コメント:2001年夏、日本に記録的大ヒットをとばした作品である。いまや巨匠として知られる宮崎駿が、「もののけ姫」で引退を表明し、そのあと撤回して今回の作品が作られた。実際この「千と千尋の神隠し」が最後の作品となるかもしれないとまで言われているが、本人の気力があれば続けられることだろう。
私がこの「千と千尋−」を鑑賞したのは、2001年8月15日、お盆のただ中だった。夏休みの家族ずれで、劇場は人でごったがえし、車でいける座席指定の映画館で、劇場に9スクリーンあったが、2スクリーンで上映していたにもかかわらず、一時間前ですでに売り切れとなっていて、次の回を待たなければならなかった。
同じように夏、劇場まで足を運んだ過去の宮崎駿作品に「天空の城ラピュタ」(1986年夏公開)、「魔女の宅急便」(1989年夏公開)、「もののけ姫」(1997年夏公開)があるが、「天空の城ラピュタ」はやはり近くの映画館で封切り間もないのにガラガラ、平日だったせいもあるのだろうけど、一回見て、もう一度同じ席にすわって見たという記憶がある。そのあとおそらく「となりのトトロ」がテレビ放映されてから、宮崎駿を中心とする制作集団ジブリの作品が大ブレイクしたのだと記憶しているが、それから10年余、まさかここまで観客動員数を誇る作品が生まれるとは思わなかった。
観客動員数というのは作品そのもののよしあしには比例しない、ような気もする。「もののけ姫」より、あきらかに「天空の城ラピュタ」のほうがよかったと思った。が、逆に話題性だけでは興行収入に記録を作らないのも確かで、前作「もののけ姫」もそれなりのできの作品だったが、これを超える動員数であるのだから、口づてに広がり客を呼び続け、あるいはリピーターが見続けているということなのだろう。これを書いている時点で、まだビデオは発売されていないが、これもなかなかの売れ行きを誇るのではないかと予測できる。(C)少女マンガ名作選
宮崎駿が原作までつとめた長編アニメーション映画をオリジナルであげれば、「風の谷のナウシカ」(1984年春公開)「天空の城―」「となりのトトロ」(1988年春公開)そして「もののけ姫」と続くが、作品を経るにしたがって、特に近年の「もののけ姫」から、民俗学的色彩が強くなっている。そんな中で「もののけ姫」は海外では受けいれられたらしいが、今度ばかりは、神々や妖怪、言った言葉や名前が相手を支配する効力を奏するだとか、魔法を解くかぎになってしまうだとかいう「言霊信仰」だとか、要するに異界ものが海外で解説なしに通用するのかとちょっと思った。まあ、不思議の世界に迷いこんだという意味ではストーリーは十分楽しめるから、通用するといえば通用するかもしれない。
さて、作品そのものであるけれども、劇場公開用パンフレットにも、ファンタジー文学の要素が感じられるとは書かれていた。私が見た印象では一番構成の近さを感じたのが、泉鏡花「高野聖」であった。それはまたお手すきのおりに確認していただければと思うのだが、神々の国である異界に入るその境界が、緑の森を抜けてトンネルを通過する、というのもそうであるし、川によって現世の入り口と隔てられる、だとか、欲を起こして畜生道に落とされるだとか、「異界にいたる話だから、似ているのは当然」と言われてしまえばそれまでなのだが、とりあえずなぜこういう「形」を踏まえるのかというと、比喩でもってその後ろに別の意味をもたせるためには必要なのであって、緑の森のトンネルから暗いトンネルとは、普通なら産道から胎内へと帰っていく過程を表しているメタフォアと考えられる。そういう過程を経て、ある一定条件を満たしたものが、やがて困難をクリアして帰ってくるという古来からあるストーリーの型を踏まえていることからもわかるように、監督の解説を待つまでもなく、主人公の「生まれ変わり」あるいは「再生」を一つの主題として、作られた構成なのだ。
しかし、中でも、トンネルが森のトンネルだけでなく、暗くて細い建物のトンネルを通過し、さらに川を渡って世界を隔てるのだから、日本的といえるかもしれない。さらに、いたった彼岸である神々の国、そこで何が行われるのかといえば、「湯治」というのだから面白い。
八百万の神がいるアニミズム思想が根本にある日本だから考えられる発想で、作品中のヒントを順番によんでいくと、八百万の神とは、大方川や森、土地に宿る、自然の中にいる神々なのだ。とするなら、現代の自然が、湯治にこなければいけないほど疲れているということで、失笑すべきシニカルととるべきか、宮崎駿からの警告と取るべきか、どちらにせよ「風の谷のナウシカ」から脈々と続く彼からのメッセージが、このあたりにこめられているといえるだろう。
警告はほかにもあるかもしれない。匿名希望のカオナシはネット上にあふれているかもしれないし、ストーカーなどに代表される現代犯罪者の比喩かもしれない。そのカオナシは、そこにいる誰かかもしれないし、映画を見ている私たち一人一人かもしれない。彼が本当に欲しているのは「顔」だったかもしれないし、「愛」だったかもしれないし、だからこそ、千尋の「わたしがほしいものはあなたには絶対に出せない」という言葉で、はっとするのかもしれない。
形にならないものが、形になった世界で、それでも形にならないものがある。
千尋が川の神からもらったとっておきのものは、飲めばその邪悪をはらう。邪悪をはらうものが川の神から与えられたとっておきならば、自然に、その一部である人間に、求められるのは何なのか。そして、その「とっておき」を手に入れるためにはどんな気持ちや、どんな心が必要なのか。
再生の過程を経て、千尋が見てきた世界は、なんだったのか。千尋が得たものは、なんだったのか。ハクという少年の存在と、千尋との出会いやエピソードは、そういう意味でとても象徴的である。
人はいつでも何度でも生まれ変われる。10歳の少女に限ったことではない。信じる力があれば、いつだって、そうなのだ。
いつもより、構成もこっていて、メッセージ性も強く、いろんなものがてんこもりの「千と千尋の神隠し」。その文学性から、何度みても感じ方が違うといって観客を呼ぶのは、当然といえば当然かもしれない。私自身は一度しか見ていないが、そのときは自分で十代に書いた小説「眠りの森」と重ねてどうでもいい場面でじーんときたりした。次にみるときはきっと違うだろう。
見るものの世界を引き出して、その世界を作品に投影させて何かを呼びかける。「再生」という構成にふさわしい作品であり、何度みても新しい。今度もまた、名作に名を連ねることだろう。
そして、もう一度見る、そのときは、お父さんのズボンのチャックが開いているという、宮崎特有のおちゃめなんかも、忘れないでチェックしていただきたい。