コメント:ライジング――タイトルには「開幕」の意味がかけられているが、それだけでなく、「上昇・成長・なりあがり」の意味もこめているらしい。
元々友人だった氷室冴子氏と藤田和子が、小学館から話をもちかけられて始めた連載だったと説明している。氷室冴子といえば、今や少女小説家としてだけでなく、他のマンガの原作等も手がけているので、説明は必要ないかと思う。
とりあえず、綿密な打ち合わせが重ねられて書かれた原稿だということは、枠外の解説を見ればよくわかる。確かに文字で起された原作つき特有の解説くささもなく、すべりも無理がない。当時6ケタにのぼった電話代だけの価値はある。
あらすじをご覧になればわかるが、モデルになったのは宝塚歌劇団だそうだ。が、もちろん舞台にしたというだけのフィクションである。
宝塚歌劇団を生で見たことのない人は、あのテレビで見たやたら派手な、けばい舞台化粧のちょっと近寄り難い世界を思い浮かべると思うが、やはりテレビで見るのと、実際の舞台を見るのとはかなり違っていて、まず舞台を見た途端ダンスにしても何にしても「うまい」と言ってしまう。それから女がやっているのに、その仕草は男にしか見えない。奇異な感じはほとんどなく、男より優雅で格好いいので、夢中になる人がいても無理はない、と思えてしまうのだ。
…という宝塚を知ってから、この作品を読むと、あの劇団員の上手さも「なるほど」と思うし、作品の方は、特に前半が面白く読める。
生まれ持った素質だけで、何も知らずに宮苑音楽学校に入学してしまうのだが、「何も知らない祐紀」を視点人物に設定するために、知らないが故のつまづきや戸惑いが、描かれ、表現されるだけでなく、効果としても、祐紀が他の人に逐一説明されるから、独特の世界がわかりやすく、説明くささを免れている。そしてスターダム、挫折、復活と、いう具合に物語は進んでいく。祐紀は、「生まれ持った素質」だけで入学してしまった故の、たくさんのツケをはらわされ、つかみは似ているが、同じ演劇ものの「ガラスの仮面」とは違って、まず「低い位置から」の期間が短く、成長すると共に、上昇目指してまっしぐら、というのとは一味違った面白さと現実味がある。
しかし、描き方という意味で最大の違いがあるとすれば、「ライジング!」には、様々な「作り手の哲学」が描かれているところで、例えば歌舞伎の女形はなぜあんな女らしいのかという説明も、裏を返せば宝塚の男役たちはどうしてあんなに男らしいのか、という説明にもなっているし、そういわれるとなるほど、「ベルサイユのばら」だってなぜあんなに当たったかというと、男を演じる女を一番知っている人たちが演じたからではなかろうか、とまで考えてしまった。
――一度代表作ができると、後がやりづらい、これも、役者の舞台に限ったことではないのだ。(C)少女マンガ名作選
本物らしいことが大事なら、舞台の上に本物を持ってくればいいじゃないか、というかけあいの答えが、「空想の世界の無限性」を示唆していたり、高師の型にはまった男役のスターを育て、観客動員数をはかるだけの作品ではこの先劇団は長続きしないという説、現代の、スターを使って視聴率をかせげれば、ドラマは成功と言わんばかりの作品づくりが、著しい質の低下を招いてしまったテレビドラマ界にきかせてやりたいよ、などと思わずうなずいてしまう。
しかし、たぶんこの作品の読み応えは、そうした「宮苑」内でのやりとりを越え、祐紀の「挫折」が始まったあたりから後。挫折したくない→挫折→復活というこの攻防のところで、私はその部分に「すべてを失ったものがもつ怖いもの知らずの強さ」と、復活をかけて可能性を信じる「諦めない」という気持ちの大切さを読み取りたい。特別な世界を描いていて、少しも特別などではない。誰の人生にだってありえる山だ。重ねられる世界だ。
また、それに立ち向かい、乗り越える強さ・可能性が、主人公・祐紀の人をひきつける魅力なのではないだろうか。人をひきつけるのは、可能性と強さがあるから――どちらでもいい。
はじめて読んだ時は、ただただ作品の面白さにひかれて読んだ。
二度目に読んだ時は、いろんな人生に重ねて読んだ。
そして、この物語は、あまりにも困難な道程を終えて、始まりとして終えている。
一人の女優だけでなく、良いものを成そうと思えば、やはり難産だということだろうか。
ラストシーンは、映像と共になぜかひどく心に残り、忘れられない。