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巫女姫物語

― 第2部 ―
 
 


 
 
(一)
 
 
 

 外の光が、本殿の扉が閉じられるに従って、細くなっていく。
 やがて静かに扉が立て切られると、本殿の中は闇と静寂に満たされた。
 耳をすませば、外から木々や獣たちの動く気配が、そこに聞えてくるようだ。
 本殿の床に横たわった小夜は、自分はもう逝くのだと思った。
 既に体の感触はなかった。
 斬られたはずの痛みも、抱きとめられていたはずの温かみもなかった。
 逝くのだ。
 もう、いくのだ。
 あの大空をかけて――それから――。
 ハヤテは、皆に自分の死を知らせただろうか。
 信乃(しの)は、無事に逃げおおせただろうか。
 村人は皆、きちんと稲賀(いなが)殿の元へ向かっているだろうか。
 いや、いや――よそう。
 もう、何を思ったところで、何も出来ぬ。指一本、動かせぬではないか。
 逝こう――行こう、行くのだ。
 あの大空かけて、風となり、どこまでも――



 早朝から、重く冷たい雨が降り出した。
 降り出した――らしい。
 目には映るけれども、この身に感じぬ。だからきっと、これはまた夢なのだ、と、巫女・橘(たちばな)の君は思った。
 なぜなら先ほどから外を歩いている――森の中か、薄暗い――が、どう考えてもこれは六佐(ろくざ)に抱えられた視線の高さではないし、何より誰かに抱えられた気配でもない。一人で歩ける身でもないのに、一人で歩いていて、おまけに身があるにしては、体がやけに軽い。
 誰か他人の中にいて、外を歩いているのだと思った。
 視界を映す主は、何を探す気なのか、視線をウロウロとさせている。
 この主は、森の中を下るらしい――この森は、どこの森か――
 由良(ゆら)家の裏にある沢に通じる森で、その森を下るようだ。
 視線はウロウロとしているようだが、目的のものがどの辺りにあるかは見当がついているらしい。
 つと、視線は沢へと下りる道をはずれ、森のしげみへと入っていく。
 ゆらゆらと動く視線の先に、人がいる気配――。
 視線の主は、木々の先にある丈高い草むらの上に横たわる若い女を探し当てる。
 途端に引き返し始めた。
 今下りてきた木の間を勢い強くひき返し、由良の家目指してかけ出した。
 ――ふとここで、橘の君の意識がとぎれた。
 次に気がつくと、身は重く、布団の中の温かみに横たわっているのを感じる。
 そらみろ、夢ではないか。
 私があのように、歩けるわけがないのだ。
 目を閉じ眠りながら、ふと、押し寄せる悲しみに沈みかけた時、とん、と、肩を重くこづかれた。
 ――巫女さま――
 途端に、横たわる自分の体の隣に、女の気配を感じた。
 ――巫女さま、起きてくださいまし、巫女さま――
 目は閉じているのに、体は眠っているのに、女の姿ははっきり見えた。
 品の良い女だ。
 やさしい感じがする。
 橘は眠りの中で、ふと、母親というものは、本当はこんなものなのではないかと思った。
 思いながら、また、悲しみが押し寄せた。
 ――巫女さま、起きてくださいまし、助けてくださいまし、あちらに――
 言いながら女は、先ほど森の中で若い女が倒れていた、その方向を指さした。
 橘はその方向を意識しながら、この女は生きている女ではないなとぼんやり思った。
 きっと死者なのだろう。
 それにしても体が重い。
 この身が自由にならぬのは、いつものことではあるが、すべてが動かぬとこれほどに重く感じるものなのか。
 目ざめねばならぬ。
 この死者の願いを――かなえねば。



