった。
 そのマラソンは、インディアンやイーブも含めて全員で参加することになり、みんなで当日まで練習することになった。そのマラソンの練習をしている途中、ヒースがなぜ、走ることがすきになったのか、イーブに語るのだった。
 子供の頃から父親と折り合いの悪かったヒースは、10歳ぐらいの時に庭の手入れをする黒人と仲良しになり、彼に走る楽しさを教えてもらったのだという。かつてボクサーだった彼はヒースが珍しく心許した相手で、しかし残念ながら、彼は戦争に行ってしまった。哀しい別れの後、彼は旅立ち、そして部隊を逃げ出し、ヒースをひどく失望させもしたのだった。
 結局ロードレースは参加したものの、ヒースがトップに躍り出たところで途中リタイアした。

 物語はその後、ヒースのかつてのカリフォルニアでのガールフレンド・エレインが訪ねてきたり、ブッチの妹スゥエナが訪ねてきたりしつつ、ヒースの子供時代から、少年時代のカリフォルニアでの生活や、また、イーブの出自などが解き明かされていく。

コメント:高校生の時、初めてこの話を読んで、特に後半、なんて熱い話なんだろう、と思った。
 吉田秋生の出世作であるし、私も吉田の作品の中ではこの作品が一番好きで、作品の中を流れる、どこかけだるい、しかも激しい、独特のムードが好きだった。今もそれは変わらない。しかし、今、読み返してみると、高校生のリアルタイムで読んだときよりも、今の方がずっと軽く感じられる。それは、あの頃似たような年頃で、似たような感性で読んでいたから、言葉の一つ一つ、行動の一つ一つがリアルに理解できて、よりいっそう重く感じたせいもあるかもしれない。
 それで、今回読み返してみて、あのとき激しく衝撃を感じた場面などは、あまり衝撃を感じなかったし――初読でなかったからだと言われればそれまでなのだけれど――、やはりどちらかというと、なるべく年齢の若いうちに一度読むべきではないかと思った。考えてみれば、これは吉田自身、まだこの年頃の記憶が新しい頃に書かれたものなのだ。

 そういえば、ずっと後になって、この年頃の話はもちろん吉田は書いているけれども、家族との葛藤とか、恋愛とか、友情とか、ここまで「熱く」は書いていないように思う。友人が言ったのか、それとも誰かが指摘したのか忘れたが、この話がサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」を読むと、より理解しやすいのだと教えられたような覚えがあって、なるほど「ライ麦―」と比較すると確かに、“ムード”の重なるところが多い。
 それどころか、扱っているはずの、純粋で、その純粋故にまっすぐ生きられない心理は、その頃のアメリカの退廃した世にあって、思春期の少年心理を描いた名作のはずの「ライ麦−」よりも、かなり繊細に描ききれいているような気さえする。

 別に「ライ麦―」に限った話ではなく、吉田はこの話を書くために取材かたがた幾つかの本を読んだだろう。あるいは元々手にしていたものを、いくつか参考にしたかもしれない。男娼をしてビルから転落死する話などは、私はフォトジャーナリスト吉田ルイ子の「ハーレムの熱い日々」などで、類似のエピソードを読んだ記憶がある。おそらく私がみつけていないだけで、映画や音楽等からも多々取り入れているのだろう。
 映画や雑誌、小説・エッセイ等から取材しているだろうと思うには、この当時吉田はまだまだ駆け出しの新人で、連載開始当時現地を足でそれほど濃厚に取材できなかったろうと思うからで、そういう間接的な資料を元に物語を立ち上げていく、その一見ラフなようで奥の深い底知れなさに、「お金がほしかったからマンガ賞に応募したら、受かってプロになった」と言っていた反面の、本人が気づいているかいないかは知らないが、努力家で負けず嫌いな一面が出ているような気がする。(C)少女マンガ名作選
 作中のヒースの、あの屈折した純粋さ、まっすぐさも、案外作者本人に通じるところがあるのかもしれない。
 
