作 品 | 円舞曲は白いドレスで (円舞曲シリーズ) | 作 者 | さいとう ちほ |
コミックス | 小学館文庫(全4巻)、小学館 フラワーコミックス(作品ごとに発刊) |
初 版 | 小学館文庫 1998年9月10日 |
初 出 | 「円舞曲は白いドレスで」 | 1990年 少女コミック | 1号より連載 | 「ハネムーンはタイフーン」 | 1990年 少女コミック増刊 | 11月15日号に掲載 | 「紫丁香夜想曲」 | 1991年 同上 | 9月15日号に掲載 | 「白木蓮円舞曲」 | 1994年 プチコミック | 3月号より連載 | 「月下香小夜曲」 | 1995年 同上 | 11月号に掲載 |
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登場人物: 青樹湖都(あおき こと)、鬼堂院将臣(きどういん まさおみ)、ウィリアム・サジット・アスター、鬼堂院華子(将臣の妹、湖都の同級生)、鬼堂院龍一(将臣の兄)、湖都の父、兄嫁、鬼堂院男爵、英国軍人たち、インド独立運動家たち |
あらすじ: 青樹湖都には夢があった。初めての舞踏会で白いドレスを着て、初めてのワルツを踊る相手が運命の人――。 時は昭和初期、まだ華族制が残る華やかかりし頃、銀座の洋装店の一人娘・湖都は、自分で白いドレスを縫い上げ、初めての舞踏会に行くことになった。おりしも母方の遠縁の幼なじみ、鬼堂院将臣との婚約が内諾された日だった。将臣は軍人の家系の男爵鬼堂院家の跡取り、しかも“氷のプリンス”と言われるような美貌の秀才で、湖都は親が決めた婚約を素直に受け入れられないにしても、内心、ときめいていた。(C)飯塚 その夜、英国大使館での舞踏会で、インド独立運動家のスパイが潜入しているという騒ぎになる。館内で迷っていた湖都は、偶然、スパイが追われている場に出くわしてしまう。スパイと間違われてピストルで撃たれそうになった時、湖都をかばって代わりに撃たれてしまった人がいた。あわててその場から逃げ出す湖都だったが、その時に靴を片方なくしてしまう。舞踏会場に戻ったものの靴がなくて困惑していた湖都のもとに、なくした靴を持って青年が現れた。この人物こそ、当のスパイであり、湖都の代わりに撃たれた人であり、インド人との混血の美青年、英国軍少尉のウィリアム・サジット・アスターだった。二人は追手をくらます為にワルツを踊り始める。初めてのワルツ・・・サジットが運命の人なのだろうか――彼の琥珀の瞳に吸い込まれるように、湖都は急速にサジットに惹かれ始める。そして、これが波乱に満ちた湖都の新たな人生の始まりだった。 |
コメント: この作品はシリーズものとして、5作からなる。「円舞曲は白いドレスで」「白木蓮円舞曲」「月下香小夜曲」の3作品がメインだ。少し気が強い、快活な16歳の少女・湖都の一途な恋の物語。その内容ときたら、眉目秀麗で優秀な男爵家の跡取りとの婚約、異国的な魅力を湛えた美青年との一世一代の一目ぼれ、英国大使館での舞踏会、煌びやかなドレス、いじわるな義妹、スパイ、略奪愛に外国航路、果ては独立運動に記憶喪失――なんて“てんこ盛り”なのだろう。
作者のさいとうちほは、演劇好きで特に宝塚のファンだそうだ。なるほど、芝居がかったマンガを描くものだ、と妙に納得。ストーリーはもとより、決めのセリフやポーズ、見せ場の舞台設定、なかなか凝った演出をしてくれる。見せ場の例では、待ち合わせしているサジットの側を理由も告げられずに湖都がやむなく車で走り去るシーンや、船上で将臣が格闘の末に英国大尉を海に落としてしまう際、大型客船がすれ違うシーンなど、映画を思わせる情景描写が心憎い。そして少女マンガの原則とも言える美男美女が、さらにドラマチックに作品を盛り立ててくれる。特に、さいとうの描く「いい男」は格別。円舞曲シリーズの中で「白木蓮円舞曲」以降は掲載誌を「プチコミック」にしているが、読者層を成人に絞った雑誌に描くことで、より一層ファンを増やしたのではないかと思われる。「愛する人の命はもうすぐ尽きる、愛の証に子供が欲しい」なんて発想は、「少女マンガ」には受け入れられない。また、単にかっこいいだけではなく、男の色気と言えるようなものまで感じさせるような描写が出来るのも、さいとうならでは、だろう。良しにつけ悪しきにつけ、ノリはあくまでも“宝塚”。心情描写を主とするような文学作品に追随することはなさそうだ。登場人物たちの会話のやり取りやモノローグから心理描写の機微を楽しむ作品ではなく、場面の展開や絵としての描写を楽しむべき作品であり、“ビジュアル系のマンガ”と言ってしまいたい。
