少女マンガ名作選作品リスト

担当者:咲花圭良 作成日 2004/8/18

作 品

あいつ

作 者

成田美名子

コミックス

花とゆめコミックス(白泉社・全二巻)

初 版 

1980/3/20,8/25

初 出

『ララ』昭和54年9月号〜55年6月号

登場人物:泉みさと、沢田涼司、七穂辰之介、楡崎麗、竹井由美子、泉麻世(みさとのいとこ)、みさとの両親、他

あらすじ:泉みさとは県立南高校の一年生。ある日映画を観に行った帰りに道を尋ねられた。それはみさとにとっての新しい隣人、そしてみさとの高校の三年で一位と二位を争っている二人、沢田涼司と七尾辰之介だった。
 二人はみさとに案内されて家までたどりつくと、みさとの勉強を見るのを条件にみさとの家の風呂に入らせてほしいとみさとの母親に頼み込む。早速今日から入ってくださいと言われ二人は風呂に入ったのだが、二人の汚れ物は母親が洗濯してしまい、みさとが風呂まで別の着替えを届けることになった。しかし裸で現れた涼司にみさとは卒倒してしまい、そのまま朝まで眠りこけてしまう。
 明けて二学期初日、生徒会実行委員のみさとは、学校の生徒会室で、二年の生徒会副会長・楡崎麗のアンケート集計を手伝っていたのだが、昨日越してきた沢田・七穂の話をすると、楡崎は「二人はドケチで有名で、特に沢田の方が父親とけんかをして家を出ているので、学費や生活費を稼ぐためにバイトや賭けをしまくっているのだ」という。おまけに人にはたかるし、何よりも人をおちょくることにかけては天才的だというのだ。
 ちょうどそこへ二人が現れた。沢田が昨日裸でみさとの前に現れたのは、考えなしだったと謝りにきたのだ。
 しかし二人の独特のノリでからかわれると、みさとはやはりこの元気すぎる高校三年生を相手に前途多難だと思わざるをえなかった。
 あげくのはてに家に帰っても隣と部屋に木で橋を渡されてしまい、心の落ち着く時はなさそうだった。(C)咲花圭良
 さて、橋を渡されたのは、ご飯の炊き方をきいてきたからだった。
 みさとは二人のために食事の支度をしてあげる。しかし、いざ食べる時になると、みさとの家の猫が窓の外にやってきた。涼司が開けようとするのを「毛が飛ぶから」入れないでと注意すると、「あんた大人くさいこと言うね」と言われ、ドキリとして胸がいたんだのだった。
 思い返せばみさとも子供のころは食事中に猫を部屋の中に入れたがった。それをよく母親にとめられたのだ。そのころといえば、みさとも涼司たちのようにはつらつとして元気だった。工事現場の砂の中に混じったガラスをダイヤモンドと信じ、宝物のように集めていたのだ。昔はそんなふうにはつらつとしていたり、ときめいていた時もあったのに――。
 そうするうちに、今度は涼司が県境まで自転車ででかけていった。泊まりでなければ無理なのに、明日の朝の始業までには帰ってくる賭けをしているのだという。みさとはそれを無理だと思うのだが、七穂は並の執念じゃないから必ず帰ってくるという。
 翌朝、登校中のみさとの横を、涼司が自転車で駆け抜けて行った。飲まず眠らずで走っていた涼司に、少しは休んだらというみさとを、彼は「休んだら動けなくなる」と一喝する。そして見事始業のベルが鳴る前に校門の中へゴール。
 みさとは、そこまでして彼を突き動かし、光らせているものが何なのか、見てみたいと思うのだった。

コメント: 成田美名子といえば「『エイリアン通り(ストリート)』でしょう」と言われそうである。確かに成田の代表作であり出世作といえば『エイリアン通り』である。万人受けしやすいのに深みもあって、『エイリアン―』は文句なしの佳作であるが、『エイリアン―』へ到る前作である、この『あいつ』がなければ、『エイリアン―』への道筋は、開かれていなかったのではないかと思う。

 さて、私がこの作品のレビューを書くのは二度目である。
 『あいつ』が二度レビューを書くに値するだけの作品ととってくれても構わないが、どちらかというと一度目があまりにも言葉足らずで読み損ないをしているように思ったので、もう一度改めて書き直すことにしたのである。
 それにあたって、前回分を抜粋することにする。


 いわゆるこれは一種のグローイングアップ・ストーリーであるが、現在語るもむなしくなってしまった「生きる意味」を、この作品が書かれた約二十年前当時は、まだ問題意識を持って把握するだけの可能性が十分残されていたことがよくわかる。(これを書いている成田本人もまだ十代だろう)
 「ただ家と学校を往復するだけの惰性だけの生活」を「白い闇」とたとえているが、この当時、現代社会の閉塞感がかかえる「闇」を、このときの若者の心の中には胚胎していたことが伺える。
 もう夢を追う年でなくっても、「大切な何か」を忘れてしまったのなら、この作品でまたそれを思い出していただきたい。夢を追うばかりが人生を充実させる方法ではないということを、もう知っているはずでもあるのだから。

