少女マンガ名作選作品リスト

担当者:咲花圭良  作成日:2001/09/04

作  品

千と千尋の神隠し

制  作 

スタジオジブリ
原作・脚本・監督:宮崎駿
プロデューサー:鈴木敏夫

公 開 年

2001年夏、東宝洋画系にて劇場公開(7月20日〜)

時  間

2時間5分

登場人物: 荻野千尋(千)、ハク、千尋の父・母、釜爺、リン、湯婆婆、坊、
父役、兄役、番台蛙、青蛙、カオナシ、銭婆、神々、ほか

あらすじ: 郊外の住宅地にひっこしをする荻野家。引越屋とは別に、自家用車で新しい家に向かった。引越しをすることで、転校を余儀なくされた千尋は、後部座席に寝転んで、友達がくれたはなむけの花束を握り締めたまま、新しい学校の前を通っても起き上がりもしないで一人むくれていた。
 車はやがて山際に立つ住宅地に向かうが、お父さんが曲がり道をひとつ間違えてしまう。舗装道路を離れ、地道が現れて間違えたことに気づくのだが、間違えた道からも引っ越した家が見えることから、お父さんはそのまま走れば通じているかもしれないと、その道を疾走しはじめた。
 道は森の中に突入し、森の入り口に、神様の家(ほこら)が群集しているのを千尋たちは目撃する。しばらく走ると結局道は行き止まり、森の中に大きな建物があって、その前に、くる人を迎えるように、神ともなんともつかない不思議な偶像(道祖神?)が置かれている。車から降りてみると、建物の中に人がやっと通れる程度のトンネルらしきものがある。お父さんとお母さんは行ってみようと歩き出し、しぶしぶ千尋もお母さんにつかまって、その真っ暗なトンネルを歩き始めた。
 トンネルを抜けると、そこは駅の待合室のような、天井の高い部屋。部屋を出ると、山の上に広い広い草原が広がっていて、お父さんはそこが住宅地の裏側で、かつてテーマパークが乱立したときのなごりではないかと行って、遠くに見えている建物にお母さんとともに歩きはじめたのだった。
 枯れた川のような場所を越えると、石の段があり、坂道をのぼっていくと、不思議な極彩色の建物ばかりの街に入った。ところが街はテーマパークの後のようなのに、食べ物の店ばかり。しかも、店の名前などの字はみんな右から左へと書かれていて、街の中には誰もいない。
 恐る恐るいた千尋に対し、お父さんとお母さんは平気で町の中を歩き、一件の、カウンターに食べ物を並べたお店に出くわすと、店の人間もいないのに、後で払えばいい、カードで払えばいい、といって、カウンターに腰をおろし、二人でむしゃむしゃと食べ始めた。千尋はそんな二人を後ろからみつめていたが、一緒になって食べる気にはなれず、町の中を歩みはじめる。
 ところが、街の中でひときわ高い建物の前にある橋に行き着くと、少年、ハクが現れ、人間はここにきてはいけない、早く帰れと命令される。(C)咲花圭良
 驚いた千尋は街の中を走って引き返した。街はみるみる暗くなり、不思議な物体たちが行き来し始める。引き返す途中で店でまだ食べているお父さんとお母さんに声をかけるが、ふりむいた二人はなんと、ぶたになっていたのだ。驚いた千尋はそのまま走りだしたが、戻るとさっき歩いてきたはずの草原が、大河になっていて、それ以上引き返しようがなかった。しかもさっきあがった石段に船がつけていて、神々らしきものが船から下りてくる。驚いた千尋は逃げるが、さっき橋の上でであった少年がまた現れ、きっと何とかしてあげるからと、しだいに体が透けていく千尋にその世界のものを口に入れさせ、またさっきであった巨大な建物、神々がくつろぐという湯屋「油屋」に引き返すのだった。
 そこで、渡ろうとする橋の上で口をきくなというのに口をきいてしまい、いてはいけない人間がいたことがばれた。湯屋の中は人間が紛れ込んだとおお騒ぎ、大急ぎでハクに湯屋の庭にひきこまれ、この建物の下の方にボイラー室がある。そこで釜爺に「ここで働きたい」といい、何が何でも働けるように言い張って湯婆婆というのと契約し、ここで働かせてもらえ、さもないと、豚にされて食べられ二度と人間には戻れない、きっと何とかして助けてあげるから今はいわれたとおりにしろ、といってハクは騒然とする湯屋の建物の中に帰っていった。
 さて、豚にされた両親を救うため、自分が生き残るため、ボイラー室へと向かった千尋だったが…。

コメント:2001年夏、日本に記録的大ヒットをとばした作品である。いまや巨匠として知られる宮崎駿が、「もののけ姫」で引退を表明し、そのあと撤回して今回の作品が作られた。実際この「千と千尋の神隠し」が最後の作品となるかもしれないとまで言われているが、本人の気力があれば続けられることだろう。

