――それでも地球はそこにあるのだ――
まず、読んでいて、不審に思うことは幾つかあるだろう。その一つに、スペリオルドミナンド時代のコンピューターに感情をセーブされた人類が、生きる目的や意味、希望を失いはしなかったのか。先の見えた人生に、絶望感を感じはしなかったのか。また、闘争本能なくして人類の発展はありえないが、それらの本能の行き場所や、コンピューターへの反乱の可能性がどの程度あったのか。
人格者とは、様々な苦労を重ねたからこそ形成されるのだと考えるのは、私一人だろうか。「地球へ…」で設定された特殊政府体制下では、生まれたばかりの人格に善意の道徳教育を塗り付けているだけのようにさえ思える。さらに、付け加えるなら、子供の配給に始まる様々な制度そのものが、差別意識の回避を根本から絶とうということから始まったならば、マザーという機械による統制で、それぞれの「能力に適応した道」を与えることによってその理論は完結されるのであろうが、スペリオルドミナンド時代に入る以前、あれだけ科学が発達したにもかかわらず、そうした人類の差別意識と闘争本能という根本問題からの解決ではなく、表面だけを調整するという、「臭いものにはふたをしろ」的な発想――つまり、精神教育・人間教育がおざなりになったままなのか、という疑問が、持ちあがらざるを得ない。
そこに既に、スペリオルドミナンド時代という体制の持つ限界が暗示されている、と考えていいのかもしれないが、作品テーマとして、もっと根本的な問題があると、考えてもいいかもしれない。
ナスカで、ジョミーは何を実験したのか。
彼は、人間本来の生活に戻るべきだと考え、自然分娩によって子孫を残すということをミュウたちに教えた。そして、それをキース・アニアンにも説く。
人間本来の姿というものに戻ろう――、と。
ジョミーにとって「地球へ…」という思いは、ソルジャー・ブルーから引き継がれた想いだった。彼は、キース・アニアンに要求する。ミュウの存在さえ認めてくれたのなら、我々は宇宙の果てに去ってもいいと。いや、ジョミーにとっては、ソルジャーブルーの遺志さえなければ、元々地球へ帰る必要はなかったのかもしれない。
ジョミーの、「地球へ…」という意識そのものは、作品の意図やテーマとはかかわらず、まるで母の懐に帰ることを求める子供のように、人間にはどこかへ帰りたい、という本能があり、それがジョミーにとっての、ブルーにとっての「地球」だったと考えていい。たとえ、そうでなかったとしても、人間が生きていくためには、何か心の支えがいる、それが、やはりジョミーやブルーにとっての「地球へ…」という想いだと説明してもいい。そう説明する方が、作品自体の登場人物たちの動向に納得がいくのである。
しかし竹宮恵子が設定した、テーマという視点にかえってくれば、この、スペリオルドミナンド時代がスタートした時、なぜ人類は宇宙へ去らなければならなかったのか、と考えると、人類そのものが地球に著しい汚染をもたらし、その母なる大地を病ませたから、というのが原因だった。科学の発達が地球の首を閉め、人類の首をしめたのである。そうして、そうした科学の発達によって、人類は科学の持つ悪しき側面を検討しようともせず、神の領域である出生にまで手を初め、一律に感情を統制してしまったのだ。もし、人間らしい、人間本来の姿を保ったまま、マザー・イライザという機械が監視するというのであれば、その発達は誤りではなかったかもしれない。しかし、人類は大きな過ちを犯したまま、何食わぬ顔で生活を続けている。
そこに現れたのが、「ミュウ」だった。
作品クライマックスに近づき、キース・アニアンが実験結果を披露する場面が登場する。その一つに「ミュウ」の子供と一緒に暮らさせた普通の子供にも、その力が芽生えてしまったという場面が登場する。また、成人した大人にESPチェックを施すと、能力の高いものほど強い結果が出たのであると。
ジョミーは言った。ミュウは、成人検査が生み出したのだ、と。
ナスカに滞在し、生活が安定してきたミュウから、ESPの能力が消えて行ったのと々、体が弱く、感情が多感な、つまり人間として不完全に近いものが、成人検査でミュウとなった。と、考えるならば、人間は多かれ少なかれ、ミュウとしての能力を潜在的にもっている。しかし彼らは、何らかの弱点があって、自分を守ろうとした本能が働いたときに、超常能力が生まれてしまったのだと、考えられないだろうか。
ジョミーは言った。ミュウは、成人検査が生み出したものだと。(C)少女マンガ名作選
ただ、もう一つ付け足すならば、ミュウの能力とは、思念波によるものである。そして、機械であるマザー・イライザも、精神に大きく踏み込み、人々の感情を調整する。と、考えるならば、感情を調整し、その精神に強く働く機械精度そのものがミュウを誕生させたともいえるかもしれない。
と、考えていくなら、「地球へ…」というタイトルには、別の意味が隠されていることになる。ジョミーのいう、ふりだしの、人間本来の姿へ戻ろう、という意味――あの、母なる大地が一つの星として機能していた、あの頃に帰ろう、と。
ならば、「地球へ…」からは、竹宮恵子のメッセージを読み取らねばならなくなる。発達した機械が人間性まで侵してはならぬ、どんなに科学が発達しても、人間本来のあり方を忘れてはならない、と。
「地球へ…」は、まだ来ぬ未来の物語である。しかし、我々が進んで行く道の、果てであるのかもしれない。そこへ至らぬための警告、また、現在の科学への警告――このSFマンガに、そこまでのメッセージ性を読みとっていいのか、ときかれそうだが、竹宮が、手塚治を尊敬すべき師と考えていたならば、そこまで読み取らなければいけないと思う――が、いかがなものだろうか。