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〔絵と叙情性〕
既にあらゆるところで書きつくされた言葉であるが、少女マンガ史上燦然と輝く名作、それがこの『ポーの一族』である。今や押しも押されもせぬ少女漫画界の巨匠萩尾望都の、デビュー間もない頃の作であり、そして、彼女を世にしらしめ、スターダムへとかけのぼる第一歩となった記念すべき作品である。
吸血鬼を扱った異界もの、といえば、今はさして珍しくもないが、特にスポ根もの、学園ものが全盛であった当時の少女マンガ界においては、題材もさることながら、作品に通底する独特の雰囲気と叙情性が、当時においては斬新で、様々な意味で脚光をあびるにたる作品だったのではないかと思う。
などとは書いてみるものの、初めて私が『ポーの一族』を読んだ時、確か中学生ぐらいで、発表から十年以上経た頃であったけれども、その当時そういうストーリーが既に「珍しくもな」く、また、読む前にきいていた評判があまりにも高すぎたせいもあって、さしてすばらしいものとも思えず、さらにフラワーコミックス掲載のストーリーは前後してごちゃごちゃとわかりずらく、一度読んで、そこでもうそれっきりになってしまった。どちらかというと、竹宮恵子の方が入りやすく、その後はさして萩尾の作品数もこなさず、なぜ周囲がそれほど萩尾の世界に入れ込むのか、不思議なほどであった。
そしてまた、こうして様々なレビューを書くにいたり、様々な作品を読み返し、それにコメントして、萩尾という作家の作品をいくつか読み、十数年経った今もう一度この『ポーの一族』を読み返してみると、この作品に対する世間の評価――時に熱狂的に、熱く語られ、場合によっては非常な衝撃をもって受け入れられたというその評価にも、何となくうなずけるようになった次第である。
そもそも日本のストーリーマンガはよく、ハリウッド映画にも匹敵すると、以前からよく思っていて、そういう意見も耳にすることはある(もちろんその享受のスケールの大きさや、制作に携わる費用、人数等のことではなく、内容で、である。)。日本におけるストーリーマンガを手塚治虫が生み出した後、ハリウッド映画のストーリー性のみならず、「絵」でもって「見せる」独特の手法が、日本のマンガ、特に少女マンガで、「絵」の魅力を「魅せる」までに描きあげたはじめは、この萩尾の『ポー―』あたりからではなかったかと思うのである。
ハリウッド映画の特徴は、一つ一つの絵が、作品を見るうちに焼き付けられるように撮られていることで、名作と呼ばれる作品ほど、一コマ一コマの場面が頭に多く残る。そして日本の少女マンガにおいて『ポー―』にしても、メリーベルがエドガーの名前を叫びながらうたれる場面や、エドガーが記憶をなくし、それを取り戻したところへメリーベルが現れる場面、ロビン・カーが窓越しに墜落する場面、あるいはマチアスにバラの生気を吸い取ったところを目撃された後の場面当等々、あげればキリがないほど印象的な「絵」が登場する。
こうして、演出までも一人でこなさなければいけないマンガで、演出力が見事に生かされ、我々の脳髄に迫ってくるのだ。一人ですべてこなすその才覚には脱帽するものもあり、また、こうした「演出」は、八十年代に入った少女マンガでは全く当たり前のこととなってしまっているが、萩尾らの存在がなければ、あのゴージャスでスケールの大きい「カメラワーク」を用いた数多くの作品が、輩出されることはなかったのではないかとさえ思うほどである。(C)少女マンガ名作選
目に星も光らず、巻き毛もなく、愛も恋も熱血も主流におかれることはなく、ストーリー性と絵に重点がおかれる質の高い作品を、その後数多く生み出す契機となった七十年代初頭の萩尾らの手法は、ある意味少女マンガ界に大変革をもたらす契機となったのではないだろうか。
〔構成〕
