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巫女姫物語

― 第1部 ―

 
 


 
 
 (四)
 
 
 

 ――知らないと、お思いですか?―― 
 小夜はハヤテにのって空をかけながら、信乃の言葉を頭の中で繰り返した。
 ――以前にもこのようなことがございました。気がつくと家にもどこにもおられず、巫女姫さまが何度お叱りになっても集中力がなく、こっそりとお滝場に通っていらっしゃいました。あれは、五年前――
 信乃は何もわかっていない。
 小夜は奥歯をかみしめた。
 お前は、私のことなど何もわかっていない。
 ぐん、と背をのばし、さらに高く舞い上がった。
 雲を抜け、遥か上空へと上りつめる。眼下には、今さっき抜けてきた雲が見える。白い、雲の海だ。小夜はその雲を、上へ下へとくぐりながら、舞った。人の成せるわざとは思えないほど、軽やかな動きであった。
 風にのりながら、小夜の心は無に帰っていく。あの、つらい修行時代、まさかこんな境地に達しようとは、夢にも思わなかった。
 心に行き渡る、得もいわれぬ解放感、そして、快感。
 後に来る疲れなど考えず、小夜はいつまでも風の中で舞い続けた。
 しかし、いつまでも上空をかけ続けているわけにもいかない。小夜は体を斜めにして、下降を開始した。サッと雲を斜めに横切っていく。目の前の白い幕が途切れると、さっと地上がぼんやりとした様子で広がった。
 だんだん、落ちていくにつれ、山々の形がはっきりしてくる。
 大木村はあそこだ。
 谷間から山に這い上がるように田畑が連なっている。
 田畑が近づき、一軒一軒の民家がはっきり識別できるようになる。
 ちょうど、白石山の頂上を真横に見た当たりで下降をやめ、軽く斜めに弧を描いて白石山の頂上めがけて飛んだ。頂上の上にきてから、女神山に続く尾根づたいにゆるゆると落ちていく。森の中に小川が見え始めた。木々の間に間に細く下る川が、やがて幅を広げていく。夏なら山に来た者たちが火を囲んで野宿するであろう広場が下に見えると、小夜はおもむろにハヤテから落ちた。
 すとっと音がして、小夜の体が新雪に沈むと、小夜は目を閉じたまま雪の中で動かない。長く風にのっていると、人として動くとき、感覚が戻るのにしばらく時間がかかるのだ。
 ふいに横に微風が流れたかと思うと、小夜の横にイヌワシの姿をしたハヤテが現れた。小夜は目を開けて、ハヤテのつぶらな瞳をみつめる。
「ハヤテ。」
小夜はハヤテの頭をなでて微笑んだ。
「楽しかったか?」
 小夜が右手を差し出すと、その頭をすりりと小夜の手に寄せた。小夜は満足そうに目を細める。それから、右手をバタリと落としてまた、目を閉じた。仰向けに寝転がった体の、全身を感じる。
 だらりとして心地がよい。
 ふいに目を開けた。
 目の前には、取り囲む木々と、ハヤテと、そして空が見える。その広々とした白と緑と青の光景に、思わず小夜は目を細めた。
「私は――。」
ハヤテを視界からはずし、一つの木の幹に視点を定め、じっとみつめる。白い雪の中で、濃い色はますます濃く、太い幹がますます力強く見えた。
「私は、とりかえしのつかないことをしようとしている。」
 ふとハヤテの方を見たが、ハヤテはただただ小夜をみつめるだけだった。
 小夜はそんなハヤテにせつなく笑いかける。
 むくりと起き上がった。立った姿勢で浮き上がると、どこということはなく、ただじっと前を見つめた。
「それでも、それでも私はやらずにいられないのだ。」
 ハヤテが、バサリと翼を広げた。風が起こり、雪が細かく舞い上がる。
 小夜は再びハヤテに乗った。向かうは、朔次郎――いや、靭実のいる、あの猟師小屋であった。


