コメント:“一条版『女の一生』”とでも言えそうな作品だ。あらすじに書いたのは、実は導入部だけで、作品全体の8分の1くらいの間にあれだけの不幸が主人公ナタリーに降りかかって来る。作者一条は、主人公のナタリーに「すべての不幸を味わわせてやる」つもりで、この作品を描いたらしい。
残り8分の7は、ここまでの息を呑むような急展開とは対照的に、停滞し重苦しい雰囲気の中で展開されていく。背負った苦しみにナタリーのもがく日々が始まるのだ。最愛の人が自分以外の人に産ませた子供をすんなり愛せるわけがない。そもそも引き取った事に無理を感じてしまうが、この作品の流れだとそれが不自然ではない。この辺が一条のうまさだと思うのだが、この後も続く不幸の数々、どれをとっても必然性があって、説得されてしまう。物語の始めから最後まで、実に巧みに伏線が張られ、それに主人公が引っ掛かり、追いつめられて行くのだ。
ナタリーと故フランシスの恋は、幼いながらも本物だった、と言う事になるのだろう。忘れられない恋を引きずって、人はどこまで生きて行けるのか。この物語の決定的な打撃は、死んだ恋人がその子供を残していたところにある。目の前にある事実は、もう成就する事は決してない恋を忘れさせてはくれない。そんな恋にこだわり続けて生きるのも、その人の人生だ。童話作家として成功しながらも、そんな人生を選んだナタリーがどのように生きていくのか、この作品では作者が主人公と一緒に「生き方」を真摯に考えている姿が垣間見える。この「砂の城」を描いたとき、作者一条はまだ20代の半ばだった。創作と言うものが、経験ではなく想像で築き上げられるものなのが、よく理解できる。そして築き上げられたものは、私たちの目の前にずっしりと構えるのだ。
「人生なんて砂の城のようなものかもしれないわ。つくっても、つくっても、いつの間にか波がさらってしまう。いつも同じ事のくりかえし・・・」――このナタリーの言葉は、幼いフランシスと海岸を散歩しているシーンで出て来るのだが、この作品のすべての代弁であり、あるいはこの作品を構築する際のインスピレーションだったのかもしれない。
物語の本流は、忘れられない恋を引きずったナタリーの姿にあるわけだが、もうひとつの流れは、ナタリーに引き取られたフランシスの成長と心の変化にある。
母親の話題はタブー、後見人は美しく著名な童話作家――最初フランシスには疑問だった事が、少しずつ解決されていく。やがて、自分の両親とナタリーが実際にはどんな関係だったのかを知る事にもなる。その時から、フランシスのナタリーに対する感情は変化し、信頼を深め、ナタリーを心から慕うようになる。子供から少年へ、少年から青年へ、確実に成長を遂げていくフランシス。体だけではなく、当然、心も成長していく。自分にとってのナタリーとは、一体何なのか?そんな問いは、始めは素朴なものだった。
一方、ナタリー自身も、実は最愛のフランシスの死後、幼いフランシスを育てる事で自分が救われていたという自覚を持ち、一度は故フランシスへの思いを吹っ切る。しかし、その次に襲ってきたのは、自分の心の支えになってくれていた少年フランシスを失う恐ろしさだった。子供は成長し、自立していくものだからだ。(C)少女マンガ名作選
フランシスとナタリーがお互いの知らぬところで、それぞれの存在意義を問い始めてから、物語は次の局面に移っていく。フランシスを縛ってしまいそうな為に、自分から引き離そうとするナタリー、引き離されるたびに思慕を募らせるフランシス。この二人の関係の行く末が、物語の結末となっている。
そして脇役達のそれぞれの恋のエピソードが綴られ、二人の主人公達に影響し、作品全体の大きなうねりとなっている。
一条作品と言うと、根っから明るいコメディの方が真骨頂かと思う。「有閑倶楽部」は大ヒットだった。粋でプライドが高くって、自由気ままな登場人物達。そんな人物を描くのが好きで得意なのは、一条本人の言でもある。この「砂の城」を描いたきっかけは、プロなんだから一番嫌いなタイプの女を描いてみよう、と思った事らしい。しかしそんな動機とは関係なく、この作品は代表作と言われ、そう言われるにふさわしい作品だ。