コメント:初めてこの作品を読んだ時、青年心理学入門の教科書(具体例)を読むような印象で読んだような記憶がある。当時作中の「狩野都」とほぼ同年代だった私だったが、自分とはずいぶん世界の違う話だった、と、遠くに作品世界を眺めたものだった。
それから連載が終わり、日々この作品を咀嚼するにいたって、次第に作品そのものの組みたて、あるいは作者吉野が何を書きたかったのか、というようなものが見えてきたように思う。その作品分析はこの後に続く吉野作品よりはたやすく、作中狩野がサスペンスコメディを書くときに、編集者である菅埜の兄に言われた「お勉強しました」が若いから出ちゃうという、本当にそのものという印象を受ける。早い話が、「書きたいこと」が前面にゴツゴツ出てしまっていて、若干芸術点を落としてしまっているのだが、おそらく通常読者にはさほど影響はなく、かえってわかりやすいかもしれない。また、そうであっても、芯の深いところで、何かを揺さぶるだけの強さがある、実に近来指折りの名作に数え上げてもいいほどの名作であり、ネームの情緒性も加えて、「文学」にひけをとらないすごさがある。もちろん吉野朔実の代表作であり、この作品なしに、後の彼女の作品さえ語ることも難しいだろう。
十代には(十代に限ったことではないが)、誰かに「理想の私」を重ねることは実はよくあることなのだ。アイドル歌手を夢中になって追いかけるのも、そこに「なりたい理想の私」を重ねていることが多々ある。ところが「なりたい理想の私」が、実は「なれない現実の私」と気付いてしまったら、時として、相手を否定しにかかるしかなくなってくる。覚えている方もあろうか、アイドル松田聖子のファンによる襲撃事件、今なら「ストーカー」と片付けられてしまいそうだが、夢を重ねる虚像の人とファンの関係というのは決してそれのみで考えていいものではないのである。
それを吉野は作品の中で、五歳まで体の弱かった兄の足となり目であり、兄と自分の区別がついていなかった「狩野都」という登場人物を用意することで、教科書ではなく、作品として成りたたしめているのだ。
狩野は兄と区別のついていなかった頃、自分のことをずっと男の子だと思っていた。そして、その後もずっと男の子になりたい、男の子でありたいと思っていた。作品の中で、こんなふうに、兄という存在で説明がつけられているが、実は、兄の存在がなくても、「少年でありたい」とは、どの少女も少なからず抱く願いである。「少女」というものは、暴力的に急速に、体の形を変えて女になる。精神発達が早いのに上昇意識を抱いても社会的にも認められにくく、体力での大幅な制限さえ出てくる。「狩野都はどうして男の子でありたかったか」――兄の存在は、その潜在的な説明つかざるところを明確にし、作品として描く鍵となっているのだ。
大人の女になるのではなく、夢の中の少年でありたいと思う狩野の目の前に、実際に自分によく似た他人で、「なりたい自分」黄味島陸が現れた時、狩野にとっての「夢の少年」が、現実ではないのだと思い知らされ、本当は兄が死んだ時に少年自身は消えてしまい、もう夢でしかありえないということに気付く。(C)少女マンガ名作選
しかし、「いつか成りたい理想の自分」が目の前に現れてしまったら、今までの自分、そして、今ここに存在する自分は一体何なのだろう――結果として、その不安を解消するには、現実にいる理想の自分を消してしまうか、現実の自分を自分として認めるしかないのだ。
狩野自身、一度は陸を消したいと思うのだが、幸運にも小説を書くという才能を与えられた彼女は、夢の少年は、夢の中で走り続けるのだということに気付く――それは、形としての男ではなく、自分が実際、精神的にどんなふうでありたかったかということの答えでもあった。
しかし、物語の中で、登場人物の「自分は一体なにものなのか」という問いは解決されることはなく続いていく。実は、この疑問も青年期誰でも抱くものなのであるが、今度は少年「黄味島陸」に焦点をあてて描かれていく。できるだけ傷つかないように、誰にも固執せず、誰とも等分に関係を保ってきたこの少年は、とても自分と近い「狩野都」を前にし、また、その狩野が深く懐の中にせまってくるにつれて、実の父親を否定しつづけ、安全な家庭、安全な環境で生き続けるために守りつづけた「自分」のフォームを破らざるを得なくなってくる。誰との関係でも、適当でいられなくなってくるのだ。なぜなら、深く誰かを受け入れるということは、深く誰かに受け入れられなければならない。自分を可能な限り、相手に開かねばならないのだ。
それは、それまでの「黄味島陸」を否定する行為でもある。実の父の存在を受け入れ、自分が何者かを受け入れるのか、それともこのまま、とても自分に近い、狩野都を知ってしまった今、孤独なまま生きるのか。狩野の中には、確かに自分が、本当の自分がいるのに――。
兄をなくして、あの少年でありたい、男の子でありたいと夢見つづけ、その「もう一人の自分」と出会ってしまった狩野都と、人との関係性の中で本当の自分を否定し続けようした黄味島陸は、まるで、ある意味、半身同士、一対の「ヒト」のようでもある。狩野にとっての「ありうべき自分」黄味島陸と、「ありうべからざる自分」黄味島陸を求める狩野都と。そうした二人のコントラストを、「青年期」というテーマの中で無理なく描ききった吉野の力量、采配は見事なものである。この「一対の」というテーマは、その後彼女の作品テーマとなって生き続けるというより、疑問や未消化の部分がその後の作品の中で試される。
一対の、足りない部分を補いあう完全な二人でいいのだろうか、確かにそれが恋というものかもしれない。運命の恋かもしれない。それでは、二人以外の世界は、何のために存在するのか、そのままでいいのだろうか――この問いは次作「ジュリエットの卵」に引き継がれ、「少年は荒野をめざす」で描かれた一対の二人は、結局は分かたれねばならなかった。「もう一人の自分」に出会って、世界は終わってしまっては、ならないのだから――。
しかし逆にいえば、「もう一人の自分」を自覚するということは、自分を認めるということかもしれない。それが一人の人間の成長であり、一人の人格の成り立ちであるなら、これはまぎれもなくハッピーエンドの物語である。
数年振りにまともに読み返して、しかし実は押し寄せてきたのはこんな理論のかけひきではなかった。
あの頃の「センシティブ」な呼吸であった。
あの頃、確かに遠い別世界として把握していた物語、今になって読み返せば、実はとても近いところに位置していたのだと、驚かされた。
どの視点で読むのでもいい。だけど、読めば読むほど、その時代、その年代に、作品の中で別の何かと出会う、別の誰かと、出会う。
次に読み返して、今度は何に出会うのだろう。
――とても深い、深い作品である。