 

 二人うちあけあったあの日、「夕方には戻ってまいります。」と小夜は言って出て行ったのに、その日のうちに小夜はとうとう朔次郎の元にはやって来なかった。
 熱がひいて随分楽になったものの、水一つ飲むのにも骨が折れる。小夜が予めそばに置いていってくれたが、発汗した後なのでそれでは足りなかった。
 翌朝、いつもの刻限になっても、小夜の来る気配はなかった。
 何故来ない。
 朔次郎は気をもんだ。
 やっと、お互いのことがわかりあえたばかりではないか。
 朔次郎は何とか土間までたどりつくと、水桶の水を柄杓ですくって、ごくごくと飲んだ。すると、カタンと後ろで戸の開く音がして、朔次郎は思わず振り向いた。小夜かと思ったのだ。しかし、そこにいる者は、小夜よりずっと幼かった。部屋の明かりが消えたままになっているので暗く、外の雪の白さも手伝って、少女の顔ははっきりと見えなかった。
「朔次郎さん、ですか?」
少女の声がおどおどと尋ねる。
「そうだが―――、お前は?」
「信乃と言います。姉さまに頼まれて、あなたのお世話に――。」
「姉さま?」
「はい、小夜姉さまです。」
すると、小夜の妹か、と、朔次郎は思った。
 信乃は相手を確認したので、中に歩み入った。
「もう起き上がってもよろしいのですか? 姉さまの話では…。」
「小夜はどうした。」
朔次郎は信乃の問いには答えず、強い口調で信乃の言葉をさえぎった。信乃はびくりとして朔次郎を見上げた。すると朔次郎はよろよろと土間を信乃に歩み寄り、その肩をつかんで、もう一度、
「小夜はどうした。」
と尋ねた。
「姉さまは…。」
「何故来ぬのだ。」
朔次郎の気迫に、思わず信乃はブルブルと震え始めた。震える声で、
「巫女姫さまのご命令で、三日間の潔斎を――。」
朔次郎は信乃の肩から手を離すと、よたよたと戸口へ向かって歩いた。信乃ははたと我に返り、朔次郎に駆け寄った。
「行ってはなりませぬ!」
信乃が腕にしがみつく。
「離せ!」
「いいえ話しませぬ! その体で一体どこへ行くのです。第一、行ってどうなるのです!」
「離せ! 離さないか!」
「いいえ! いいえ、なりませぬ。」
信乃は必死で叫んで、その小さな体で一生懸命朔次郎をひきとめようとした。
「あなた様は、我々一族のことを姉さまにきかされているのでしょう! 村へ行ってはなりませぬ。二度と出られなくなりますぞ!」
朔次郎はその言葉に、はっと我に返った。振り向いて、信乃の顔を見る。
「姉さまのことを思うなら、どうかこのまま、寝床へお戻りなさいませ。お願いでございます。」
信乃は真剣な顔つきで、じっと朔次郎の目をみつめて言った。そこには、子供とは思えない強さがあった。
 信乃の言葉と気迫に、朔次郎は諦めてよろよろと寝床へ帰って行った。
 信乃は外においてあった箱を抱えて入ると、戸を閉めた。部屋にあがって囲炉裏の火をかき起こし、部屋の明かりをつけ、朔次郎の食事の準備を始めた。
 朔次郎は寝床につくと、どこか落ち着かない心持で、信乃が黙々と動く様子を目で追った。なるほど、顔立ちが小夜に似ていると思った。しかし、集中して用事をしているときの小夜の目には鋭いものがあるが、信乃の場合、いかにも少女らしいあどけなさ、というか、優しげな雰囲気がある。
「おぬし、名は何という。」
一瞬、ピクリと信乃の手が止まった。が、また何事もなかった様に手を動かし始めた。
「信乃と申します。」
「いくつだ。」
「十になります。」
「十か。小夜と四つ違いか。」
「はい。」