 私がこの「千と千尋−」を鑑賞したのは、2001年8月15日、お盆のただ中だった。夏休みの家族ずれで、劇場は人でごったがえし、車でいける座席指定の映画館で、劇場に9スクリーンあったが、2スクリーンで上映していたにもかかわらず、一時間前ですでに売り切れとなっていて、次の回を待たなければならなかった。
 同じように夏、劇場まで足を運んだ過去の宮崎駿作品に「天空の城ラピュタ」(1986年夏公開)、「魔女の宅急便」(1989年夏公開)、「もののけ姫」(1997年夏公開)があるが、「天空の城ラピュタ」はやはり近くの映画館で封切り間もないのにガラガラ、平日だったせいもあるのだろうけど、一回見て、もう一度同じ席にすわって見たという記憶がある。そのあとおそらく「となりのトトロ」がテレビ放映されてから、宮崎駿を中心とする制作集団ジブリの作品が大ブレイクしたのだと記憶しているが、それから10年余、まさかここまで観客動員数を誇る作品が生まれるとは思わなかった。
 観客動員数というのは作品そのもののよしあしには比例しない、ような気もする。「もののけ姫」より、あきらかに「天空の城ラピュタ」のほうがよかったと思った。が、逆に話題性だけでは興行収入に記録を作らないのも確かで、前作「もののけ姫」もそれなりのできの作品だったが、これを超える動員数であるのだから、口づてに広がり客を呼び続け、あるいはリピーターが見続けているということなのだろう。これを書いている時点で、まだビデオは発売されていないが、これもなかなかの売れ行きを誇るのではないかと予測できる。(C)少女マンガ名作選
 宮崎駿が原作までつとめた長編アニメーション映画をオリジナルであげれば、「風の谷のナウシカ」(1984年春公開)「天空の城―」「となりのトトロ」(1988年春公開)そして「もののけ姫」と続くが、作品を経るにしたがって、特に近年の「もののけ姫」から、民俗学的色彩が強くなっている。そんな中で「もののけ姫」は海外では受けいれられたらしいが、今度ばかりは、神々や妖怪、言った言葉や名前が相手を支配する効力を奏するだとか、魔法を解くかぎになってしまうだとかいう「言霊信仰」だとか、要するに異界ものが海外で解説なしに通用するのかとちょっと思った。まあ、不思議の世界に迷いこんだという意味ではストーリーは十分楽しめるから、通用するといえば通用するかもしれない。

 さて、作品そのものであるけれども、劇場公開用パンフレットにも、ファンタジー文学の要素が感じられるとは書かれていた。私が見た印象では一番構成の近さを感じたのが、泉鏡花「高野聖」であった。それはまたお手すきのおりに確認していただければと思うのだが、神々の国である異界に入るその境界が、緑の森を抜けてトンネルを通過する、というのもそうであるし、川によって現世の入り口と隔てられる、だとか、欲を起こして畜生道に落とされるだとか、「異界にいたる話だから、似ているのは当然」と言われてしまえばそれまでなのだが、とりあえずなぜこういう「形」を踏まえるのかというと、比喩でもってその後ろに別の意味をもたせるためには必要なのであって、緑の森のトンネルから暗いトンネルとは、普通なら産道から胎内へと帰っていく過程を表しているメタフォアと考えられる。そういう過程を経て、ある一定条件を満たしたものが、やがて困難をクリアして帰ってくるという古来からあるストーリーの型を踏まえていることからもわかるように、監督の解説を待つまでもなく、主人公の「生まれ変わり」あるいは「再生」を一つの主題として、作られた構成なのだ。
 しかし、中でも、トンネルが森のトンネルだけでなく、暗くて細い建物のトンネルを通過し、さらに川を渡って世界を隔てるのだから、日本的といえるかもしれない。さらに、いたった彼岸である神々の国、そこで何が行われるのかといえば、「湯治」というのだから面白い。
 八百万の神がいるアニミズム思想が根本にある日本だから考えられる発想で、作品中のヒントを順番によんでいくと、八百万の神とは、大方川や森、土地に宿る、自然の中にいる神々なのだ。とするなら、現代の自然が、湯治にこなければいけないほど疲れているということで、失笑すべきシニカルととるべきか、宮崎駿からの警告と取るべきか、どちらにせよ「風の谷のナウシカ」から脈々と続く彼からのメッセージが、このあたりにこめられているといえるだろう。

 警告はほかにもあるかもしれない。匿名希望のカオナシはネット上にあふれているかもしれないし、ストーカーなどに代表される現代犯罪者の比喩かもしれない。そのカオナシは、そこにいる誰かかもしれないし、映画を見ている私たち一人一人かもしれない。彼が本当に欲しているのは「顔」だったかもしれないし、「愛」だったかもしれないし、だからこそ、千尋の「わたしがほしいものはあなたには絶対に出せない」という言葉で、はっとするのかもしれない。

 形にならないものが、形になった世界で、それでも形にならないものがある。

 千尋が川の神からもらったとっておきのものは、飲めばその邪悪をはらう。邪悪をはらうものが川の神から与えられたとっておきならば、自然に、その一部である人間に、求められるのは何なのか。そして、その「とっておき」を手に入れるためにはどんな気持ちや、どんな心が必要なのか。
 再生の過程を経て、千尋が見てきた世界は、なんだったのか。千尋が得たものは、なんだったのか。ハクという少年の存在と、千尋との出会いやエピソードは、そういう意味でとても象徴的である。
 人はいつでも何度でも生まれ変われる。10歳の少女に限ったことではない。信じる力があれば、いつだって、そうなのだ。

 いつもより、構成もこっていて、メッセージ性も強く、いろんなものがてんこもりの「千と千尋の神隠し」。その文学性から、何度みても感じ方が違うといって観客を呼ぶのは、当然といえば当然かもしれない。私自身は一度しか見ていないが、そのときは自分で十代に書いた小説「眠りの森」と重ねてどうでもいい場面でじーんときたりした。次にみるときはきっと違うだろう。
 見るものの世界を引き出して、その世界を作品に投影させて何かを呼びかける。「再生」という構成にふさわしい作品であり、何度みても新しい。今度もまた、名作に名を連ねることだろう。
 そして、もう一度見る、そのときは、お父さんのズボンのチャックが開いているという、宮崎特有のおちゃめなんかも、忘れないでチェックしていただきたい。

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