作 品
| OZ(オズ) | 作 者 | 樹なつみ |
コミックス | JETS COMICS(白泉社・全4巻) |
初 版 | 1990/3/31,7/31,1991/7/31,1992/9/2 |
初 出 | 1988年LaLa増刊AUTUMN CLUB11月10日号、1989年LaLa増刊SUMMER CLUB8月10日号、1989年LaLa増刊AUTUMN CLUB11月10日号、1990年 LaLa増刊WINTER CLUB2月10日号、1990年 LaLa増刊SPRING CLUB5月10日号、1991年増刊ララダッシュ2月10日号、1991年増刊ララダッシュ5月10日号、1991年増刊ララダッシュ8月10日号、1992年LaLa4月号、6月号 |
登場人物:ヨー・ムトー、フィリシア・エプスタン、1019、オーティス・ネイト、1024、ヴィアンカ・エプスタイン、リオン・エプスタイン、ビル・スカイルズ、ルパート・エプスタイン、ブルックス将軍 |
あらすじ:1990年、一発の核弾頭の誤爆によって引き起こされた第三次世界大戦は、わずか40分で終結、世界中を壊滅状態に落とし入れ、人口のわずか40パーセントしか生き永らえなかった。その31年後、地球規模で未だ混乱の続く中、サンレイト連邦共和国で政界の大物の娘、生体工学の天才フィリシア・エプスタイン(15)と、そのボディーガードに雇われた、サンレイト軍ムトー軍曹(22)との出会いで物語は始まる。 フィリシアは、「時間がないから来い、行方不明の兄リオン(22)のことで話がある」、という叔父に会うことが目的だった。が、叔父はフィリシアに会う前に死亡、しかし、託されたその手紙で、5年前に失跡したリオンが、フィリシアの16の誕生日を期に共に暮らしたがっていると知った。(C)咲花圭良 その時飛行機が墜落した。その中から、この世のものとは思えない美貌を持つ一体のバイオロイド(生体人造人間)が発見された。バイオロイドは目覚めると、すさまじい破壊と殺人を繰り返したが、フィリシアの声紋を確認すると、兄リオンのメッセージを伝える。伝説の科学都市「OZ」で、共に暮らそう――そういうものだった。 そして、フィリシアとムトー、バイオロイド1019(テン・ナインティーン)のOZへ向かう旅が始まる。 |
コメント:「マルチェロ物語(マルチェロ・ストーリア)」で知られた樹なつみの、SF大作である。巻数の割に連載終了までに約4年の年月がかかっているのは、季刊別冊での掲載であり、また本誌LaLaで他の作品を連載していたからであった。ところが、この「OZ」は、連載初回のみというならまだしも、最終回2回のみが本誌LaLaに掲載されたことからも、コミックス刊行時、口コミでいかに知れ渡ったのかということを知らしめている。 伝説の科学都市「OZ」、そして、その都の科学が生み出した生体人工人間という設定は、何かを連想させないだろうか。もちろん作品には「OZの魔法使い」の要素があちこちに踏まえられているが、同じく「おとぎ話」「機械の体」というキーワードで結んでいくと、ある作品が浮かびあがる。「銀河鉄道999」である。 「銀河鉄道999」の松本零士はおそらく、死の国へと運ぶ列車の旅である、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を踏まえた上で、「死の国」という永遠性を、永遠の体(機械の体)をもらえる星へと置き換えることで、自己の作品を成したのであろう。樹は松本のその作品から「機械人形」という共通項を得、「銀河鉄道の夜」という先行作品を、「OZの魔法使い」と置き換えることで、そのキャッチボールを我々に示したのである。(C)少女マンガ名作選 しかし、樹は正しくパロディの理論を踏まえ、先行作品との差異を生み出している。松本は、生きた人間の視点から、樹は人工人間の視点からそれぞれ、やがては消滅する人間の生の大切さを説くのであるが、樹は同時にバイオロイドが人間になりたいと希求し、それに近づこうとすればするほど、実は人という存在の「不完全さ」に近づくのだと説くことにで、だからこそ「愛すべきなのだ」と、不器用に語り掛けているように思えてならない。 おそらく、「OZ」の発想の原点は幾つもあるだろう。過ぎた文明の危険性、人間本来の姿に帰ろうと作品の中で語り掛ける宮崎駿「天空の城ラピュタ」、機械に制される人工的管理社会から、本来の人間の姿へ帰ろうとした新人類たちの物語、竹宮恵子「地球へ…」、など。 人間になりたいと願う機械人形、失い傷つくことを恐れて人と深い交わりを持てない、元孤児の青年、天才家系で人に交わらず世間を知らない少女の、成長過程を描きながら進む、「OZ」への道行は、よくこれだけたくさんの材料を盛り込めたものだと感心するが、掲載誌の問題もあったのだろう、特に前半、やや急ぎ過ぎで、いろんなことが作品の中に盛り込まれているのはわかるが、表現不足な部分があるのも否めないような気がする。 とまれ、この作品には、細かい講釈を吹き飛ばす、勢いがある。これが樹にとって、描いてみたい例外的作品だったのか、過程の中での必然だったのか、今はまだ判断する時ではないが、「マルチェロ物語」と、この「OZ」は樹を語るときに忘れてはならない作品であることは、確かだろう。 |