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小椋冬美が「りぼん」でデビューした時、それはちょっとしたセンセーションだった。その頃の「りぼん」の主流と言えば、陸奥A子、田淵由美子、太刀掛秀子らの描く、ほのぼのとして、どこかのどかな作品だった。そんな中に小椋は、ロックと雑踏と香水の香りをもたらした。それは新鮮で刺激的で、当時の「ちょっぴり大人の世界を知りたい読者」には大いにうけた。
確かに小椋は、初期作品では当時「りぼん」で主流であったものの踏襲であったし、その後作品を重ねるうちに、スタイリッシュでビジュアル的な作品に傾倒していった。そんな小椋作品の中にあって、丁度、小椋の作風が確立されつつあった頃に描かれた事もあってか、この「さよならなんていえない」は突出していると言えると思う。当時のオーソドックスなストーリー展開ではあるが、内容はかなり現実的だ。それまでの少女マンガに多かった「片思いの甘い世界」を描くのではなく、ほろ苦い恋の自覚とそれに伴って自分自身を真っ正面から見詰め直す少女の姿が描かれている。小椋にとっては珍しく単行本で3冊に及ぶ長さである事もあってか、主人公の麻美の微妙な心の動きが丁寧に描かれている。
見た目とは裏腹に気が強くて竹を割ったような性格の麻美は、ルックスはいいけど、無気力で、無表情で、ひねくれた性格の矢野が気になって仕方がない。それは矢野の方でも同様で、何かにつけおせっかいを焼いてくる麻美が気に食わない。会えば必ず喧嘩になってしまう二人。麻美は矢野に苛立つと同時に、そんな自分自身にも苛立っていた。矢野との関わり合いで悶々とする一方、画家である祖父とイギリス人である祖母の二人の生き様が麻美を刺激する。祖母に似ているという自分の中のイギリス、そのイギリスを捨てた祖母、その祖母がたった一度見せた涙、その涙へのこだわり――麻美が自分らしさを求める姿は、真面目で内省的だ。
嫌いでイライラさせられて会えば喧嘩になるのに気になる相手――そんな相手を意識して、自分とのやり取りを反芻して、自分自身を見つめて、やがて実は相手に惹かれていることに気づく――それが、せつないまでに丁寧に描かれている。「好き」と自覚する前の少女の微妙な心の動き、時には癇癪を起こしたり、時には落ち込んだり、そんな感情の起伏を描き、その中で「自分らしく生きる」ことを探し、自分自身に素直になって、自分の本当の気持ちにたどり着く。
この作品の登場人物たちは麻美に限らず、見た目はどうであれ、かっこよく生きてはいない。それぞれが不器用で真面目で、自分自身に正直であるように、あるいは正直になって、相手にも本気を求め、意地の張り合いは本音と本音のぶつかり合いになり、結果として歩み寄りにつながる。麻美と矢野、矢野とバンドメンバー達、それぞれの気持ちが通うようになる過程は、しみじみと心に染み渡って来る。
この作品にみられるような丁寧な心情描写を描きあげられた小椋が、なぜこの作品以外では形式的で視覚的な手法に走ってしまったのかを考えると不思議に思える。小椋作品の魅力は、決してファッショナブルなスタイルに終始するものではないはずだ。心情描写を故意に避けて、事象を描くことを主としているかのような最近の作品を読むと、どうしても他愛無い内容で完結してしまっているように感じられるのは気のせいなのだろうか。派手で自由気ままに生きているかのようで実は孤独で寂しがりや、というような主人公を据えた、あっさりとした都会的な作品を生み出す道を選んでしまった小椋だが、この作品のような青臭く熱っぽい世界も実は持っていた事をマンガ好きの皆さんには知って欲しかったのが、今回この作品リストを書かせてもらった動機である。(C)少女マンガ名作選
私は連載で読んでいた為か、今読んでも違和感無く、なつかしくせつない思いで作品に入って行ける。大人になってから初めて読むとどうなのだろうか。しかし、小椋作品をどれか読んでみようと思っている方なら、ぜひこの作品を読まれる事を勧めたい。私にとっては、この作品が小椋の代表作であり、最高傑作なのだ。