コメント:山内直美か…もろ少女漫画の絵柄だな。デッサンも微妙にゆがんでるし。原作はコバルト文庫か、中学生の読む小説だなあ…。「新釈とりかえばや物語」だ? 「ざ・ちぇんじ!」だ? ふさけんなよ、アハハハハ、などと思ってこの漫画をめくってほしい。
思いっきり裏切られる。良い意味で。
そうだよ、よく考えたら氷室冴子って「ライジング!」の原作者じゃん。白泉社があたりもしない原作モノも採用するはずないんだよな〜。
…てなことを思い知らされるのだ。
ま、最初は細かいことを考えずにはまって読むのがよいのではないかと思う。
たぶん、「あさきゆめみし」よりは、よりわかりやすく平安時代の風習を理解できるだろうし、現代風のギャグタッチなので入りやすい。「平安時代入門」にここから入る、という意味でもお勧めの漫画である。
ただ、少し考えてみれば、氷室冴子がなぜ最初にこの話を書こうと思ったのかというと、原作である「とりかえばや物語」に疑問を抱いた部分を自分なりに修正してみたいと思ったのではないだろうか。綺羅君の生理の問題だとか、「結婚問題」だとか。でも最大の入れ換え劇で最も解決したかったのは「髪の長さ」ではないかと思うのだ。だから物語冒頭でわざわざ綺羅君に裸で水浴びさせて帝に見せたり、意に染まぬ結婚を、という理由で入水したとウソをつかせたのではないだろうか。ちょっと考えてみればかなり危ない複線なのだが、元々の話が奇想天外なネタなので、物語として楽しむには、さほど問題はないだろう。実際読んでみて、「あ、なるほど」というような解決を見せているのだから、これはこれでいいのだ。
平安時代は物語を女房が声にだして読み、貴族の子女はその語るのを聞きながら絵巻を見て楽しんだそうだから、いわゆるマンガのハシリ、当時の貴族の子女も、おそらく現代のマンガを読むのと同じノリで楽しんだのだろう、などと考えてみると、平安時代の物語はマンガで表現するのが、現代では一番適った方法ではないか、などとも考えてしまった。(C)少女マンガ名作選
「とりかえばや物語」自体のコンセプトは、私はよく知らないけれども、この男装の綺羅君に焦点をあてられた「ざ・ちぇんじ!」を読んでみると、所詮若いころは男の子として生きることに憧れても、やはり女は恋に生きるのか、それが幸せなのかと思ったり、またこれはこれで読む側の一種の変身願望を現しているのだな、とか思ったり、時代が変わっても十代の女の子の考えることなんて大して変わらないのかも、などと考えたりしたものである。
藤田和子と組んで作った「ライジング!」と比較すると、「ざ・ちぇんじ!」は原作が出来あがった段階のものをマンガ化している。だからちょっと説明くさいかな、とも思うし、逆に「ライジング!」のスムーズさに気付かされる。
また、藤田の「ライジング!」の仁科祐紀は、後半、かなり「女」だったが、「ざ・ちぇんじ!」それから同じ山内にマンガ化された「なんて素敵にジャパネスク!」を見ても、さほど「女」を感じないから、マンガ家そのものの書き方、個性も、かなりプラスアルファされるのだとわかる。
まあ、細かいことは二の次で構わないから、とりあえず、作品を楽しんで、それから、ギャグの中に配された細部の知性に、お気づきいただければよろしいのではないだろうか。