何かもの問いた気な雰囲気が、信乃にはあった。でも、親しみがあって何か語り掛けたいというような感じではなく、朔次郎を意識的に見ようとせずに、何かうとましい者にでも対するような、何か非難したげな、そんなよそよそしさがあった。鍋をかけて中が煮えるのを待つ頃になると、落ち着きなくうろうろと土間の片付けをしたりしている。朔次郎は居心地が悪かった。意味もなくキョロキョロと小屋の中を見回した。朔次郎としては小夜のことを尋ねたいのだが、とても信乃に声をかけられるような雰囲気ではなかった。
 とうとう何もすることがなくなって、信乃が囲炉裏の端にすわると、心にせまる思いに耐えかねて、朔次郎はおもいきって口を開いた。
「小夜は、小夜は、なぜ潔斎を命じられたのだ。」
信乃はその問いに、じっと鍋をみつめたまま答えなかった。手を固く結んで膝の上においている。
「信乃。」
返事がないので、朔次郎は信乃の名を呼んだ。すると、鍋の方を向いた信乃は、我慢ならぬという面持ちで、朔次郎の顔をみつめた。手元がわなわなと奮えている。
「あなた様のせいです。」
言った信乃の声には、非難と憎しみがこもっていた。
「何?」
朔次郎は眉をひそめ、肩肘ついて上半身を起き上がらせた。
「あなた様のせいではございませぬか!」
信乃は声を荒げた。
「昨日、おかしな風がふきました。原因はあなたなのでしょう。昨日風がふいた時、なぜ姉さまが禁を犯してまであのようにお嘆きになられるのだろうと不思議に思うておりました。まさかこのような所に、あなた様のような人がおろうとは、夢にも思わず…。」
「禁を犯す?」
「そうです!」
「おぬし何をいうておるのだ。」
信乃の方が朔次郎の言葉が解せずに眉根を寄せた。
「禁を犯して嘆くだと? 人は、悲しければ泣く。怒る。笑う。それが人というもの。小夜のしたことは、人として当然のことなのだ。何故禁じられねばならぬのだ。」
「あなたには、巫女姫一族というものがおわかりになってはおられませぬ。」
信乃はぴしゃりと言い返した。
「俺に、巫女姫一族がわからないだと?」
「そうではありませんか。姉さまほどの力のある方なら、心を乱せば気に影響が出るのは必定。普通の人間とは違うのです。」
「普通の人間とは違う?」
「そうです。」
「では、小夜のことを本当にわかっていないのは、お前の方だ。」
言い切る朔次郎に、信乃は目を丸くした。
「本当に?」信乃は口元に嘲笑を浮かべた。「何を言います。一族でその血が一番姉さまに近いのは私です。私がもっと安定していれば、姉さまではなく私が巫女姫として修行していたかもしれません。その私がどうして小夜姉さまのことを本当にわかっていないなんて…。」
「しかしお前は、巫女姫としての修行を、してもいなければ、候補というわけでもないのだろう?」
信乃は思わず言葉につまった。
「しかし。」
「俺の言っているのは、一族がどうとか、巫女姫がどうとかの話ではない。小夜一人の話をしているんだ。泣くことも許されないなんて、何か間違えている。人間、悲しければ大きな声で泣くことも必要なのだ。それが、人の自然の姿だ。今のままでは今に必ず皺寄せがくるだろう。」
「いいえ。」
「小夜は幸せではない。」
「いいえ、いいえ! 姉さまは巫女姫となるべきお方。どうか、どうか、もうこれ以上姉さまの心を惑わすのはやめてください。我々は今までこれが当たり前だと思ってやってきたのです!」
「それを小夜に強制するのか!」
「強制とか、そういう問題ではありませぬ!」
