少女マンガ名作選作品リスト

担当者:咲花圭良  作成日:2004/08/03

作 品

フィーメンニンは謳う

作 者

山口美由紀

コミックス

「花とゆめコミックス」(白泉社・全5巻)、白泉社文庫全2巻

初 版

1 1990/12/25 2 1991/4/25 3 1991/9/25 4 1992/2/25 5 1992/7/25

初 出

『花とゆめ』(白泉社)平成2年9号〜平成3年23号に連載

登場人物:リーナ・オルファース、ユリウス・ブランデッド
 ミルッヒ、シルヴィー、ファー
 ラミアドナ、フェロール、ビー他

あらすじ:リーナは奨学金とバイト代で学費を稼ぎ生活をする苦学生だった。奨学金のために一定の成績を保っていなければいけないので、バイトも勉強も手を抜けず頑張っていたが、それでもいつも成績では同級生のユリウスにトップを奪われてしまっていた。しかもそのユリウスは、いつもぼーっとした気の効かない奴だった。その日――試験結果発表の日も、通学路で急いで自転車をこいで走っていると、なぜか道端で大工仕事をしているユリウスにでくわした。一番会いたくない人物に出会ったところへ突風がふきつけ、リーナは思わず転倒、ユリウスに助け起こされてしまう。
 逃げるようにしてその場を去ったリーナだったが、学校へ着いて試験結果を友人に告げられ、またユリウスがトップをとっていたことがわかった。十七連敗でがっかりするリーナ。そこへ、ユリウスの前でこけた時にリーナが落とした母からの手紙を、ユリウスが届けに追いかけてきた。ユリウスが必死の形相で近づいてくる姿におびえた友人とリーナは思わず気が動転し、リーナは後ろにあった噴水の中へ。しかしユリウスは噴水へ落ちたリーナに大丈夫との声もかけず、「カエルの卵が死んでしまうから早く噴水から出て」という。リーナは慌てて噴水の外へと出てその場を去るが、ユリウスはカエルの卵に心奪われ、肝心のひろった手紙を渡しそびれてしまった。
 リーナはいつもトップを奪われるこのそっけない男子生徒が苦手だった。
 この噴水へ落ちたためか、バイト先のパン屋でくしゃみをするリーナ。店長に今日は帰れと言い渡されてしぶしぶ帰るのだが、帰り道、ユリウスと今朝出会った場所に小さな椅子がおかれていたことに気づく。ユリウスが日曜大工で作っていたのはどうやらその椅子だったのだ。バイトを帰されて時間的にも余裕があったリーナは試しにその椅子にすわってみた。そして目の前、並木道のかたわらに、小さな花畑があったことに気づいたのだ。
 その花畑に歩み入り、花をみつめながら、ユリウスが何のために椅子を作っていたのかがわかった。そして、日々の生活に追われてゆとりのない自分と、ユリウスの差を思い知るのだった。
 すると、突然、目の前の花畑が光り始めた。
 あっと言う間に光に包まれたかと思うと、その光の中から「お願い」「守って」とささやく声がきこえてきた。
 怪奇現象に驚き、思わずその場にうずくまったが、光は間もなくおさまった。そしてその場を去ろうとすると、ユリウスの作った椅子に、いつのまにか小さな小さなかわいらしい女の子がすわって眠っていた。揺り動かしてみたがおきる気配がない。そのうち母親が迎えに来るだろうとリーナはその場を去ったが、夜になり雨が降り始め、やっぱり気になったのでもう一度あの椅子の場所まででかけてみると、子供はやはりまだ眠ったままそこにすわっていた。
 仕方なく家まで連れ帰ったが、一向に目覚める気配がない。しかもよく見ると子供はただのかわいらしい女の子であるだけではなく、透き通るように色白で、髪の毛の色も銀というよりは白に近かった。
 ふと、子供が目を覚ました。
 リーナは自己紹介して子供に名前を尋ねるものの、子供はまったく解する気配がない。そこでパン屋でもらってきたアップルパイを食べさせてみると、無邪気に食べ始めた。やはり普通の子供だと思っていると、手に持っていたアップルパイが笑い始めたのでリーナはびっくり仰天。とにかく朝一番で子供を警察に届けることにした。
 ところが、朝になってみると、町中の建物や花、いたるとことから笑い声や歌声がきこえてくる。そしてパトロール中の警官に昨日ひろったその女の子を迷子ですといって見せたのだが、目の前にその子供はいるのに、「子供なんてどこにいるの」と尋ねられ、その子が自分にしか見えないということがわかった。
 この子は何者かと不思議に思っていたところへ突然金髪長髪の美少年が現れ、その女の子のことを「姫」と呼び、「お探しいたしました」と抱き着いたのである。少年はシルビィという剣士で、領主様の姫君である女の子を迎えにきたというのだ。しかも彼らは、この世界ではなく、空飛ぶ象ドラゾーだの、不思議のものどもがたくさんいる世界からやってきたという。ところが女の子はさっぱりシルビィのことを知った様子ではない。不審に思ったリーナはシルビィから女の子を奪還し連れ帰る。そしてあまりの出来事に思わず人事不省に陥るのだった。(C)咲花圭良
 しかし翌日になって目覚めると、シルビィはリーナの家までやってきていた。さらにリーナのバイト先にまでやってくる。それでもリーナは女の子を引き渡そうとはしなかった。そのうちパン屋の裏庭で遊ばせていた女の子がドラゾーにさらわれる。探し求めているうちに、昨日ユリウスの椅子がおかれていて、女の子と出会った花畑に来ると、パン屋のおばあさんがすわっていて「この花畑はつぶされて、店舗が立つのだ」と教えられた。そして女の子もその場所にきていて、女の子がその花畑の近くの木に触れて見ると、そこからは花畑とともにもうすぐ伐採されるであろう木の悲しみが伝わって来たのだ。
 この間から生き物以外の声がきこえるのは、この女の子のせいではないかとリーナは気づくのである。
 そこにユリウスが居合わせ、誰にも見えないはずの女の子が彼にも見えることがわかった。
 さらにシルビィが現れタイムリミットだという。もう女の子を連れ帰らなければいけないと。そして、そんなにシルビィのいうことが信じられないなら、彼らの世界にきてシルビィのいうことが、本当かどうか見届ければいいというのだ。
 リーナはその場に居合わせたユリウスに、ついてきてほしいと頼むと、彼らの世界へと踏み込んでいった。

