コメント:日渡早紀といえば、今や「ぼくの地球をまもって」を代表作として知られるマンガ家になってしまったが、この「ぼくの地球をまもって」には、「記憶鮮明・東京編」という副題がつけられていた。その「記憶鮮明」の元ネタがニューヨークを舞台としたこの作品である。
元ネタにしては元ネタの方がずっと短いが、普通そんなものかもしれない。だから短いゆえに目立たないし、今となっては、もしかしたら書いた本人も忘れていたい作品のうちの一つかもしれない。これが発表された当時、日渡にはデビュー作を含む早紀シリーズと、アクマくんシリーズしかなく、読者は作品の意外性に大いに驚かされたわけであるが(それでも「ぼくの地球…」の時の比ではないだろう)、今読めば、その表現のくささに驚かされるだろう。
表現のくささ、というのは別の読み方をすれば、まだ若い日渡の情熱の表れと言いかえることもできるかもしれない。とりあえずこの頃の彼女は、作品はいくつかあり、早紀シリーズの精神性から一定のファンはもっていたものの、世間にポピュラーに知られるほどの代表作を持っていなかったから、若さも手伝って、彼女の若さが作品を走らせたのかもしれない。
あつくては激しいSFミステリーは、作者自身の明るさも伴い、仁義くさくて石頭親父のアーボガスト、下町言葉で話すリズ、軽薄だけど誠実なジョジョ、と、未来の話なのにどこかレトロでさえある。(C)少女マンガ名作選
読めば「勉強しました」ということがあちこちに見うけられるし、どこか規定枚数に無理矢理入れたという印象も否めない。ここまで書いてくると、作品をけなしているのか、それならリストに入れなければいいではないか、といわれそうだが、私は決してけなしているわけでもなんでもない。こういう段階も必要だし、また今となってはそれが新鮮にうつる時期も来たということなのだ。
今の日渡が書けば、もっと上手に書いてくれるだろう。しかし、この作品に描かれた情熱は、今の彼女には描けない。人間の汚さが描けていないのは欠点でもあるが、これがこの当時の日渡の武器でもあり魅力でもあったのだ。
失われた記憶は必ず取り戻せる。我々は生きてからすべての経験の上に、今、生きている。