朔次郎が病人なだけ分も悪い。暮らした年月が全く違うというのも、大きな負い目になった。しかし宿命の中に生きて、耐えて生きるからこそ、許されるべき何かがなければあまりにもつらいことを、この少年は知っていた。知っているけれども、語る言葉がなかった。しかも信乃には、十の子供とは思えない迫力があった。理屈も何も入れない激しい気性。もしこの気性の激しいのが、いや、潜在的には小夜と同じ程度の力はあるかもしれない信乃が、巫女姫としての能力を高め、小夜のように心を解放して、それが暴走したなら、いったい、どうなるのだろう。ぎらりと睨むその目には、心の奥底に鬼神が宿っているのではないかと思われる。
「あなた様は、一体何様のおつもりなのです。」
信乃は不遜な表情をその瞳にうかべて、そう言い放った。
「あなた様は、一体何様のおつもりなのです! この村の者でもない、一族の者でもない。ただの通りすがりのあなたに、一体どんな権利があってそんなことを言うのですか!」
「俺は―――!」
夢中で言い返そうとして言葉につまった。確かに信乃の言うことも一理ある。しかし――。
「あなたは? なんだと言うのです。」
「俺は…。」
それ以上の言葉が出てこなかった。別に、信乃の言葉や気迫に押されて返事が出来なかったわけではない。
 そうだ、信乃の言うとおりなのだ。
 何故俺は、小夜のことばかり考えて、こんなにこだわるのか。
 こんな田舎の巫女に――。命を救ってもらったからか――? 
 いや、違う。
 朔次郎がそうやって黙ってしまうと、信乃の感情の高ぶりも少し落ち着いていった。それで、ようやく、鍋の中がぐつぐつと音を立てているのに気が付いたのだ。
 蓋をとり、中をかきまぜた。
 答えを求めて、朔次郎は心の中をさまよっている。その間にも、信乃は鍋の柄を布で挟みあげ、盆の上におろし、椀とさじを添えておいた。そして、考え込んでいる朔次郎に、
「お一人で、召し上がれますか?」
尋ねた。
 朔次郎は十の娘に、まして信乃に食わせてもらう気は毛頭ない。
「ああ、ありがとう。後は自分でする。」
しかし、朔次郎はそばに食事を置かれても、なかなか手をつけようとはしなかった。カタカタと器具を片付けながら、信乃はチラリと朔次郎を盗み見た。
 そもそも信乃がここに来たのは、小夜が巫女姫に潔斎を命じられ、一度家に戻り、父の目を盗んで朔次郎のことを説明し、頼んだからだった。その話をきいて、信乃には、何故そこまでその男のことを、まして禁を犯さしめ、潔斎をするはめに追い込んだ人間のことを、小夜が気にかけるのか理解できなかった。ただただ、必死に頼む小夜の目を見ているうちに、断る気になれなくなってしまったのだ。
 説明が終わると、小夜は胸の前で手を合わせて改めて信乃に頼んだ。
「くれぐれもよろしゅう頼みます。ハヤテを使えないお前には大変でしょうけど、お前にしか頼めないのです。」
いつも小夜が持ち運ぶときに使っている箱を信乃に手渡すと、小夜は信乃にすぐ行くようにといって後ろで見送っていた。小夜の言葉のままに信乃が行こうとして、信乃は、胸にもたげる不安に耐えきれず、振り返って小夜に尋ねた。
「姉さま。」
振り返った妹を、小夜はみつめた。
「姉さまはその男を――。」
言葉がつかえる。小夜が首をかしげた。信乃は、ぐっと手に力を込めた。
「その男を、好いておられるのですか?」
小夜はぎょっとした。そしてすぐに、ほうと頬を紅く染めていった。
「余計な事はいいから、早う行きなされ。」
信乃は言葉が告げなかった。動けずに立ち尽くしていると、紅い顔をした小夜がまた「早う。」と急きたてた。急きたてられるままに信乃は振り返って走り出す。信乃の心に言葉はなかった。
 ただただ、押さえかねる不安があふれてくるばかりだった。