 橘の君は負われながら、由良藤吉郎の頭をポカリと殴った。
 殴られた途端に藤吉郎は、「いて」と声をあげ立ち止まった。
「いてえな、何するんですか、橘の君!」
「立ち止まるな、急げというとろうが!」
「巫女さんが殴るからでしょう!」
「うるさい! お前の背負い方が下手だからだろう。ガクガクガクガク、わらわの舌を噛み切らせて死なすつもりか!」
「急げというから走っているのに」
「ええい、うるさい! さっさと走れ、ちゃんと背負え!」
 言って、橘は藤吉郎の背でジタバタと暴れた。
 いくら小柄で他の二十才より軽いとはいえ、こう後ろで暴れられてはたまったものではない。しかし目的を持って何かに向かっているときのこの巫女に何を言っても聞き入れられぬことは、今までのつきあいでわかっていたから、藤吉郎は黙ってそのまま森の中の沢へ続く道へと下って行った。
 いつもきちんとした身なりでなければ人前に出ることを嫌うこの女が、今日に限って起き抜けに上掛けを羽織ったなりの姿で自分の寝所へはってきて、「これ藤吉郎」と声をかけたのだ。
 おそらく毎朝行うお勤めとやらもせずに、起きるとすぐに自分の元へとはってきた。
 しかもいつもより起きるのが遅い。
 何やらとてもおかしな気色を顔に浮かべ、藤吉郎を揺り起こした。
 そして藤吉郎が目を開けると、
「おい、森の中に娘が倒れている。助けに行かねば。」
 この巫女は、幼い頃の病が元で右足が動かず、歩くことができないのだという。そのために六佐という大男が彼女の足となったが、六佐は昨日“おふくろ様”のところへ使いに出していないのだという。
 それで自分の寝所へやってきた。
 そして、森の中に娘が倒れているという。
 まさか、自分で歩いていって見たはずはあるまい。きっとこれも不思議の力によるものなのだろう。
 藤吉郎は寝起きで、とりあえず外気に耐えられるよう急いで身なりを整えると、「巫女様ももう少し羽織らねば」と、もう一枚橘に服を着せ、「早く早く」という言葉にせかされて外に出た。
 しかし、である。
 普段慣れぬものを背負っても、うまく行くはずがない。
 場所をきいても、「あっちだ、あっちだ。」といって指さすばかりで、はっきりした場所がつかめない。仕方なく指さす方向へ走って行くが、沢へと続く森の中の坂を駆け下り始めたところで橘にポカリとやられた。
 人一人を背負って走りづらい上に、背の高い木々の中、雨のせいで森の中はさらに暗かった。
 これが昼間ならばまだ何とかなろうが、まだ夜が明けて半時ほどしか経っていない。足元がおぼつかないうえに、人一人背負って走るのは無理な話だと思いながらも、とにかく急いだ。
 ――いくさ場へ向かうため日々精進の、この由良藤吉郎、この程度でひるみはせぬ――
思った矢先に、橘が突然、
「藤吉郎、そちらではない、道をかえよ、あちらだ。」
と、道なき道を指さした。
 藤吉郎は呆然としながら立ち止まった。
「橘の君。」
「何だ。」
「あっちは…。」
「いいから参れ。」
進めばゆるい上り坂、そして絶壁ではないか、と藤吉郎は思った。
「こんなところになぜ人が…。」
「いいから参れ。確かにいる。」
そういいながら髪をつかんだので、藤吉郎は慌てて道をはずれ、道なき道を行き始めた。
 少しゆるゆると上り坂になったかと思うと、少しくして下りへと入った。
 このままかけぬければ、地理上視界が開け、少し大きな絶壁のあるところへ出るだろう。こんなところへどうやって人が入りこむ。わざわざここへ逃げ込んだのか。
 いや、これは、巫女・橘の君の、勘違いではあるまいか――。
 落ちた枝が、張り出した木の根が、湿った地面や落ち葉が、足元を危うくしていた。歩いた方が安全かと思った――その時だった。
 視界が明るくなったかとも思った時だった。高い木々の続く向こうに、その木々がとぎれ、膝丈ほどの木々と草の群れが見えた。
 丈低い木々の群れの端、草むらの上に、着物が――、人が――、女が――
 藤吉郎は立ち止まった。
 すると、橘は、自分を支える両腕の力が急激に抜けるのを感じ、思わず藤吉郎の首にしがみついた。
「こ、これ、藤吉――」
 橘がぶらさがったまま、藤吉郎は大またで歩き出し、女へと近づいて行った。橘はとうとう耐え切れず、藤吉郎の首から手を離し、地面へと落ちた。
「藤吉郎!」
橘は叫んだが、藤吉郎の耳には入っていなかった。
