コメント:吉田秋生の作品はハードである。それは「BANANA FISH」のように、内容が実際的に血を流し闘い、命にかかわるようなハードな場合もあり、また、感情的な「痛み」を伴うハードさもある。主人公たちは、いつも理不尽な境遇に置かれ、何ものから脱出しようとあがくことが多い。ところが、「桜の園」はそうしたハードさから一線を隔した、多感な女子高生たちを描く、吉田には珍しい種の作品であったが、ある意味で、上記条件を満たしてしまう秀作が、この「吉祥天女」なのではないだろうか。
「吉祥天女」の小夜子は、男性にとっては、ある意味、悪女にも映るだろう。人によっては、なぜ、「吉祥天女」なのかと問いたくもなるだろう。しかし、吉田にとってはやはり彼女は吉祥天女なのである。「吉祥天女」という語そのものは、「日本霊異記」(※)からの参考というように書かれている。天女の肖像があまりに美しく、恋するあまり、僧が夢の中で欲情し、その天女を抱いたという話であるが、このエピソードは作品の中で次の言葉によって生かされている。
「わたしにはわかるのよ 男たちがどんな目で自分を見てるか 何度妄想の中でわたしを犯したか…」
小夜子は何もしない。ただそこに存在するだけで、男たちは彼女の上に妄想をべっとりと塗りつける。彼女が本当に天女なら良かった。肖像ならよかった。しかし、彼女は生身の人間で、感情のある生き物なのだ。そしてさらに不幸なことに、男のそうした妄想を感じとってしまえる力を持つ、天女の子孫でもあった。
しかし実は、男の妄想とは小夜子という美貌の人に限ったことではないのだ。ただ、美貌の人である小夜子に如実に表れる、というだけに過ぎない。望むと望まざると、女は皆、その宿命を背負わされる。妄想を抱かれ、実現しようという男のいいなりになれば、自分を殺すことになる。自分の意思を殺さず、守ろうとすれば、相手を殺すことになる。小夜子は後者を選択したに過ぎず、「吉祥天女」でそこはかとなく、時にははっきりと漂う、「哀しみ」は、そういう哀しみでもあるのだ
男性にとっては悪女と映るかもしれない。逆に男が犯されたとさえも映るかもしれない。しかし、小夜子は自分の身とプライド、ひいては自分の精神を守るための闘いをしているに過ぎないのだ。(C)少女マンガ名作選
男の「妄想の中にいる女」と同じようになれ、と強いられた時、”知ったもんですか、いやなものは、いやなのよ。”と言った。――ただ、それだけなのだ。
さらに、天女とは、無闇に至福を与える存在ではないことも忘れてはならない。日本の民俗学でも祀られず、敬えられない神は、オニとなって里人に災いをなす、と説かれている。小夜子とて、同様の手段をとったにすぎない。だから祀られた時に至福を与える天女は、由似子にこう噂される。
「あの人ねえ…あたしの理想だったんだ」
ただ個人的には、小夜子が涼へ「あなたが暁くんでなくてよかった」というせりふ、もし涼が暁の立場だったなら、もしかしたら小夜子の計略の遂行は難しかったかもしれなかったのではないか、などと考えてしまう。涼がセンシティブであったというだけでなく、涼が相手だと本気になってしまったかもしれない、という懸念があるからだ。図らずも失った恋人への最後のキスは、作品の中で唯一の本当のキスだったのかもしれない。小夜子が流した涙に、怖い女ではなく、天女としてではなく、人間の女としての恋情を見た気がした。