 

 あらかた片付くと、信乃はふと土間の所に立って朔次郎の方を見つめていた。朔次郎はその視線に気がついて顔をあげる。
「夕刻にもう一度参ります。」
信乃が言った。
「ああ。」
朔次郎がそう答えたのに、信乃は土間の所にじっと立ったまま、もの問いた気な表情で動かなかった。
「何だ?」
「朔次郎さんは、姉さまのことをどう思っていらっしゃるのです。」
「どうって。」
朔次郎は信乃の問いの意味を解しかねるようだった。
「もうこれ以上、姉さまの心を惑わすようなことはなさらないでください。」
「心を惑わす?」
「そうです。姉さまは、巫女姫、神の花嫁になられるお方でございます。思うても、無駄でございます! そして旅の途中の一時のきまぐれなら、どうかどうか、今すぐ、思い捨ててくだされ。」
朔次郎は、ようやく信乃が何を言いたいのかを解した。
 そして激しくうろたえた。
 彼は思わず、信乃の視線を外した。そしてゆるゆると手元へ視線を移した。そして、ああ、そうか、と思った。
 信乃は、そんな朔次郎に構わず、持ってきたときの箱を抱え怒りにまかせたように小屋から走り出た。
 激しい感情のやりとりを残して、部屋には一人。
 朔次郎は誰もいない虚空をじっとみつめた。
 確かに、小夜は巫女となるべき娘。そして、自分は仇持ちの身。いずれは別れの時が来る。
 思っても無駄なのだ。
「思い捨てる?」
 なるほど、信乃の言うことは正しい。理に適っている。しかし…
 いや、と朔次郎は思った。
 小夜を、かけがいのない娘だと思った。
 思い捨てることなど出来ない。
 囲炉裏の中の灰に埋もれた静かな炎、あの時、かき起こしたのは信乃だったのだ。


 

 猟師小屋に到着すると、巫女姫小夜は、すっと手を触れず戸を開けた。体は宙に浮いたままだ。部屋の中の靭実は眠っている様であったが、念のため小夜は気配を消して近付いて行った。
 上から靭実を見下ろす。
 その男はこの村を滅ぼすだろう。
 今更ながらに、先代巫女姫の言葉が頭に蘇ってきた。
 あの時、命じられた三日間の潔斎はいたずらに時を潰すばかりであった。何をしているときも、いつの間にか朔次郎のことばかり考えていた。はっとなって我に返っては、そこは暗い社殿の中であることに気付かされる。そして、あるはずのない未来を思い描くのだった。会えない間の三日は長く、かえって小夜の思いを募らせるばかりだった。
 それでも小夜は三日間をのり切った。もう二度とこんな目にあってはならない、動けなくなってはならない、そんな思いが、小夜に無事に潔斎を乗り切らせたのだろう。
 四日目の朝、いつも通りに勤めが終わると先代巫女姫は、
「この三日間、よう勤められた。その身は神に仕えんとする身。二度と他のことに気を囚われるのではないのですぞ。」
と、小夜に言い渡した。
 小夜は深々と頭を下げた。巫女姫が本殿に向かうと、小夜は自由になった。境内から長い石段を下りて家に戻ると、何でもない様子で準備をし、外に出た。父は離れにでもいるのだろう、姿が見えない。信乃も、どこかに出かけたのだろうか。同じく姿が見えなかった。朔次郎の様子を尋ねようと思ったが、これでは無理だ。
 小夜はハヤテを呼び、一目散に朔次郎の元へと向かった。心ははやり、あふれだしそうだった。
 朔次郎に会う、ただそればかりを考えていた。

 

