コメント: 作品自体は、副題をつけた格好で、個々のエピソードを1話1話描きながら、一つの大きなストーリーを作り上げるという形式をとっている。あらすじにもある第1話「真夜中のカーボーイ」、ゴールドラッシュ時にアメリカに来た先祖の詩を元に、その子孫は必ずアメリカを訪問するように義務づけられているシャールの従姉、ナーディアの家訓と照らし合わせて、お宝探しにでかける、第2話「アラビアより愛をこめて」、シャールの容姿を気に入って、遊び相手にしたいがために彼を誘拐した幼きアリスとのエピソードを描く第三話「夜ごとの魔女」、翼の故郷、日本を訪問し、幼い頃学校の桜の木の下で人骨を発見してしまったがために運命を狂わせた旧友の物語、第4話「略奪された1人の花嫁」、シャールの幼い時からの家庭教師セレムの懊悩「鷹は舞いおりた」、ジェルパパとシャールパパがビバリーヒルズの家にやってくると同時に、シャールの映画オーディションを描く第6話「親父が出てきた日」、そしてクライマックスへと第7話「この家の鍵貸します」、第8話「翼よあれが郷里の灯だ」が続いている。
映画少年シャールにふさわしく、タイトルは往年の映画タイトルをもじらせてあるが、ネーミングにそう無理も感じない。それぞれのエピソードはエピソードとして楽しませながら、シャールの精神的・家庭的奥底まで迫って行く書き方はうまいとさえ言える。
まちがいなく成田美名子の代表作にして、彼女をスターダムにのし上げた作品である。入門・雑誌「LaLa」の一つに数え上げてもよく、この作品から、数々の名作を生み出した雑誌「LaLa」、あるいは「花とゆめ」コミックス系列に入った人も多いのではないだろうか。
話の魅力もさることながら、またこの人の絵は当時飛びぬけて美しく、カレンダーや、いわゆるミニ画集チェリッシュギャラリー、キャラクター商品といった、絵に関するものも多く出版された。
主人公シャールの美しさや境遇にひかれて、キャラクター個人のファンも多く、どうもミーハー的な薄っぺらな印象を受け勝ちであるが、前作「あいつ」同様、精神性、メッセージ性の非常に強い作品である。構成の上手さ、エンターテイメント性も兼ね備えて出来もよく、本来なら指折りの名作に数え上げてもいい作品なのだ。
自分の心に、あるいは生まれた環境から、いろんな「しがらみ」を背負い込んだシャールというキャラクターが、ストーリーテラー、ジェラール・レネとの出会いにより変貌していく。
そんな中で、「エイリアン通り」とも呼べる場所の、その舞台となる家で、「家」そのものが、「逃げ場」になり、「居場所」になり、「帰るべき場所」へと変貌していくのだ。
”ホーム”――自分が自分でいられる場所。
正確にいうと、家そのものが変わったのではない。そこに集う、人の「絆」が変わったのだ。
小さな小さなきっかけから始まった人との関わりが、「あなたが必要だ」といわれるまでになり、誰かを必要だ、と思うようになる。それは決して恋愛に限ったことではない。そこでキーとなるのはいつも「心をつくすこと」「人との関わりで本気になること」――
もう、現代社会ではみんな忘れてしまったかもしれない。忘れていなくても、実行できないかもしれない。今の世は、みんなみんな、最初の頃のシャールのように、たくさんたくさん自分にバリアをはって、傷つかないように努力しながら、結果誰かを傷つけてしまっている。傷つけないように努力したつもりなのに、そのバリアが相手を傷つけてしまう。(C)少女マンガ名作選
第1話、「真夜中のカーボーイ」でシャールがジェルに興味を持ったのは、彼を本気で怒った他人だったからだ。第3話「夜ごとの魔女」で、着せ替えのお人形が欲しくてシャールを誘拐したアリスが、実は一番ほしいものが、本気で関わりあってくれる「人」だった。
そして、手にいれたら必死で守る。それは、かけがえのないものだから。
成田の作品は、果敢に成長を続ける主人公たちの話が多い。そして、どこかで「自由」ということと結びついているのではないかと思う。
「魂の解放」――それは、何かから解き放たれるのではなく、自分から開くのだ。
つまり、真に「自分が自分でいられる」という、「自由」なのだ。
自分が自分でいるためには、自分が何ものかを認めなければいけない。だから作品の中の彼らは、いつも、自分をどこかに、何かに、探すようでさえもある。
この作品では、誰かの中に認められることで、自分を認める。自分を獲得する。
そんな関わりの中で、"ホーム"――ただの「逃げ場」だった場所を、大切な誰かと集う「帰るべき場所」へと認識できるようになっていくのだ。
幸福の、色も価値も、基準も、人によって違うかもしれない。でも、結局人を幸せにするのは、いつも「人」なのだ。
「心」なのだ。
「人」を「人」として成らせるのも、幸せにするのも、「人の心」なのだ。
「家族」「心の時代」と、標語のように言葉だけが先行してしまった現代で、人々は本当に、それを手に入れているのだろうか。
「人」を手に入れるとは、本気でぶつかって人の「心」を獲得し、獲得されるということなのではないだろうか。
かけがえのない「居場所」とは、そうして手に入れるものではないのだろうか。
他人同士だって、十分可能なのだ。
そうしたことを、この作品は連載開始から20年経った今でも、我々に教えてくれる。
きみよ。
「孤独な」きみよ。
今、このストーリーを、どんな気持ちで読むのだろう。