コメント:詩情あふれる作品は萩尾の真骨頂だろう。もちろん、この作品も例外ではない。
無彩色のパリを舞台としてつづられる物語は光と影のモノトーンで彩られ、コミカルな会話を交えたストーリーの洒脱さもさることながら、コマひとつひとつに描かれる絵が「絵」として完成されている。特にセリフの少ないコマが続くシーンは、映像のように効果的だ。
たとえば、第一話「メッシュ」で、メッシュがミロンに父親への思慕を語るシーンが挙げられる。「やさしい声で名前を呼んで欲しかっただけだ」と打ち明けたメッシュを、ミロンはメッシュの本名である「フランソワーズ」で何度も呼び、額や頬にくちづけるだけなのだが、沈みこんだ静寂の中から次第ににじみ出てくる暖かさが見事に表現されている。(C)少女マンガ名作選
「メッシュ」は、本編全12話と「Plan de Paris」、「MOVEMENT」からなる作品だ。本編始めの2話、「メッシュ」「ルージュ」で、主人公メッシュのおおよその境遇が語られ、その後つづられる「ブラン」「春の骨」「革命」「モンマルトル」「耳をかたむけて」「千の矢」「船」「苦手な人種」「謝肉祭」は、最後の「シュールな愛のリアルな死」に向けてのエピソードの積み重ねとして描かれた読みきり作品である。
もちろん、シリーズとしての「メッシュ」全体を語る潮流が各作品の底辺にあるのは言うまでもない。ミロンという、ひとつのよりどころを得て、メッシュは各話でさまざまな試行を繰り返す。あるときは役者になり、あるときはモデルになり、あるときは皿洗いをする。そんな経験はメッシュの目を過去ではなく未来に向けさせ、メッシュは精神的に少しずつ成長していく。さまざまな人と出会い、彼らの織り成す人間模様の中に、いろいろな愛の形を見つける。同性に一方的に求められたり、初めての恋に苦しんだり、知り合った人々の愛の葛藤を傍観者として垣間見たりする。
そんな中で、メッシュは自問自答を繰り返す。いったい自分が求めているのは何なのか。どんな愛が自分を満たしてくれるのか。いくら模索しても得られない答えを探す一方で、メッシュは自分をさりげなく支えてくれるミロンに思慕を募らせていく。
メッシュが知り合うのは、どこか欠けている人々が多い。自覚のない歪み、あるいは黙殺したい歪みを抱えている彼らは、メッシュと出会うことにより、それに対峙しなくてはならない状況に追い込まれる。
なぜならそれは、メッシュ自身が儚く、曖昧な人物として描かれているからにほかならない。
メッシュの本名は、女性名だ。生まれる前から女の子だと身勝手に信じ込んだ母親が名づけた。では、母親の期待に反して、男の子として誕生したメッシュはいったいなんなのか?
また、髪に銀毛が現れるまで、メッシュは父親に実子として認めてもらえなかった。銀毛が現れた途端にそれを覆されても、では、それまで生きてきた12年間は、いったいなんだったのか?
メッシュのアイデンティティーは不安定で、常に揺れ動いている。両親に存在そのものを否定された過去を持ち、それゆえ不安定に揺れ動き続けるメッシュに出会った人々は、まるで共鳴するかのように、自身の歪みに目を向けなければならなくなるのだ。
それでも、それぞれの物語が愛の形のバリエーションとして語られている以上、そこには可能性が含まれている。いつか自分を満たし、しっかり支えてくれる愛を得ることができのではないか。その可能性をメッシュは模索するのである。
ただ、ミロンだけは別格だ。ミロンだけは、メッシュと出会っても揺らぐことはなかった。
ミロンもまた、自己の存在に疑問を抱かざるを得ない過去を持っていた。だが、メッシュに出会った頃には既に、それを乗り越え、ごく自然に生活を営んでいた。
だからこそ、メッシュはミロンに心を開き、思慕を抱くまでになるのだが、結果として、ふたりが固く結ばれることにはならない。ミロンがメッシュに抱く感情は、あくまでも友情の範疇、若干の庇護的な愛情がないこともないが、メッシュを根底から支え、癒し、満たすものではない。
きっと、メッシュがもっと大人だったのなら、ミロンの与えてくれる愛情で救われることもあったのではないかと思う。だが、メッシュは、自分が求めているものがどんな愛情なのかもわかっていない子供でしかなかった。
子供の求める愛情は、無償の愛だ。しかも、欲しいときに必ず与えられる愛なのである。それを他人との関係から得ようとするのなら、相手にとっても唯一無二の存在になるしかない。一般には、それは恋愛で成り立つものだろう。だが、メッシュとミロンの間に、恋愛は成立しなかった。しかも、ミロンには恋人ができてしまう。ミロンとメッシュの関係は、それ以上発展することのない限界を迎える。そんな折、メッシュは母親と再会することになり、結果、憎む一方で求めていた父親の愛を再び期待することになってしまう。
ラストシーンは感動的だ。ミロンも、父親も、選べないメッシュに胸が痛む。メッシュは「選べなかった」のだ。なぜ選べなかったのかは語られない。選べなかった事実だけが提示されて、この作品は終わる。
パリという、どこか退廃的で官能的な街を舞台とし、まるで迷路のようなそこをさまようメッシュは、それでも生きている。絶望しても死を選ぶことはなく、あるときは流され、あるときはしたたかに、欲するものを探して生きている。自分とは何なのか、どう生きていきたいのか、どう生きていくことができるのか、それを模索しながら確かにメッシュは生きているのだ。
萩尾作品らしく、明瞭な答えは示さずに、危うく儚い美しさに彩られ、この物語は終わる。物語は終わってもメッシュはどこかへ行き着いたわけではない。永遠にさまよい続けるのかも知れないし、いつかは自分の居場所を得るのかもしれない。その答えは読者の想像に委ねられている。
「訪問者」と「残酷な神が支配する」の間に描かれた作品として、この作品が大きな意味を持つのは事実だろう。