 それにしても、吉田の作品は男が多い。
 男の友情なり感情なりのもつれる話が多い。
 しかも中心になる連中は恋人になったりしないし、かといって、女性は少ないというよりも、弱いという感さえある。
 当時の少女マンガには不似合いなほどのリアルなベッドシーンを書いてもいるけれど、男女の恋愛沙汰を書くのは苦手なのではないだろうか。はっきりいって、あまり精神的には情熱的でも深くもない。まして女性を主人公にして女性を描ききったと感じられるものもない。
 つまりは女性が遠い。
 誰かを熱く思い求めるという、女性がいない。
 すごく激しいようで、女は書かないのだ。書かれても、お飾りのようで印象が薄い。ヒースの母親も情熱的なようで、中身がほとんどない。性格が語られるときはほとんど、「母親に似ている」と、ヒースの性質が引き合いに出されるだけ、母親本人のエピソードが描かれるシーンは皆無に等しい。
 吉田自身の女が遠いとか、女の素質が少ない、のではなく、たぶんこういう「対象をみつめる視点」で生きてきたからこそ、自身の側の性は描かれにくいのだろうし、また、行き当たりばったりでマンガ家になっても、息の長い作家になったのではないかと思う。

 主観の中にい続けては、物語とは描かれえないものである。そういう意味では、作家として必要な視点を養っていたかもしれない。けれども、作家になるべくしてなった人の作風とは、やはり一線を画しているのかもしれない。

 正直な話、今読んでみると、新人の連載だけあって、熱さ、純粋さがあるけれども、どこかそういうジャンルで、テーマの、型通りの展開をしているところが多々見られる。
 おそらく、当時の少女マンガとしては斬新で新しく、そうした精神面などや、吉田の語り手としてのうまさ、作品のムードが読ませていたものがあるから、評価されたのだろうと思うが、ああ、たぶんこれは取材の何かをそのまま応用させたんだろうな、という、あやういところもあって、他の何かの「なぞり」といっては言いすぎだけれども、取材をしながら、かなり頭を使い使い、いろんなものを補って、話を仕上げていったのではないかと思う。
 だからというわけではないが、さて、ヒースは結局どこへ行ったのか、ということで、私の友人などは「お母さんのところへ行ったんだよ」などと言っていたが、私は違うのではないかと思う。
 ヒースは物語を終わるために、文字通り物語の世界から脱走したのではないか、と。
 そもそも、なぜ「カリフォルニア物語」というタイトルなのか。
 前半は「カリフォルニア物語」でもいいが、後半、ヒースが二十歳からは「カリフォルニア物語」である必要があったのか。
 家族や周囲と葛藤を繰り広げた前半に対し、後半はもしかしたら、身内よりも大切になるかもしれない他人の存在を描きたかったのかもしれなかった。
 でも「カリフォルニア物語」である必要はない。かえって、ニューヨークを取材するうちに話が膨らんで、後半ができたのではないかとさえ思った。
 要するに、吉田は、ラストまで、というか、クライマックスに力点をおいてストーリーを作って書かない作家なのだろう、ということなのだ。まるで二つの目がカメラとなって、場面を射抜いていくように、ドラマチックな場面やエピソードを描くことに心血を注ぐことは得意で、話もそこからできあがり、雰囲気に自ら浸って、ニューヨークのヒースのエピソードも出来たので描いてみたけれど、さて描いたところでもう描きたいことは終わってしまった、それで、ヒースがそのままニューヨークにいると、読者にその後を求められそうなので、彼自身を脱走させてしまった、こういったところではないだろうか。
 「カリフォルニア物語」というタイトルでストーリーを続けるには、描きたい方向性から逸脱するようでもあるし。

 確かに美大生のときにデビューを果たしたらしく絵は達者だが、ストーリー作りを勉強したはずの人の、ストーリーではないように思う。
 見せる、けれども、話作りの技術という点で、どこかにまだ模倣の雰囲気がただよう点で、「カリフォルニア物語」は、素人のそれにかなり近い。
 が、恐ろしいことに、若さが手伝ってか、結局見事に青春の書のように仕上ってしまった。
 とすれば、この作品を流れる激しさは、この人のもともと持つ血の熱さであり、思考は、この人が成育の過程で身につけた思考なのかもしれない。

 吉田は、絵から作家に入った人なのだ。
 だからこそ、絵が重点となる「マンガ家」として活躍しつづける。
 ストーリーは細かに学習した経験はなかったろうが、生来の頭のよさに加えて、「描く」力と、話にどう折り合いをつければうまく終われるか、ということを知っている。そういう器用さもある。
 図太くて、繊細で、自分だけがそこに、いるようで、いない。
 出世作を読み返しながら、吉田秋生という作家の、底知れなさと、また、新しい一面も見てみたい、などと、思ってもみた。

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