「もしかして、竹宮恵子ってサドじゃないかしら」と思うほど、サリオキスの成長は痛々しい。しかし、その過程があるからこそ、弱くて優しいサリオキス王子が、救世主「砂漠の鷹」として成長することを納得させる。
また、この作品自体は、亡国エステーリアの王子が、救世主の名を持って復活を遂げる、というストーリーのはずなのだが、なぜか、そのエステーリアを滅ぼした側のウルジナ国王スネフェルの生そのものにも、いや返って、悪役のはずなのに、実は彼がヒーローでないかと思わせられるほど、「スネフェル」という人物の性格が物語の太い要になっている。
サリオキスが、弱弱しい、悲劇の王子から王として成長していく一方で、スネフェルは王でありながら、「王」になりきれぬまま荒廃していく。そのきっかけとしてあるのが、ウルジナの娘として出会った名もなき少女ナイルキアである。お互い身分を知らず出会った二人の恋は、母に愛されぬ孤独な王スネフェルと、頼るものもなく身分を捨てて生きる亡国の姫ナイルキアの心を癒していく。王の精神が荒廃していくきっかけとなるこの恋が、一歩間違えばうそ臭くなるだけなのに、何の無理もなく描かれて行くのである。このとき竹宮は二十五歳、若いから成せたのか、いや、これは彼女に与えられた才能ゆえなのか。(C)少女マンガ名作選
もし、これが歴史作家の手によったのならば、「ナイルキアは恋によって親の仇を討ったのかもしれぬ」などとくだらぬことを書くかもしれない。しかし、ナイルキアはあまりにも清純で、二人の恋はあまりにも純粋だ。「ファラオの墓」に限ったことではないが、竹宮作品はえてしてこうなのだ。いつも要となって物語を動かすのは、人間の心である。個々の登場人物はそれぞれのキャラクターをきっちり持っていて、物語をなぞるだけの人物ではない。端人の俗な追随などは、まるで許さないのである。竹宮のロマンチシズム、という受け取り方も出来るが、人間の営みの、これが真実なのかもしれない。
サリオキスの成長過程は、「機動戦士ガンダム」のアムロの精神的成長過程に似ているのだが、どちらが先だろう、と確認してみると、「ファラオの墓」の方が断然先だった。ガンダムのスタッフでありキャラクターデザイナーだった安彦良和氏と竹宮氏は交流があったはずで、それは果たして共鳴だったのか、影響だったのか。
ちなみにこの作品は、作者自らが断る通り、元々竹宮氏が持っていたプロットが編集者の目にとまり、不特定だった場所・時間が連載にいたって四千年前のエジプトに設定された。したがって、金髪碧眼のエジプト人が誕生したわけであるが、ストーリーとは本来、そうした自由な発想の元で生まれたものの方が面白いのかもしれない。反対に、不特定であるものを特定せずにそのまま描かれたのが「イズァローン伝説」であったのだろう。