物語を作る場合、大きくわけて二つの手順がある。 一つはクライマックスが出来て、その最初からラストまでのその穴を埋めて行く方法。もう一つは、ラストを決めず、最初に人物や舞台設定だけしておいて、話を流して行く方法。 前者はメッセージ性の高い話や、ラストにポイントをおきたい話などに利用されやすい、極一般的な作り方。小説や映画・演劇の作者などに多い。後者は特にシリーズもので利用されやすく、連続ドラマやマンガなどに多い。 したがって、「ラストにポイントを置きたい」「メッセージ性の高い作品」を書く作者にとっては、後者のような作り方というのははなかなか難しいのだ。が、生き物がDNAにしたがってその形を成すように、大きな視点でみれば人間の行動や考え方にも一定のパターン(法則)が存在する、と仮定できるのならば、人物や場面の設定がきちんとできていれば、優秀な解読者はその行く先というものを、誤りなく決定できるはずである。 この法則性に基づいて作成される代表格が「ロールプレイングゲーム」であるが、細かい駆け引きを必要とするストーリー作品にそれを持ち込む時、狂いなく、つまりミステイクを生み出さずラストまで展開させるということは、なかなか難しいのである。 しかしながら、この竹宮恵子という作家はそれを、やってのける、いや、やってのけたのである。それが、この、『イズァローン伝説』なのだ。 それを知ってか知らずか、この作品にはどこか「ロールプレイングゲーム」的な、中世騎士物語のような要素がある。森を抜けて、右を進めば×、左へ進めば○と言った具合に。時にそれは魔物を放ち、時にそれは王の遺言を待つ。時にそれは砂漠の地を開き、水を呼ぶ。 また、作者自身も知らない結末故に、読者にも予想できないストーリー展開なのであるが、その読者が迎えてほしい展開への期待を、それまで描いてきた人だからこそ、裏切りながら話を進められるのだ。 普通、心優しい不幸な英雄は、強くなってヒーローになるように期待される。しかしそれは既に「ファラオの墓」で描いてしまった。どこか正義の味方のような様相を呈しながら、実は正義ではなく、「魔」だったりする。なのに、この話ではいつまで経ってもティオキアは優しげな女性のまま、最後には王子として生まれながら、女性体に近づいてしまう。なら本来、ヒーローであるルキシュは、一番のヒロインであるティオキアと結ばれてもよさそうなものなのに、フレイアという王妃を迎えぞっこんになってしまう。 聖なる儀式の元に開いたものは「魔」を呼び、人を救うといわれる「救世主」の力も実は魔王のもの。王子は「魔王」となるべきものなのに、それでも愛し離れられない従者たち。魔王と闘い苦しむティオキアを人としてひきとめる。これは、実は悪ではないのか、正義なのか。 裏切りなのだ。 数多くの裏切りを続けながら、竹宮は話を進めて行くのである。 だから危うい。だから、目が離せない。(C)少女マンガ名作選 最後の最後、フレイアは、王妃の墓所に行き、王妃を蘇らせようとする。読者はそこで王妃の蘇ることを期待するのに、またそこでさえ、裏切ってしまう。 そして、ラスト、もう終わりかと思えたその時、作者は最後の裏切りを見せるのだ。 物語の流れるべき方向というものも知っている。読者の期待するもの、というものも知っている。そうした作者からでなければ、なかなか生まれてこない。 物語は感性だけで作るものではない。計算なのだ。これを知っているか知らないかで、作品の質は大きく異なる。こういう種類の計算と法則を駆使して作ったはずの物語なのに、その計算の跡さえ感じさせない。ミスがないからだ。 祭られざる神をオニと言ったというのは、ある民俗学者だった。聖の存在でありたいのに、「魔王」と呼ばれるティオキア。 しかしこの「魔」は、実は祭ってどうにもなるものではない。ヒトの心の中に巣食うものである以上、それは、一人一人の可能性にゆだねられている。 ティオキアは、自らをかけて魔を封じた。それは、愛ゆえか、後に神と呼ばれる存在か――と、下手に感動めいたことを言ってしまいそうだ。が、しかし、きっと作者本人は、長いゲームの闘いの末に導き出してきた言葉であり結末でしかないのだろう。 しかし、その結末こそ、法則性の元に導き出されたものならば、人間もティオキアや竹宮のように、ギリギリまで諦めるものではないし、まだまだ、捨てたものではないということなのかもしれない。 裏切りつづけた負のエネルギーは、いつかプラスに変わる可能性が、秘められているということだ。それがDNAの法則にも見合う、ヒトの、法則なのかもしれない。 |