 こうして、一女子学生のリーナが、級友のユリウスと、不思議の世界の住人シルビィや、後にリーナが自らミルッヒと命名する女の子、さらに途中合流する小さな妖精ファーとともに、ファンタジックなおとぎ話の世界で、ゴール目指して旅をすることになる。

コメント:山口美由紀といえば『V・K・カンパニー(ビビッド・キッズ・カンパニー)』だろうと言われそうだが、正直な話、『V・K・カンパニー』は好評で長く続いたが、私は山口のこのシリーズは好きではないし、そんなに良い出来だとも思わなかった。その後も学園ものの連載『DAN×GAN ヒーロー』もあったが、それもそんなに良いものとも思えなかった。
 そもそも『V・K・カンパニー』が最初の山口の連載として始まった時も、デビュー当時から優しくてファンタジックな絵柄、そしてそういうストーリーの短編できていたのに、どうしてこんな普通の元気な学園ものを書くのだろうと不思議で仕方なかった。いや、そちらの方がおもしろいという人ももちろんいるだろう。それでも、私は山口美由紀はファンタジーだと思うし、ファンタジー短編集『プリンセス・シンドローム』や、『音匣(オルゴール)ガーデン』を経て、この長期ファンタジー連載『フィーメンニンは謳う』が出てきたときは、「待ってました」という気持ちで迎えたものだった。
 とにかく私は山口のファンタジーものを待っていたのである。
 それで、ようやく表れたファンタジーもので、やっぱりいけるじゃないかと思って読んだものだった。
 