人間描写を主とする中身の濃い作品や、かっちりとした作りの作品ばかりを読んでいると、マンガの面白さには「痛快さ」があることを忘れてしまいそうになる。「痛快さ」とは、小気味良いテンポだったり、登場人物の持つ魅力だったりする。正にこの作品は、その「痛快さ」で読ませてくれるのだ。
マンガに限らず創作と言うものは、その言葉通り「つくりもの」だ。作者の想像力の賜物でしかない。元来、作り上げられた作品世界は、現実の世界からいくらかけ離れていても構わないはずだと思う。どんなに非現実的であっても、示されたその世界が完成されていれば、読者を説得することが出来る。(C)少女マンガ名作選 ただし、どんなに完全な形に作られていても、それだけでは出来上がったものに魅力を感じるかどうかは疑わしい。「物」に例えて言えば、美しい意匠がなされているとか、すばらしい材質で作られているとか、そんな付加価値がなければ惹かれることはない。しかし逆に、面白いことに、正しく形を成してなくても見るものを引き付けることもある。マンガの場合、その可能性は他の創作よりも高いと思われる。簡単に言ってしまえば、少しくらいストーリーがおかしくても勢いがあるとか、登場人物に抗し難い魅力があるとか、そういった、読む者に対して訴えるものがあれば、輝いてしまうことも有り得るのだ。提示された世界の完成度が低くても、垣間見た世界が魅力的ならば、引き込まれてしまうこともあるはずだ・・・。
70年代の少女マンガには、そんな作品が多かったと思う。いわゆる“夢見がちな少女”を満足させてくれるような作品。主人公の少女にとって都合よく話が展開し、幸福な結果が期待されるから、苦難にすらも読者が安心してついて行けるような作品。 さいとう作品は、そんな、少女マンガの原形とも言えるような70年代の少女マンガを彷彿とさせつつ、更に発展させているように思える。90年代の漫画家である彼女の作品は、70年代の少女マンガが持つ虚構をより魅惑的に再現する。オーソドックスで御都合主義なストーリーでありながら「今」の読者に魅力を振り撒くのは、90年代のテイストがその絵やエピソード、描写に生かされ、登場人物たちが生き生きと輝き、作品に勢いがあるからに他ならないだろう。 彼女の描く人物は、とにかく、かたっぱしから人生に対して欲張りで、ポジティブなのだ。主人公に限ったことではない。これがかつての少女マンガとの決定的な違いになっている。湖都の例を挙げれば、親が決めた許婚との婚約が整っているのにサジットに恋してしまう、結婚してしまった後でもサジットとの恋が成就するならついて行ってしまう。「婚約しているから」とか「結婚してしまったから」とか、「親のため」とか「婚約者のため」とか、そんな理由で情熱を押さえる事はしない。70年代の作品には道徳的な自重があったように思う。絶えて忍んで事態の好転を待つことはあっても、周囲の反対、ましてや軽蔑を受けてまで自らの意志を貫こうとする事は少なかった。よくある展開では、主人公の少女はひとりの人と結ばれたら、そのままハッピーエンドか、少なくとも心揺れ動く相手が他にいてもそっちはきっぱり諦めるものだった。しかし湖都は、そうではない。どんなに自分の望まない状況に流されて行ってしまっても、自分が本当に望むもの、やりたい事を見失わずに、ここぞという時には大胆にも決心して行動してしまう。どんな困難にも立ち向かうたくましさがある。なのにちっとも根性臭くない。それが湖都にとっては自然な事だからだ。ひたむきで強引なまでに自己を貫く登場人物は、今の時代だからこそ受け入れられる。
さいとうの描く世界は、どこまでも軽やかで美しく、甘く香しい。少し気が強い少女が自分の夢や真実の愛をどこまでも追っていく姿には、自己を貫く強さがあるのに、強引さを感じるどころか、むしろ伸びやかで清々しいくらいだ。そして読者の期待を裏切らない展開、ドラマチックな演出、陰で作者が「これでもか」と言わんばかりにファンサービスをしているのが見え隠れする。――これは夢の世界なのだ。夢を見ながら、これは夢だと気づいている事がある。さいとう作品を読んでいると、ちょうどそれと同じような錯覚にとらわれる事がある。甘美な虚構の世界を堪能している自分に気づきながらも、あえてその世界に没頭していたい、そんな思いが湧いて来る。これは、作者さいとうの策略に違いない。そして、この策略に陥る事が、極上の楽しみになる。 |