コメント:「柊・秋海棠・紫苑・繻子蘭 心あたりあれば連絡下さい。 こちら玉蘭・木蓮・槐です。」
作中で、登場人物が月での仲間を探すために雑誌「BOO」に投稿し、掲載された文章が、これだった。それをきっかけとして柊・繻子蘭と再会が果たされたという筋になっているのだが、その後この「BOO」のモデルになった雑誌「MOO」に、同様の投稿文が多数寄せられ、掲載されるようになる。「花とゆめ」編集部や作者日渡早紀の元にも読者からそうした文章の手紙が寄せられるようになり、マンガとしては異例な「フィクション宣言」がなされた。
結果として、コミックスでは7巻からフィクションの断り書きが入り、8巻雑誌掲載時広告スペースである4分の1縦割りコーナーで、作者本人によって「フィクション」の断り書きが書かれるに至った。
作者本人は「思春期にはよくあることだから」と、そのままで通そうとしたらしいのだが、収集がつかなくなってそのような宣言がなされたのである。
全体、人間の持っている文芸は、どういう処に根を据えているかというと、生理的にも、精神的にも、あらゆる制約で、束縛せられている人間の、たとい一歩でもくつろぎたい、一あがきのゆとりでもつけたいという、解脱に対する憧憬が、文芸の原始的動機なのである。
と述べたのは、民俗学者折口信夫である。
苦しく生きづらい現実から、精神的にでも逃れたいと思うところに、救いとしての物語がある。ただ、結局はフィクションであるから、そういう「解脱」に値するまで現実を忘れさるのは難しく、どこかにいつも現実の自分があって、それを払拭するまでの力を持つ作品というのは、なかなかめぐり合えるものでもない。第一、作者の力量がなければ話にならない。
やってのけた日渡も最初は「しめた」と思ったかもしれないが、過ぎるとそれも恐ろしくなる。
「思春期にはよくあること」と日渡はどういう意味で言ったのかは知らないが、吉野朔実が「少年は荒野をめざす」で描いているように(特集・吉野朔実「作品リスト」参照のこと)、少年期、いや少年期に限らず、人には誰しも「他の理想とするべきもう一人の自分になりたい」という欲求がある。現実が生きづらければ、生きづらいだけ。その欲求を、「ぼくの地球―」の中の登場人物たちはいとも簡単に満たしてしまっているのだ。
どこかに生きたはずの、もう一人の自分。
フィクションをフィクションとしてとらえきれなかった読者は、そのロマンチシズムとあいまって、作品の中での彼らのように「あったはずのもう一人の自分」を欲したのかもしれない。そうして日渡は、その欲求に答えるかのような作品設定を作ってしまったのだ。
だから、この現象は、作品の中におぼれただけでなく、作品の中に自分のありたい理想が書かれていたからというのが原因でもあるのだろう。折しも日本の十代には夢見るような未来もなく、絶望すらない。どこかで今の、レールの上の「自分」から脱却しなければ、時として心が死んでしまいそうで平静でいることすら難しい、そんな時代でもあり、あったのである。
いろんな意味で「的を射た」作品だったのだ。
上記内容から推察できるように、この作品は日渡作品の出世作であり、代表作でもある。
オリジナルビデオアニメ化され、もちろんイメージアルバムも作られた。
上記内容を抜きにしても、ファンレターの数はすさまじいものがあったろうし、「紫苑さん」「木蓮さん」と、「さん」つきで呼ぶファンも相当数いたはずである。
という前提の元で、先に気に入らない点を書くことを許していただけるなら、とにかく日渡早紀という人は、純粋にミーハーすぎる。「ぼくの地球―」が出て来た時も「子供」「超能力」という設定で、私は迷わず大友克洋「AKIRA」を彷彿とした。作品に影響されて、創作意欲を掻き立てられるのはいいことで、それはそれとしていいと思う。かの吉田秋生も「BANANA FISH」の初期で、ハードさと絵柄は間違いなく「AKIRA」に刺激されたものだと思う。が、ただでさえ、日渡は元からくさかった。デビュー作「魔法使いは知っている」からくさかった。ダサいといってもいい。作品内容が悪いと言うのではない。どこか、日常での動作を演劇めいてやるような描き方のくささがあったのだ。その臭みは、「ぼくの地球―」ではかなり洗練されたけれども、やはりそのくささは抜けきれなかった。問題は、くささがそのままミーハーに走った(おそらく少年マンガ)というのが目につき鼻につき、さらにくさければくさいで通せばいいものを、いちいち「青春」だとか、作者の注書きがそこここに書かれている。