 ほぼ十年ぶりぐらいに読み返してみて思ったことは、話の筋を予め知っているからなのか、出だし、いわゆる妖精たちの住む世界に行くまでがちょっと都合がよすぎる展開で、シルヴィをリーナが信用するまでは、疑いすぎでしつこいという感じはあった。キャラのノリからしても、どうみてもシルヴィは悪役ではない。
 しかし、初読の時にこれを思ったかというと、もう記憶にはないが、大いに疑問である。(C)少女マンガ名作選
 それでも、再読であっても、その序盤を過ぎれば、再読であるのに、読めた。はまり込んだ。都合一気読みができなくて、よく途中で本を閉じなければいけないことがあったが、閉じて現実に帰ると、作品の世界と現実とのギャップによくがっかりしたものだった。あまりに現実は色あせていて味がない。そして作品の中はなんと豊かで幸福な世界なのだろうと。

 あらすじには書かなかったが、このストーリーは実は、妖精の子孫にあたる人間のリーナが、五百年に一度花園から生まれる妖精族の女王(女の子ミルッヒ)を育てながら、お目付役のような森の人シルヴィと同級生ユリウスと共に旅をするというストーリーである。
 そこらにあるファンタジーもののRPGでは、ただこれだけで、迫りくる敵を倒しながらゴールへと向かうのであるが、やはり八十年代から九十年代にかけての少女マンガ界の第一線をかけぬけた山口は、ちょっと違う。ストーリー設定が現代の具体的にいつで、どこの国でというのははっきりとはわからないけれども、やはり現代の自然破壊と、心のゆとりのなさという問題をきちんと描きこんでいる。
 リーナや我々にとっての現実と「おとぎ話の世界」はそこここでつながっていて、それぞれが関係するようにできている。「おとぎ話の世界」は、非常に現実の世界に影響されやすく、現実での自然破壊がすすむにつれ、忙しく心のゆとりがなくなるにつれて、妖精の世界でも悪や魔が広がって行くのだ。
 現に妖精族の四分の一でしかないリーナがわざわざ人間の世界から選ばれて招かれたのも、女王が育つべき花園が枯れ始め、妖精族の女王を育てるべきもっともデリケートな存在の聖なる乙女たちが死に始めたからであった。それはつまりは、この現実とどこかでつながっていて、現実に大きく影響される「おとぎ話の世界」に、現実での自然破壊が大きく影響しているからに他ならないし、人々が「夢」を忘れて、信じていいものまで信じないから、消え始めているといえるかもしれない。
 冒頭でもリーナ自身が、ゆとりがなくて花畑の存在に気づかなかったし、まだ赤ん坊の妖精族の女王のこともみんなが見えないなら見えないふりをすればいいと見捨てようとする。リーナが見捨てようとしたのは、幼い女王であると同時に自分自信の心の豊かさやゆとりであったかもしれない。心の豊かさが失われていったからこそ、花や自然を愛でるゆとり、不思議なものを信じる心の豊かさが失われていったというのは、一理あるかもしれない。
 そして、確かに妖精の住む国で魔が広がった原因は、現実から自然破壊や心の荒みなどが押し寄せているせいかもしれないが、おとぎの国にも原因はある。
 魔女ラミアドナである。
 人の生き血を吸って命を永らえさせているこの魔女は、一見ただの悪者に見えるがそうではない。彼女も元は特殊な力を持ってはいたものの人間であり、領主のお嬢様であった。ただやはり、人に見えないものが見えたり、バラを咲かせたり枯らせたりする特殊な力がある上に、左右の瞳の色が金と赤という不思議な色の組み合わせであるために、人々に恐れられたのである。父や母、家族からも遠ざけられ、他人と相入れず、独りぼっちの孤独に耐えられなくて魔へと変じたのだ。だからもしラミアドナの両親が、娘のことを気遣いながら、どう愛せばいいのかわからないという、それを正直に打ち明けていれば、魔女ラミアドナは生まれなかったかもしれない。
 そしてこのラミアドナの孤独な心に巣くった闇は、おとぎの国の人々の心の闇をとりこんで、魔物にかえていってしまった。老人の孤独さから魔女になってしまったおばあさん、親に捨てられたが故に恨みから魔物になってしまった子供たち――誰しも、負の感情を持たずに生きることなどできない。しかし、それに勝つか負けるかはその人次第で、ラミアドナの魔が性急に人々を魔へと招き入れてしまい、魔は増殖したのである。
 おとぎの国だからこそ、魔性は魔へと変じたが人間の世界では実際そのように形を変えることはない。おとぎの国ゆえの具象なのであるが、現実の世界だとて魔女にはならないものの、同様の悲劇が起こっていないとは残念ながら、いえないのである。
 不思議を信じるという余裕がないと同時に、他人と心を通わせ合うということ、理解しあうということができずに、人間関係にひずみを生んでしまうということは現実世界にもあり、例に漏れずリーナもそうだった。
 我々だってそうかもしれない。
 こうして現実の世界の映し鏡のような「おとぎ話の世界」は、その自然や心の荒廃を「魔」という形で具象化させていくのだ。

