コメント: 私がはじめて「ガラスの仮面」に出会ったのは、小学校6年生の時だった。その時すでに20巻を越えていたのだから、そこから読むにはたいへんな量と年月を要したのであるが、現在ではコミックス刊行は40巻を超えるまでになっている。私にとっての「入門・花とゆめ」が、この「ガラスの仮面」だったが、それから間もなくアニメ化が決定し、その当時で売上げが40万部、近年ドラマ化された時は某テレビ雑誌によると、既に4000万部だそうだから、ベストセラー中のベストセラーといっていい。そこからさらにマンガの場合、回し読みが学校などでされているはずだから、読者人口になるとかなりのものになるだろう。
だいたいにして、アニメ化の話が出た時は、既に30巻近くまで刊行されていたと思うが、30巻を超えたマンガを買ってまで読もう、なんて、金銭的なことを考えたら、たいがいの人は二の足を踏んでしまうだろう。コミックス一巻400円と考えても、1万2000円で、それなのに、それから販売部数がはねあがっているから、一巻で足を踏み込んで、麻薬のように引き込まれて読んだ人間が、どれだけいるか考えれば、もうこのマンガの一般的な評価は書かずともおわかりになるかと思う。
「ガラスの仮面」を表現するなら、青春熱血演劇大河ドラマとでも言ったらよいかもしれない。1976年、スポコンマンガやアニメが全盛の頃に連載がスタートしたこの作品は、今一巻を開けて見ると、非常にレトロな感じがし、アニメ化の時も、ドラマ化の時も、このレトロなイメージが課題となった。おそらく今こんなすごい根性を持った中学生や高校生がいるなんて、ちょっと想像できないし、指導者の方も、ぶったり、ギブスをはめるなんて、そんなすごい人はいないだろう。
これを書いている現在で、連載期間は途中の休載期間を合わせても、25年になるが、40巻を費やして、作品の中の時間は7年と少し(41巻の段階で、おそらく1984年)、主人公北島マヤは13歳から、やっと成人した程度である。
どうしてこんなに時間がかかったのかというのに、もちろん後ろ10年で5巻しか刊行されていなかったことからも推察されるが、「花とゆめ」誌上での休載が非常に多かったこと、さらにマヤの演じた舞台の一つ一つに費やす時間が非常に長いということもある。
場合によっては、「いろんな舞台の話を繰り返し繰り返しやっているだけ」としか、受け取られかねないが、考えようによっては非常に丁寧に描かれているのであって、それはいかにマヤが天才であるか、意外性を持ったキャラクターなのか、どのように認められて階段をかけあがってきたのか、ということを、作者美内がリアルに表現したかったということの表れであろうと思うし、作者の演劇好きが、その面白さを読者に伝えたかったということもあるのだろう。これだけ長い時間かけて書いているし、ちょっと現実ばなれしたスポコンのノリなので、一つの創作としては、そんな丁寧に作りこんでいる印象も受けないが、25年もかけているのに、時間軸や設定は狂っていないし、作者の演劇理論、あるいは創作作法(サクホウ)も書き込まれていて、特に演劇経験者には「ガラスの仮面」にあったけど、と引用した経験のある人もいるだろうと思う。
マヤもただ漠然とスポコンと情熱で一つ一つこなさせられているのではなく、最初は物まねから始まり、自分で演じるということをつかんだ後、月影先生から相手と呼吸を合わせる、ということを学ばされ、あるいはテクニックで補わなければならないことなどを学んで、少しずつ成長を重ねている。たとえ天才少女でも、努力なくして永遠の名作「紅天女」を演じるに足るのではなく、舞台で相手に合わせるために与えられた人形の役を、大河ドラマに出る時に学ばされた日舞の所作を、あるいは人間ばなれした難役を、こなすことが、実は人間でない梅の木の精霊を演じるために必要なプロセスであり、一つ一つの経験の積み重ねによって始めて演じることを許されるのだという、確固とした理念の元に描かれている。
見方を変えれば、作品の中の舞台も役も、漫然と並べられているのではなく、その最後の「紅天女」という目標のために、実は作者が丁寧に舞台や役というプロセスを選び取っているということなのだ。
この物語は、最初、テレビドラマや映画などの「お芝居」のとりこになって、女優を目指す、というスタートであるが、今読み返してみて思うのに、そういったものに夢中になって進む道に、実は作る側と、演じる側の二つがあり、そして、マヤは後者を選んだ、ということだったように思う。
が、実際は、優れた演じ手が、先で作り手に回るということはよくあることで、作者は特に焦点をあてていないが、高校の文化祭の時、文芸部の吉沢くんと「女海賊ヴィアンカ」を脚本に立ち上げる時、見せ場についてマヤは指示を出しているし、「二人の王女」のオーディションの時、マヤがその課題の中で7通りの役をやってのけるというエピソードが登場するが、それさえも実は、彼女が課題にはまるストーリーを作り上げているということで、女優として成長するうちに、舞台に必要な演出力や、作品制作に必要な物語の想像力さえも身につけているということも描かれている。