読者は、作者ほど、作品に対峙している時「醒めて」はいないのだ。
3巻あたりまでそのくさみと作者の声が顕著で、絵柄を前作と無理矢理に近いほど変えてしまったために余計に目についた。だから私には、上記のような、フィクション宣言をするほどにひたりきることが信じられなかった、というのが正直なところである。考え方を変えれば、作品の中の、作者の「醒めた目」が引き入れた、現実の要素が、読者が日常対峙している現実とあいまって、フィクションの境界をあやふやにさせたのではないかと疑ったほどである。
また、作品をご存知ない方のために、詳細は避けるが、ラスト30ページの落ちのつけかたは、失敗だったのではないかとも思う。あのラスト故に、途中十分魅力的だったストーリーの価値を落とし、ファンを相当離してしまったのではないかとさえ思った。前世にバシバシ縛られている、その前世から解放されようと頑張っていたはずなのに、結局は前世に縛られている感が否めなくなってしまった。要するに、あのラストはとても「うそ臭い」のだ。恐らく、「ぼくの地球を守って」には大きくわけて二通りの読者がいて、SF的要素を楽しんでいた読者には、あのラストは何も感じなかったかもしれない。しかし、日渡が、くささだささ絵のへたくそさを括弧くくりにしてもそれまでの読者に支持されてきた、彼女独特の精神性に主眼を置いて読んできた読者には、たいへん不服なラストではなかったかと思う。それまでの出来が、なかなかよかったことも合わせて、余計に。
人気のあるSF作品のラストを、読者に支持される形で終わるのは、難しいことだとは思う。柴田昌弘「ブルーソネット」も、連載中絶大な人気を誇りながら、その後連載中ほどには語られないのも、終わり方の支持が分かれたためだろう。
とまれ、「ぼくの地球を守って」の作品の中身は、しかしその一つ一つのエピソードを読むだけでも、十分魅力的なのだ。面白さも抜群である。
もしかしたら、作品を流れる大きなSFの話展開は、十代の多感な少年少女でも作れるレベルの筋かもしれない。が、事件一つ一つを動かしているエピソードは、おそらく日渡早紀にしかできなかった描き方ではないだろうか。こうしたSFチックな作品は、大方動機が「人類愛」「平和」「自然保護」「上昇欲」などの大義名分的な内容に偏って安易な印象を受ける場合が多い。が、この話は「星は、すばる」や、「無限軌道」を書いた人の話だけあって、「動機」は人間的な心のひだによって動かされている。
現実において、実際事件とは、たくさんの人々の、心情の組み合わせで動いていくことが多い。それをいちいち作っていかなければならないのが、創作である。非常に緻密な作業で、時にパズルを組み合わせるように、あるいは、時に家を建てるような感じで、作品は練っていかれ なければならない。
まさしく、「ぼくの地球―」のエピソードは個々の性格を、心理を、きっちり設定し描いていることによって成り立たされ、たとえば、「紫苑」のエピソードを読んでいれば、玉蘭は極悪非道のとんでもないかっこつけのように映るけれども、ちょっと視線をずらして玉蘭のセリフを読んでみると、彼は彼の人格としてきちんと正論をはいていて、愛ある家庭で育った、適度にコンプレックスを持つ青年であり、優しさや正義感は、紛れもなく本物の人物とし設定されていて、「木蓮」を迷わせるにたる男なのだ。この「迷い」がキーになり、さらに、紫苑のフィルターにかかったときには、偽善者の悪者になってしまい、それがまたキーになって、事件を動かしていく。秋海棠もしかりである。
さらに槐の恋が、現世の彼らの「未来へ」という気持ちを動かす最初の原動力になり、柊の後悔が、現世の進行に歯止めをかける。