 二千年初頭の現在では、そのひずみが生んだ様々なことどもが事件となって表れた後である。この、『フィーメンニン―』が連載された九十年代初頭ではバブル経済が絶頂期であり、今一『フィーメンニン―』の主張が受け入れ難い空気があった。この十年の間に、「心の時代」といわれ、山口が『フィーメンニン―』の中で描いた心性は、若干手垢がついたという感もないではないが、当時見過ごされてきたこの作品が、メッセージが、今だからこそ理解しやすいというのもあるのではないかと思う。
 してみれば、心の荒廃や自然破壊など、時代を切る正確さやメッセージ性は、やはり時代を見抜く書き手ならではといえようか。そして、当時真面目に語れば鼻で笑われかねなかった精神性に重きをおいたこれらの作品を描き出していったのは、やはり八十年代をかけぬけた一人の作家ならではこそと思えるのである。

 さらに、現代でも未だに気づかれにくいが、心の豊かさとは決して、表面的に人を愛したり、仲良くしたり、自然と親しむということではないのだ。その答えのように『フィーメンニン―』のラストは用意されている。「心の時代」と呼ばれた昨今、それでもまだ我々は、このようなクライマックスを経ないとラストの幸福へはたどりつけないのだと、気づいていないのではないだろうか。
 山口が用意したこのクライマックス――十年以上前に描かれた作品ではあるけれども、未だ現在の我々が理解しきっていないのではないかと思われるこの事実に、気づいてほしいと私は思う。幸福へといたる道筋は、幸福な結末のドラマと同じ設定を演じたり、表面的に波風を立てずに過ごすのではないということを。
 金や財産などの物質的な問題についてかたりつくし、それがあることが幸福だとは限らないということに気づいたなら、是非、山口が投げかけたこのメッセージにも気づいてほしい。
 ちなみに、山口の書いたこのクライマックスにも限らず、ストーリーのラストをハッピーエンドで終わらせようとするならば、こうした「立ち向かい、戦い、そして克服する」ということは、ファンタジーのみならず、あらゆる物語りでのセオリーなのだ。人間の日常生活や考え方を基準として、ストーリーというものは成り立つ。乗り越えなければいけないものが大きければ大きいほど、それを乗り越えた時の喜びは大きい。ハッピーエンドを強く印象づけようとするそのセオリーは、人間の日常生活のセオリーでもあるのだ。
 だから、ページを閉じたら、今度は自分が戦い、克服していかなければならない。ハッピーエンド目指して。
 メッセージはその時、意味をなすのである。

 最後になったが、「フィーメンニン」とは、グリム童話集を編纂したグリム兄弟に、いろんな物語を語り聞かせたおばあさんの名前である。そして、この物語にも「フィーメンニン」は存在する。
 それは一体誰なのか。
 これも話の最後で明らかになる。
 山口美由紀独特の世界――ファンタジー向きの絵柄、そしてストーリー。加えて、何でこんなところにと思うところに入るギャグ、展開、さらに恋物語。
 表紙をめくって最初に登場する夢の中の男の子、これは一体誰なのか。
 ひきつけてやまないストーリー展開は、現実にいながら瞬時、素敵な夢の世界――「向こう側の世界」へと誘ってくれる。
 しかしこの陶酔を、現実逃避と呼んではいけない。
 物語は時として「夢」そのものなのだ。
 夢さえ見ることを許されぬ心にこそ「魔」は巣食うのである。
 ページをめくり、ファンタジーの旅に出よう。
 我々の心に活力を与え、心を豊かにする、本当の幸福をみつけるために――。

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