さて、先に「ストーリーは前後してごちゃごちゃとわかりずらく」と書いたが、始めの方に掲載されたストーリーでは死んだはずの人物が、後で掲載されたストーリーで出てきたりと、このエドガーを中心としたバンパネラの物語は、オムニバスのような形式をとりながら、二百年、三百年という単位の一本の長い時間の中から気まぐれにエピソードを取り出してきて描いたという印象を受けるのである。
でも、時間軸の中を錯綜しているように見えて、年表も作れるほど正確に時間設定がされているので、これは萩尾側に何らかの理由があってこういう描き方がされたであろうことは、容易に想像がつく。しかも、先に描かれた「ポーの村」「グレンスミスの日記」そして「ポーの一族」の中に、この後に描かれた「メリーベルと銀のばら」「小鳥の巣」の場面が抽出して描かれているのをみても、少なくとも時間的経過順に並べれば、「メリーベルと銀のばら」から始まって、「ポーの一族」「小鳥の巣」へといたる一連の物語は、書き始めた段階で萩尾の頭の中ではできあがっていたのだ。
それならなぜ時間的経過順に描かなかったのか。
「ポーの村」「グレンスミスの日記」から始まって、一号とあけず「小鳥の巣」まで雑誌連載されたにもかかわらずである。
早い話、物語の中で要する時間が長すぎるので、時間の順序を入れ替えたのが実際だろう。だらだらと二百年三百年を書くよりは一話形式でしめて話を並べたほうがすっきりとした印象を受ける。さらに、「ポーの一族」を冒頭に持ってきたのは、話の世界を読者にわかりやすくするため、一番効果的なものを前に持ってきたのだろう。効果的とは、たとえば表題作「ポーの一族」を読んでから「メリーベルと銀のばら」を読むのと、その逆とではまるで印象が違ってしまう。「ポーの一族」「メリーベルと銀のばら」「小鳥の巣」のどの順序を入れ替えられても違うだろう。読者が受ける、特にメリーベルの「悲劇」の印象、そしてその悲劇によって高められるメリーベルという存在の美しさが、まるで違うのである。
ちなみにこの『ポーの一族』は、フラワーコミックスで最終的に全五巻となっているが、当初先にあげたストーリー群以外のストーリーは予定されていたのだろうか。明らかに、上のストーリー群が三巻までコミックス刊行された後、残りのストーリー、つまり四巻五巻に掲載されたストーリーが雑誌連載され始めたことになっている。おそらく、前三巻はすさまじいほどの好評を博したのだろう。そしてどう考えても、その好評を受けて、あとの話が作られたのではないかと思う。四巻五巻で、一部コミックス収録調整のために書かれたと思われる前後との全くつながりのない「はるかな国の―」「一週間」「ピカデリー7時」をのぞけば、話の中心はエドガーたちの存在を伝説としてとらえるためのストーリーとして準備されていて、メリーベルとアラン、エドガーにまつわる、ある哀しみを帯びた前半のストーリー群と比べて、若干色調が異なる。はっきりいって作者の視点や描くべき主題がかわったせいか、話のトーンがやや明るい。
とにかく、このフラワーコミックス四巻五巻収録作品が、後から練り直された(あるいは練りだされた?)経緯を見るにつけ、前三巻がどれほどの人気を博したのかわかるし、それだけの人気を受けながら、既に出した前作品群とさして遜色もなく、話を生み出し描き出していった萩尾に、今さらながら驚かされることである。
現在の「巨匠・萩尾望都」と違う、前三巻分の作品の、時間の中から切り出されてきたストーリー群の配置・構成を見るにつけ、当時はのるかそるかの新人だった萩尾が、自分の作風が世に受け入れられるかどうかも含めて、どれほど入念に準備した作品であったかと思いをはせるのである。
もちろん今の萩尾だって、「巨匠」と呼ばれるにふさわしい作品群を生み出し続けている。むしろ、技術という点では、今の方が上だろう。しかし、この当時のような若い頭脳を駆使し、綿密に、入念に、そして若干の緊張を見せながら描かれる作品は、後にはもう見られないような気もする。同時代に輩出された作家群を見ても、才気あるマンガ家たちが多数新人としてデビューした頃であったから、自分が雑誌スペースをとるか、あるいは漫画家として生き残れるかという、のるかそるかの非常に緊張感の漂う環境でもあったのではないだろうか。「巨匠」がペーペーの駆け出しで、その勝負をかけた新人だった頃の姿が垣間見れるようで、なんとも頭脳を駆使した興味深いストーリー配列であり、構成であり、描き方であると、感心することしきりである。