心情に重点を置かない書き手なら、なおざりにしてすっとばしてしまう。結果、薄っぺらい作品にしあがってしまうのであるが、日渡はそういうわけにはいかない人なのだ。だから、中盤若干の時間をかけても丁寧に「紫苑」という人物、――その「孤独」、「救われない心」、「それでも愛されたい気持ち」――を作らなければいけなかったし、「木蓮」という人物の――「逆コンプレックス」、「愛されない気持ち」――も、作らなければいけなかった。おそらく、「紫苑」の視点から書いて聖女と化してしまった「木蓮」を、今度は「木蓮」の視点に戻して人間に描きなおす過程は、気持ちの切り替えに加えて、「特別な状況に生まれた人」という意味で、非常にやりずらかったのではないかと思う。何より「紫苑」の心理は手にとるように作者には理解できても、「木蓮」の心理は、特に「特別な」という意味で、いまいち書きづらいというフシがあったのではないかと、読んでいていぶかる。だからその部分が多少ダラダラとした印象になり、トーンダウンした感じを受ける。全体の魅力は、日渡の力量で遜色ないのだが、誤魔化す意味もかねてもう少しすっとばしてもよかったのではないかと思う。(C)少女マンガ名作選
それゆえか、なぜか、人によっては「木蓮の動機」はとってつけたという印象を免れないのではないだろうか。
紫苑に比べれば、はっきりと、心情が語られない。
理解は可能なのだ。なるほど、と思うこともある。しかしこれを実感するのは、お子様には難しいぞ、とも。女性の心理だから、作者自身わかってはいるが、近すぎて、もう一歩踏み込めない、表現できないというのもあるかもしれない。くどくど解説するのもうそくさいし。「言葉にならない感情」「自覚せぬ心情」に重きをおいて、この作者は敢えて書かないこともあったりする。それゆえか、否か、自分でも気付いていなかった気持ちは事件を経て始めて自覚した、開花した、とかいう場面などがよくあり、作者自身、作りこむ時、実際ロールプレイして、理解しても言葉として表現できなかったなら、「そのままで」通した場面が実は幾つもあったのではないかと思う。リアリティを期待するなら、それは語らないのが正しい。早紀シリーズ「星野少年」で書いている通り、作者も既に自覚している。「書かない」のは確信犯でもあるだろう。
それが読者の力量によって、読み込めたり読み込めなかったりしてしまう。とってつけたような印象を受けてしまう。
しかしそれが「深み」となって生きてくるのだ。
作者は何も「解説」しない。「紫苑」の心が「どこかに帰りたがっていた」ことも、「木蓮」が、魚が生まれた場所に帰るような思いで「帰りたがっていた」ことも、二人の生きていた過程の何がひきあって、そしてその思慕が、どこに行き付いたのかも。
回帰して、行きつく果ての「地球」を守るということが、結局は何を、誰を守るのかということも。守るということが、何を意味するのかも。
「本当は愛されていなかった」という二人の思い違いが、事件を作ったと言っていい。
「満たされたい」と思う「紫苑」と、「ショックを免れたい」と思う「木蓮」の拒絶が、事件をより大きなものにしてしまった。が、現世で「木蓮の告白」をきいた「紫苑」は、その時、誰よりも「癒された」と思うのだ。「憎しみの果てに」見たものがあった。それなのに、「紫苑」はクライマックスのあの行動に出る必要があったのだろうか、と、やはりラストをさしひいても疑問が残る。
行き付いた場所を完全な形で結びたい、という、作者の欲求はわかる。ある意味、「紫苑と木蓮」という二人の生きてきた人格に即せば、「人間心理とその本当らしさ」を徹底しているといえるかもしれない。でも、現世の彼らはどうなるのか。生まれ変わった以上、別の人格で人生だという考え方はどうなるのか。皆であれだけ考えていきついた「未来へ」という気持ちは、どうなるのか。そこが、日渡ゆえの結論であり、成功であり失敗であり、日渡ゆえの哀しさであると思うのだ。
結末はどうあれ、その過程は一読するに値する。そして、これからも、その描き方を徹底してほしいのだ。創作界を見渡せば、人間心理を描ける作家というのは、意外と少ない。彼女独特の魅力であり、力だと思う。