コメント:この作品が出てくるまで、というか読むまで、著名度の割には高橋留美子という作家は嫌いだった。「うる星やつら」のラムちゃんといえば、ルパン3世の峰ふじ子と並ぶくらい、男子・男性に人気の強いキャラクターらしいが、とりあえずその人気のあるキャラクターそのものに、何か許せないものがあった。
この「めぞん一刻」を知ったのも、まんがからでなく、アニメからで、兄が見るから見るという感じで見ていたし、高校の友人諸氏も見ているから話の種になり、その後まんがを読んでも「ふ〜ん」という程度の感想しか出てこなかった。どちらかというと最初の方は「うる星」の印象が強くて、どうも好きになれず、中盤以降になって、ようやく読めたという感じだった。
それが、連載も終了し、4、5年、全く手にもする機会もなかったこの作品を、思いもかけず読み返してみて、「あれ?」と思った。そう、十代に読んだ時と、味わいが全く違うのだ。だいたいどの辺からかというと、9巻の八神登場あたりから、の登場人物の心理の動きである。
高校生の時は何気に読み飛ばしていた響子の気持ち、心の動き、はたまた五代の心の動きなどなどに、「ああ、そうだ、そうなんだよなあ」と感心し、時には、書いてないところまで想像できて、しかも、その想像した登場人物の心理から来るべき次の動きが画面上でドンピシャにはまってしまう。失恋したと勘違いした時の五代の思いや、五代が訪ねてくることを待っている響子の気持ち。そうか、高橋留美子は書いていなくても、ここまで設定して書いていたんだ、ということに驚き、また、自分が読む年代によってわかる部分とわからない部分の差が生じてしまうということに驚きを感じた。
あまりにも有名なストーリーで読んだことのある人も多いと思うが、もう一度、大人になってからお試しあれ。経験で、いくらでも味わいの増える作品である。
巷には五代くんの男としての成長が、響子さんのハートをいとめた、というコメントもあるそうだけど、手のかかる弟から、好きでも恋愛相手として踏み出していい男か、結婚相手として決められる男か、という、色々の段階があると思う。響子さんが本気になれる相手として五代くんが成長したということにも賛成だけれども、おそらく彼女の心理の中でそういう「段階」というのはあっただろうし、いくら未亡人といってもそういう計算が働かなくては嘘のような気がする。(もちろんはっきりしないでじらすのも、相手があたふたと慌てるのも、時には嫉妬するのでさえ本音は楽しいのも含めて。)
この話は、生まれては解決する、生まれては解決するような障害が、作品を面白くする上でのテクニックのようにも感じられるが、恋愛でなら響子さんにとっての八神やこずえの存在が、五代くんにとっての三鷹という存在が恋の「深化」の役割を果たしているのみでなく、五代くんにとっての「就職活動」が、彼の成長を促す一助であったという、そうした様々な「段階」を生み出すための障害でもあったといえるだろう。(C)少女マンガ名作選
また、未亡人というのはかなりこの作品の中で功を奏していて、普通のキャリアウーマンである二つ上なだけの女性では、双方あんな複雑な心理はなかなか生まれにくいのではないかと思う。二十代も後半になれば、多少頼りなくても生活力がおぼつかなくても、このまま結婚しないよりは、まあいいか、と思って妥協してしまうし、たいした恋でなくても結構満足してしまう。ところが響子さんには十代という多感な時に好きになった人と結婚して、しかもその相手は死んでしまい、しかも特に再婚をいそぐ必要性もない。つまりゆっくりと純粋に恋愛ができて味わえる環境に設定されてしまっているのだ。
女は、本当は何を基準にどう選びたいのか。
かえって、贅沢な恋というのはこういうのを言うのではないだろうか。
バブル絶頂期に描かれたこの作品、実を取るか、情をとるかのかけひきも含め、一度機会があったら特に女性諸氏は、響子さんの恋の視点で、読みなおしていただきたい。