が、残念なことに、あまりそういう丁寧さにも着目されていないような気がするのだ。(気付かせないからこそ名作という考え方もある。)
作品が、リアリティを無視したようなオーバーリアクションな上に、「そこまでする?」というような内容がところどころあるために(そういう書き方であるというに過ぎないのだが…)そうでもないような印象を受けてしまうのだろう。でも、この作家は実に細かい人ではないだろうか、と私は思う。
「花とゆめ」誌上の読者のページで、そのページには読者が本誌のマンガをパロディーして投稿するというとても恐ろしいコーナーがあるのだが、「桜小路くん、最近(髪の)ハネが目立つ…」と書かれれば、単行本ではきちんと訂正されているし、真澄さんの持っているグラスのワインの量が次のページで増えていたのは不味いからこっそり戻したとパロディーされれば、ワインの量も書きなおされている。このページでの極めつけは文章で実際あった投稿、「マヤがこんなに打ち込んできた『紅天女』が、脚本を読んでみたら、とてつもなくつまらない話だったらどうするのだろう」というもので、これは口にしないだけで誰しも一度は考えただろう、美内もそう読者に思われたらどうしようと自身で考えただろうと思う(注:「紅天女」とそれにまつわるエピソードは美内の創作)。それ故か、否か、あの、「紅天女」に近づきはじめてからの近年の、連載中止とも疑うほどの休載の数々は(その休載のおかげで掲載のチャンスを与えられた新人も数多くいるのだけれども)、本当に、作者が体調を崩しているのか、それとも、他誌で別の話を連載しているからなのか、別の仕事で忙しいのか、目標に達して書く情熱が失われてしまったのか、それは作者にしかわからない。わからないが、連載休止のみならず、30巻を超えたあたりからの書きなおしは年々度を越え、「花とゆめ」本誌連載、コミックス、そして文庫のストーリーが、まるで違ってしまっているという結果になってしまっている。
結局は、それまでそれだけ丁寧に作りこんできたのだから、より完璧に、というこだわりが、そういう発表状態を生み出してしまっているのだろうかとも思う。
が、私個人としては、少し読者の声に対しては、耳にふたをして、取り組んでいけばいいのではないだろうかと思う。「高いところから低いところに水が流れるように、物語が筋を運んでくれる」というようなことを言ったのは手塚治虫だそうだが、作者自身、もう一度作品を読み返してみて、物語が欲する結末を、探してみてはいかがだろうか。でないと、未完のままでは、終わらないより始末が悪いような気がする。
最近では、作者が死ぬまで終わらないのではないか、との声まで出てきたほどである。
「源氏物語」の「雲隠」がタイトルだけで失われてしまったのは、源氏の最後を知りたくなかった読者が、わざと逸してしまったのだ、という説があるが、これだけの名作だからこそ、ラストがないほうがいい、と考える方が正しいのだろうか。でもおそらく、読んだ人間はみんな結末を待っていることだろう。
「ガラスの仮面」、アニメ化の時は、既読の人には不評だった。「ガラスの仮面」のタイトルの由来を毎回冒頭で言って、それでオープニングが始まるのだけど、「役者だから」ガラスの仮面をかぶるのではなく「人は」というふうに誤ったものであったし、月影千草がマヤを見出したのは、実際は子供達にお話をきかせてあげるときに、その寸劇めいたものの表情から才能を見出したのに、その部分がカットされ、「椿姫」を見たいがために奮闘したその情熱で見出されたように描かれてしまったことだった。
確かワンクールで14、5巻分進んだように記憶しているが、とにかく早すぎた。オープニングでマヤがレオタード姿の連想からか、踊り狂っているので、「おお、踊っている」と茶化されるし、既読の人にはかなり評判が悪かったが、不思議なことに未読の人には受けていたのだ。(c)少女マンガ名作選
それ故かその後部数も伸びつづけ、作者も認めるマヤ役安達夕実の登場によって、ドラマ化が実現された。これも既読の人で見た人は、「コスプレ大会」というほど、ぴったりのキャスティングだったそうだが、それ以上は何も上がってこなかった。レトロな設定に反して、テーマソングもかなりずれていた。それでも未読の人には評判が良かったのか、サラリーマンの方々がかなりはまったらしく、新しいファンの開拓に成功したらしい。
ホームページのファンページをめぐっても、どう考えても30巻を越してから読み始めたファンばかりで、最初「ガラカメ」と見た時は、カメの妖怪かと思ったが、これさえ略すなど時代は変わったものだ。真澄さんがチェリーボーイかもしれないという疑惑が起こるのもわかる。その気持ちはよくわかる。でも、そんなことは、この話では考えてはいけないのだ。
きっと、10年以上前に読んでしまった読者には、もう「ガラスの仮面」の魅力なんて忘れてしまったことだろう。
でも、私たちの現実では生きられなかった情熱の世界を、確かに彼らはあの世界で生きていて、まだまだ読者を魅了し続けているのだ。
マヤは、生きている。
彼女のひたむきさが私たちに乗り移り、作品の世界へと引き込まれた。
まるで彼らが本当に、どこか別の世界で生きていると、ふと錯覚してしまうほどに。