…と、書いてみたものの、もしかしたら作者本人はそんなかけひきなど考えていなかったかもしれない。しかし、それならそれで、また大器の風格を感じさせるものではあるが。
〔ある哀しみ〕
この作品の中には、ある「哀しみ」がある。
萩尾望都の持つ独特の叙情性ある絵柄もさながら、「ポーの一族」には、ある独特の「哀しみ」が漂っている。その哀しみの正体とは、なんだろうか。
年をとらない哀しみだろうか。それとも、死なない哀しみだろうか。
死なないとはいうものの、一度死んでバンパネラへと「生まれ変わった」彼らは、正確には死なないのではなく、「死ねない」のである。老いもせず、自然死することもありえないが、くいで、銀の弾で、心臓を貫かれれば、あるいは傷を完治させえることなく弱りきれば、間違いなく塵と消える――つまりは、一つの死を迎えるのである。死なないという、それが哀しみであるのなら、耐え切れなくなれば死を選ぶことも、また可能なのである。つまりは彼らは「死なない」のではなく、「死ねない」と言ったほうが相応しいのである。ということは、彼らはやはり塵と消えるその瞬間をおそれ、エドガーにしても、不老不死の運命をのろいながら、様々なハプニングに際し生き残る道を模索するのだ。
彼らはなぜ「死ねない」のか。
生きとし生けるもの、すべてに設定された「生存本能」が、バンパネラとなっても作用するというのが、実際のところだろう。
運命を呪いながらも、死ねない。この、矛盾。
そして、人として同じく心は動くのに、人とは違う。また、この矛盾。
彼らの中にある「哀しみ」とは、作品の中でキリスト教思想とのかかわりをさほどもたせてはいないことから考えても、まず一つに、この矛盾を秘めた存在であるからこその、哀しみなのではないか。――ヒトの形を持ちながら、ヒトとは違う。そんな哀しみである。
人と接触しながら、人とは深く関われず、自分達の一族――人の目を避け、逃れ、新たな出会いさえも受け入れられない哀しみの一族へ招き入れる不幸でしか、愛を貫くことができない。
そんな哀しみである。
とまれ、「ポーの一族」に用意されたのは、そんな哀しみばかりでもない。
捨て子となったエドガーとメリーベル、拾われた先がバンパネラ一族ポーの村の老ハンナ、一族がバンパネラであるという秘密を知ってしまったばかりに一族に加えられる運命となるエドガー、さらに成人せずに一族に加えられ、たった一人の妹と永遠に離れなければならなくなるエドガー――気がついてみれば、『ポーの一族』の根幹となるストーリーは、運命の悲劇に満ちている。
ストーリーの中に通底する透明な哀しみ、そして織り込まれていく悲劇――それがバンパネラのエピソードであるにもかかわらず、何故か理解できてしまうのは、共感しうるのは、もちろん我々にもこうした哀しみがあるからなのだ。その哀しみを、暗さばかりで覆ってしまうのでなく、萩尾はある美しさをもって描きあげていく。そしてその美しさ切なさの根元にあるのは、いつも人への想いなのだ。
彼ら、バンパネラ一族の持つ悲劇・哀しみ・切なさは、特別のようにみえて、特別ではないのかもしれない。誰にも多かれ少なかれ、似たような体験があるからこそ、共感できるのであり、とりわけ運命に翻弄され、その中で誰かに対する想い――逝ってしまったものへの、あるいは離れ離れになってしまったものへの、愛しつくせないことの、登場人物たちの切ないまでの美しい想いが、我々をこの作品へとひきつけてやまないのかもしれない。
怪物を、これまでになく美しく描きあげたストーリー。
カイブツとしてとらえるのでなく、心ある生き物として描いたところに、萩尾が生み出したこの世界の魅力が隠されているのではないだろうか。