コメント:この作品は、確か十巻あたりまで読んでいて、かなり長い間続きを読まないでほったらかしていた。
私は「BANANA FISH」という作品を読んでいて、吉田は一体どの程度の予定でこの作品を創っていたのだろうか、と疑問に思うことがある。というのも、この作品には段階があって、中ほどで、コミックス刊行速度もそうであったが、つまった感じを受けるのだ。私が読まなくなり、続きを読みたいともさほど思わなかったのは、この「つまり」が原因だったと思う。それで、果たしてこの作品は無事に完結するのだろうか、と、一時危ぶんだ時さえあった。
たいがい、これほど長い作品になってくると、細部まで創りこんでスタートしたわけではなかったであろうと思う。おおまかな部分を飛び飛びに作り、その部分部分の地点に向かって、細部を創りながら走る、たぶんそんな感じで創って行ったのだと思う。
が、時に、扱うものが、そして読者の期待が、作者の予想に反してでかすぎたとき、登場人物の設定等も変えねばならなくなることがあるのだ。もちろん、吉田はそんなことに気付かせるようなへぼな真似はしなかった。が、アッシュは「一度死んだ」中盤以降、「ストリートキッズのボス」から、「世界をも手中に握れる天才」へと書き方が変化している。また、ストリートキッズやマフィアとのからみから、一気に政治的闘争へとレベルが発展している。作品の要求する「ネタ」が、最初の設定以上にでかいことに、吉田自身が気がついた。そしてまた、アマチュアの殺し屋集団では、話がもたない。そこで、助け手「ブランカ」、ならびに極悪非道の「エドアルド・フォックス」というプロ中のプロ二人の登場人物を新たにつくりだしてきたのだろう。そこから確かにまた、話はすべりだしている。
私が感じた「つまり」、と乗り越えられたそれは、たぶんそういうふうな経緯があったのではないかと勝手に予測する。
また、作品をラストに導くためには、目標が必要なのだ。
この作品は、前半が、バナナフィッシュの謎解きが最大の目標だった。そしてそれが終わったとたんにペースダウン、後半は、アッシュの仲間、特に英二に対する非常な固執へと、作品の種が変貌している。バナナフィッシュがその全貌を現した時点で、吉田が次にしなければいけないかったのが、描くべきラスト、アッシュの手に入れるべき幸福だった。中盤で練りなおした時、おそらくこの問題も視野に入っていたかと思う。
主人公は報われなければならない。
問題は、どんなふうに、どの程度で報われるのか、だ。
この作品のラストを読んだ時、おそらく賛否両論だったのではないかと思った。
でも、名作の一つに数え上げられる多くの理由は、話のかっこよさでも、アッシュのかっこよさでもなく、その癒された孤独の、かけがえのない力にあるのではないかと思う。
吉田秋生はストーリーをキャラクターたちと共に、駆け抜けた。そして、魅せた。
しかしそれだけでは、その作品を「心に残す」ことはできない。少年マンガが面白くても、所詮娯楽ですぐに忘れられてしまうのは、痛快アクションだけに終始してしまうからだ。吉田は決め手を知っている。そして彼女の選んだのは、「魂の幸福」だった。しかも、とても彼女らしい選択であり、深化の方法だった。
争って勝つことでも、闘って勝つことでもなかった。
これだけサバイバルなストーリーを用意したにもかかわらず、である。
吉田秋生の作品の主人公たちは、いつもどこか孤独である。
そして癒されるということはないのだ。
「吉祥天女」の小夜子もそうだった。得られるものはたくさんあるし、彼らは持ち合わせている。しかし、最後にいつも、どうしても解決できないものがあるのだ。
この世に生まれて、金よりも、地位よりも、才能よりも、美貌よりも、命よりも――それはとても難解で、かけがえのないものなのだ。
人は生まれた時から孤独である。
孤独だから、誰かを求めるのだ。
――もしそうならば、孤独とは、神さまが、人が一人で生きなくていいように、人間の中にセッティングしたものなのかもしれない。(C)少女マンガ名作選
人は、一人では生きていくことができないのではない。人は、一人では生きていってはいけないのだ。
孤独があるからこそ、誰かを必要とする。そして、それを手に入れた時の喜びは大きい。
人に与えられた最大の「救い」であることさえある。
アッシュはラスト、至上の幸福の中にいた。
大きな大きなドラマの中で、小さなかけがえのない真実を抽出したような、そんな描き方だった。
その幸福に寄り添えたものが、この作品を名作に数え上げているのだと、私は思う。