 小夜は宙に浮いたまま、眠る靭実を見ながら、己は愚かだったと思った。
 子供だったのだ。
 小夜は靭実の横につま先から静かに下りた。じっと男の顔を見、首を見、肩を見、憎らしいほど男らしくなったのだと思った。あの頃は鍛えられていたものの、やせて、どこか頼りなげな所があったではないか。
 その靭実の方は、眠りの底からゆらゆらと意識が戻ってくるのを感じた。薄目を開けると、ぼんやりとした視界の中に、薄暗い部屋の中と、戸口から漏れる光が見てとれた。横に誰ぞおって、自分をみている様だ。逆光になって顔はよく見えないが、それが小夜だと靭実はどこか確信していた。そして、ああ、俺はまだ夢をみているのだと思った。小夜がそばにいる。自分を見守っている。
 何と幸せな夢だろう――。
 靭実はまた、うとうとと眠りの中へと落ちていく。靭実は幸せだった。小夜の手の動くのが見える。首に何か感触がある。ああ、そうだ。小夜の指の感触だ。
「うっ…!」
靭実は途端に、女の手で首が締め付けられるのを感じた。靭実は思わず体をのけぞらせ、足をバタバタとした。それでも、女は離そうとしない。しめつける。すごい力だ。本気だ、と靭実は悟り、足の動きもとまる。靭実は必死であがき続け、その腕を払いのけようともがいた。
「ぐ…」
女の腕をつかんだその時だった。
「やめて小夜!」
少女の叫び声がきこえてきた。思わず小夜の手が緩むと、靭実はつかんだ小夜の腕を思い切り払いのけた。小夜はとばされ、壁にガタンと体をうちつけられた。
 靭実はぜいぜいと荒い息をし、何度も咳をする。
 小夜はゆっくりと起き上がりながら、戸口に立つ声の主を見てはっとした。
 戸口に蒼白な顔をして慄きつつ立っている少女。声の主は、忍びの里の佐助の妹、楓だった。
「楓…。」
靭実は荒い息で呼吸を戻そうと床にへばりつき、思わず戸口の方を見た。靭実の知らない少女だった。しかし、その少女がただの村娘などではなく、忍びの者らしいことは、一目でわかった。
「お前、なぜこんなところに…。」
楓に言って、小夜は立ち上がった。
「待て、小夜!」
戸口に向かう小夜に、慌てて靭実は声をかけた。小夜は立ち止まって、靭実に振り返り、彼を見下ろした。靭実は信じられないという目で小夜を見上げる。
 彼には、小夜が、あの頃の小夜とは別人に見えたのだ。
 靭実はまだ整わない呼吸に、首に手をあてながら、何とか話さねばならないと努力した。
「小夜…お前…。」
「稲賀の手の者に、お前の存在がしれた。」
突然の言葉に、靭実ははっとした。そして、小夜の顔を凝視した。
 そうだ、ここは敵地であり、自分はその相手方の一武人――名将、小坂茂実が子息。
 朔次郎の時とは事情が違う。
「なぜ――。」
「私には今、稲賀どのの見張りがついている。」
「見張り?」
「この、楓の兄だ。」
言って、小夜は楓に視線を送った。靭実は心の中のあせりを隠せない様子で楓を見た。
「お前をかくまったと思われては迷惑だ。馬をやる。殺されたくなければ、一刻でも早くここから立ち去れ。」
瞬時、靭実は自分の体のことを考えた。しかし今はなによりも、まずこの村を出て国境を越えなければいけない。
「傷はもうふさがっているはずだ。」
「わかった。そのかわり、刀を貸してくれないか?」
「駄目だ。」
「なぜ。」
「かえりうちにあっては、かなわないからな。」
小夜は、意味ありげに笑った。そんな小夜を、靭実は思わず睨みつけた。
 と、小夜の顔から笑いが消えた。
「馬は日暮れまでに届けさせる。」
そういって、小夜は戸口へと向かった。楓がじっと二人の様子を見守っている。その楓の肩に触れて、外へとうながした。
「小夜。」
戸口から出ようとしているところを、また靭実は呼び止めた。
 小夜は無言で靭実の方を向いた。
