コメント: 川原由美子というと、昔は成田美名子と絵が似ていると言われた。
絵のみならず、一つの家に他人同士が集まって、疑似家族のように生活する、という「前略・ミルクハウス」の設定は、「エイリアン通り」の設定にとてもよく似ている。
しかし、設定が似ているものの、その中心にすえられた主題はずいぶん違っていて、「エイリアン…」は家族の愛と孤独についてだったが、「ミルクハウス」はどこまでも「恋」が主題になっている。
また、絵もノリも前半は確かに成田の作風に良く似ているが、落ちついて考えてみると、ひかわきょうこの書くものにも似ている。「ファミリー」の初期にも似ている。少し遅れるが日渡早紀にも通じるものがある。…とすると、この時代、こういう描き方が、ただ単に流行っていただけかもしれない。
実は大切な主題が後ろに控えているとき、軽いノリで相手(読者)をひきつけて、作品の中に引き込むというのは、一つの手法なのだけれども、この人たちがそれを意識してやったかどうか、というのは疑問である。が、とりあえず、川原も例を踏まえて前半はギャグでひきつけ、後半はシリアスに引き込んで行くという段階を踏んでいる。
もう一つ付け加えるなら、この当時、下宿ものには「エイリアン…」やこの「ミルクハウス」だけでなく、既に作品リストに上がっている「麒麟館グラフィティ」、「めぞん一刻」などがあり、短編などを探せば、他にも出てくるかもしれない。が、それぞれに少しずつ描き出されるものが違っていて、お互いを殺さず主張しているあたり、やはり流石としか言い様がないのかもしれない。
それぞれの違い、興味があるなら、一度読み比べを、お試しあれ。
さて、この「ミルクハウス」、前半は馬鹿馬鹿しく笑わせて、どこにも真面目な恋愛さえないような気がするし、少女マンガを読みなれた者には、わりと見るエピソードだったりする。たぶん、少女マンガの世界では、幾つも書き継がれた一種のパターンのような雰囲気があるのだが、中盤以降から、やはりどこか見たエピソードなのに、何かが、違う。
もしかしたら、全編通して、どこかが違うのかもしれない。
そうだ、全編通してあるのは、「真面目な恋」ではなくても、「真面目な(時に純粋な)芹香の気持ち」があるのは確かなのだ。
結局この話を読み終えたとき、何が残るかというと、その「真面目な(純粋な)」から描き出された、言葉にしがたい「せつなさ」が残るのだ。
もしかしたら、自分が作品の中の登場人物と同世代の頃だったら、するんと読んでポイッと捨ててしまったかもしれない。ちらちらと、「オコサマと大人」な描きわけや口ぶりが目につき、それが十代では癇に障ったかもしれないし。
でも、今読むと、読んでいる間、今という時間を忘れて、心は19の日に戻ってしまう。
結構「言葉で伝えることの大切さ」とか、なるほど、と実感を持って思ったりすることもポン、ポンと放り込まれていたりもする。
そんな時代もあっただろうか、とか、そんなせつない気持ちもあっただろうか、とか、そんなノスタルジックな(ちと使うのはいやなのだが)現代風の青春が、そこには描かれていて、読んだ後に「しまった鏡を見るんじゃなかった」と思わせられるような、精神的な懐かしさに襲われるのだ。(C)少女マンガ名作選
しかし、恋は、少女にのみ許された特権ではない。
きっと二十代でも、三十代でも、はたまた四十代でも、きっと純粋に人を好きになれば、こんな「青い」気持ちに襲われるのだ。「青い」気持ちに襲われながら、「青いよなあ」と自分で笑いながら、それでもやっぱりやめられなかったりする。
その時々を、思い出すからせつない。
思い出すのでもなく、同調すればせつない。
そんな一人一人の気持ちを、今更、つついて、「せつない」気持ちにさせてしまう。
ちょっと恥ずかしい「少女」まんがとは少し違うので、どうかそんな「青い想い」を読んでいただければ、いいのではないだろうかと思う。
ちなみにこの連載途中から、「ちゃお」で原作つきの「ソルジャー・ボーイ」も同時連載していた。なかなかお勧めなのだが、「同時連載」に気をつけて、影響と兼ね合いを見てみるのも、また、一興かもしれない。
お試しあれ。