 このレビューの文章を書いたのが、一九九九年初頭、今から五年以上前のことである。
 一つ注を加えておきたいのだが、文中にある「現在語るもむなしくなってしまった『生きる意味』だの、「現代社会の閉塞感がかかえる『闇』」だのが、この五年の間に虚しい状況ではなくなってきている。現代社会の深奥はどうあれ、表面的には急速に、着実に、世の中は変化しつつあるのだ。
 とにかく、確実にいえることは、この作品を私が読んだ八十年代初頭から九十年代初頭まで、『あいつ』という作品に書かれていることを同年代の人と真面目に語ることは、どちらかというと「恥ずかしいこと」であったし、真面目に語れる人を探すこともなかなか難しい時代だった。(前掲のレビューを書く頃までは、「生きる意味」を考えるさえばからしいというような風潮さえあった。)(C)少女マンガ名作選
 そうした社会風潮の時代の中で、その水面下をゆくように、あるいは表面満たされぬ心の奥底を支えるように、精神性あふれる数々の少女マンガは誕生し、読み継がれていった。そして、まるでそのはざまに位置するかのように『あいつ』という作品は存在するのである。

 『あいつ』には、そうした「生きること」を真面目に考えるメッセージ性が、わかりやすく、ありありと読み取れる。
 私が読んだ限りでは、成田のこれより前の作品に、ここまでメッセージ性の読み取れるものはない。この時、つまり1980年、こうした作品を成しえたのは、もちろん少女マンガ界の環境が、「精神性」において、成し得る状態にまで発展してきていたというのもあるだろう。また、当時「オタク」という言葉とはまだ無縁だった頃の名作アニメ『機動戦士ガンダム』のメッセージ性からの影響もあっただろう。(成田も作品の中にたびたび登場させている。放送時はビデオも普及していない時代で、ラジオのリスナーからの手紙で「夕方ガンダムのある日は部員が帰ってしまい部活が成り立たなくて困っています」というエピソードが紹介された人気ぶりだった。)
 そして、私が初めてこの作品を呼んだのは、確かその発表より五年ほどあとの、中学生だったが、そのメッセージに強い衝撃を感じたものだった。
 今読みかえしてみれば、「何を当たり前のことを」とか、「何でこんなことに感動したんだろう」というところが少なくない。それだけ自分が年をとり、成田たちに感化されたことを自明のこととしかうけ取れない変に出来上がった老成ゆえの悪であろうと思う。
 とりあえず中学生の私は、読みながら、みさとが子供心を忘れていると気づくところで共感し(確かに今読むと作品は説明不足で強引な展開ではある)、目標のために必死に頑張る沢田・七穂をかっこいいと思い(別にまだ高校生なんだからそんなに急がなくてもと今読めば思う)、夢をみつけて母親を説得しようとするみさとに頑張れと思い(夢の見つけ方が安直でタイミングがよすぎるというふうに、今では思わないでもない)、みさとの母親を説得させる場面に心うたれたのである。
 今読み返すと、成田の表現不足が若干目につくが、それでも、それを差しひいても、中学生の私の心を動かすだけの「何か」があった。
 『あいつ』の執筆当時、成田美名子は十九歳である。
 受験戦争と偏差値評価が激化する時代の中で、彼女自身も、マンガの道を行くか、進学の道を行くかで迷ったのではないだろうか。その時に抱いた熱い決心が、未熟な作品ながらも読み手を動かす強さとして反映されたのではないかと思う。
 若さには力がある。技術にも経験にもかえがたい。


 しかし、現在若年の小説家が多く誕生し、当時の成田と同年で芥川賞までとっているが、この芥川賞作家や若年小説家たちにそこまで人を動かすものが書けるのか、かなり疑問で、彼らの書いているものでは、八十年代に少女マンガを読んできた者たちをふりむかせることができるのかというと、到底無理なのではないだろうか。
 そう比べてみるにつけても、当時の少女マンガの質は半端ではなかったのである。


 ただ、かつての私――学生時代の、あるいは前のレビューを書いたときの私――は少し勘違いをしていた。
 成田の『あいつ』でのメッセージを、「夢を作って追いかけることの大切さ」だと受け取っていた。
 そこだけがずっと納得がいかず、「夢」に出会えない人はどうするのだろうなどと思っていた。無為に生きるだけなのかと。
 しかし違うのだ。
 彼女は「精一杯生きる」ことをこの作品で既に訴えていたのだ。「生きるために生きる」だけでなく、「生きるために活きる」必要があると。無為に学校や職場を往復するのでなく、生きることを楽しめなければと言っていたのではないかと。
 「何」という職業に就くこととは限らない。ゴールのある目標を追うこととも限らない。自分を自分として存在させるということ、楽しくて、充実して―――
 その時を人は、幸福というのではないだろうか。
 そのために、自分と対話しつづけ、前向きに、積極的になれる自分と出会い、活きていかなければいけないのではないか。
 せっかく生まれてきたのだから。


 最後に、くれぐれも誤解のないように書いておくが、この作品は頭を抱え込んでウンウン言いながら読むようなマンガではない。
 ウフウフ笑いながら読むマンガである。
 「min」ワールドは、ここにも健在なのである。

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