「お前、本当に小夜なのか。」
 靭実の表情は真剣だった。小夜は戸口に立ったまま、じっと靭実を見る。いつものあの、動かない表情で、である。しかしこの時――少なくとも楓にはそう見えたのだが、小夜の瞳はいつもより憂いを含んでいた。そしてゆっくりと、小夜は口を開いた。
「お前、今まで何人人を殺した。」
小夜の突然の問いに、靭実は思わず目を見張った。そして、小夜の目がキラリと光って口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「お前の名は、この国でも既に知れ渡っておる。そうやって、何人の屍を踏んでのし上がってきたのだ。」
靭実は答えず、小夜から目をそらせた。
「高階隆明が寵臣、小坂靭実。出世のためなら、隆明に、身も心も売ったか?」
靭実はギリリと歯をかみ合わせ、非難めいた目で小夜を見上げた。
 お前に何がわかる。
 小夜の口元から、笑みが消えた。
 視線を靭実からそらせる。
「お前の知っている小夜は、あの日、死んだのよ。」
戸口から足を踏み出し、小夜は続けた。
「あの日のお前が、もう二度と帰ってこないようにな。」
 小夜の姿が戸外に消えて、カタンと戸が閉まる。
 靭実は思わず大きく手をふりあげ、拳に力を込めて、ドンと床を打った。その音は、外にいる小夜たちにも聞こえた。
 小夜が歩を進めた。小屋の前は猟をする者たちがここで滝火をしたり、獲物を焼いたりするために、少し広くなっている。
 昔は小夜が、ここでハヤテに乗ったり下りたりしていたのだ。
 遅れてついてきた楓に、
「なぜ、場所がわかったのだ。」
と尋ねた。
「小夜がハヤテにのって行くところが見えたんだ。それを追いかけてきた。」
小夜は思わず楓を振り返った。
「お前、ハヤテが見えるのか?」
楓は首を横に振る。そして、腰をかがめると、何かひろった。
「これ。」
楓の手のひらにのっているのは木の葉である。
「小夜が風にさらわれたところまでは見たんだ。あとは、木の葉をその風にのせて風の行方を追ってきた。」
小夜は、なるほどと思った。これは、楓たちでなければ思いつかない。
「あの男が、小坂靭実?」
「そうだ。」
「小夜はあの男と知り合いなのか?」
「昔な。」
 楓は小夜の横顔を見上げた。
 遠い目をしている。二人の会話からみても、昔、単なる知り合い以上の何かがあったのだろうことは、楓にも分かった。しかし小夜を見ていると、何故かそれ以上のことはきけなかった。
 小夜が突然、楓の方を見た。
「なぜ、とめたのだ。」
「え?」
「さっき、私が首をしめようとしたときに、本来ならお前は止めるべき立場ではなかったろう。」
「あ…。」
楓は今まで気付かなかったというように声をあげた。小夜はそんな楓をじっとみつめる。楓がキュッと小夜の袖をつかんだ。
「あたし、小夜が好きだよ。」
「お前たちのお館さまにたてついた、私がか?」
「関係ないよ、そんなの。あたしは小夜を尊敬してるんだよ。だから――。」
楓は小夜に一生懸命訴えた。小夜はたじろぐふうもなく、
「だから?」
と問い返した。
「だから、」楓は視線を下げた。「だから、大好きな小夜に、人殺しなんてしてほしくなかったんだ。」
 小夜は楓をみつめた。今はまだ小夜の肩を少し越える程度の背の高さしかないが、今にもっと背が伸び、小夜に追いつき、追い越しするだろう。
 うつむき、涙ぐむ楓に、優しい子だと小夜は思った。しかし、その優しさが命とりにならねばよいが――。
 小夜は空を見上げた。曇った冬空は、重くのしかかるようだ。
 ざっと音を立てながら木々の間を、一陣の風が、波乱の予感を含んで吹きぬけた。


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