 だから、なんで、こんなところに、女が――。
 藤吉郎は思わず、目の前に横たわる女に目を寄せた。年の頃、十四、五といったところか――若い、若い女だ。百姓の娘には見えない。さりとて、深奥の姫にも見えなかった。
 それで周囲を改めて見渡した。
 目の前にはわずかな腰丈ほどの草むら。その向こうが絶壁――落ちて死ぬほどではないが、若い女がよじ上るには無理がある。背後は森、うっそうとした木々は、山の頂まで続いていよう。
 この女はどこから来たのか。
 こちん、と、頭に小さな石があたる気配で、藤吉郎は我に返った。振り返ると橘が「これ、藤吉郎、私を投げ出すでない!」と、カンカンに怒っている様が見える。
 その橘を見ながら藤吉郎はしばらく考え、「巫女・橘の君」と改まった口調で声を出し、真顔になった。
「なんだ。」
橘も真顔になると、
「私は玉来(たまき)村の長、由良藤吾(とうご)の第二子、由良藤吉郎。」
「何だ今更。」
「当年とって、十六でござる。」
「知っておる、年があければ十七だ。」
「この姫を救出すべく」
橘が思わず「姫?」と言って女をのぞきこんだ。
「つきましては橘の君、しばしこの場でご辛抱を。」
「は?」
「私には、二人は無理でございます。」
「いや、今一度二人で館へ戻れば。」
「しかし姫御は気を失せておいでで。」
藤吉郎はもう一度女の方へ向いた。
 歩みより、丈の高い草の上からガサガサ音を立てて女を抱えあげると、念のため女の口元に耳を寄せた。それから、首筋に手を当てる。
 生きている。
 少しホッとして、藤吉郎は女を抱え歩き出した。
「待て、藤吉郎!」
 巫女橘の声で、藤吉郎は立ち止まった。
「女を置いて行け。人を呼んで来なさい。」
 橘の君の強い口調に、藤吉郎は女を抱えたまま立ち止まり、じっと橘を見つめたが、突然思い立ったように橘の君へ歩みよった。
 女を抱えたまま、橘の前に腰を下ろし、
「橘の君」
と真面目くさった様子で話し始めた。
 藤吉郎が腰を下ろした時に、女の髪がサラリと流れた。
 なるほど、色白の美しい娘だ。あの夢の女と同じく、品の良い――
 藤吉郎は袖口に右手を入れ、握り締めた右手を袖口から抜き出して橘に差し出した。
「勝負をしましょう。」
 橘は思わず、藤吉郎をしっかと見つめた。
「私が勝ったら姫を館へお運びする。私がまけたら橘の君をここへお残しする。」
藤吉郎は手を開き、銭貨をはじいて上に飛ばした。片手で受け取り、握りしめると、橘の顔を見た。
「裏、表。」
「う、裏。」
藤吉郎は手を開き、銭を見せた。
 表だ。
「私の勝ちです。では橘の君、しばしお待ちを。すぐに館の者を呼んで参ります。」
藤吉郎が頭を下げるのにつられて、橘も思わず頭を下げた。
 橘の君はあっ気にとられ、ぽかんと口を開けた。そして、藤吉郎の後ろ姿を見送る。
 それからはっと我に返ると、
「こら、待て、藤吉郎! どちらも同じではないか!」
言いながら、娘を抱えた藤吉郎の背を見ていたが、彼は振り向きもせず、走り出した。
 やがて、藤吉郎の姿が木立の暗闇の中にかき消えると、
「あやつ、あのおっちょこちょいが、いくさ場で命とりにならねばよいがの…。」
と、一人ごちた。
 それから辺りが静かになると、ふと何か気配を感じ、娘が倒れていた方に目をやった。
 何か光るものがある。
 橘ははっとした。
 その光るもののただならぬ気配に、思わず動かない右足をひきずり、両手の力を使って這い寄った。
 木立が途切れる場所とはいえ、雨で辺りが暗いのにもまして、腰ほどの高さの木々の陰であるためにそのものの姿がよく見えない。なんだろう、と、目を凝らしながら這い進むと、丸い球形の――水晶玉か。
 橘は手を伸ばした。
 手に取ると、手のひらにすっぽり入りそうな球形のそれは熱を帯び、相変わらず気配を放ち続けている。
 あの娘のものだろうか。
 場所と状況から推すに、娘のものと考えて妥当のように思われた。
 それから、夢の女のことといい、この水晶玉といい、藤吉郎の「姫」ではないが、あの娘、ただものではないかもしれぬと考えを巡らせた。
 橘はさらに辺りの地面に目を凝らした。
 こんなものを持ち歩くのであれば、他にも娘の持ち物ががあるやもしれぬ。
 すると、やはり娘が倒れていた草むら近くに、何か包みがあるのが目に入った。
 落とした勢いからか、半ば結び目が解けている。
 橘はさらにそちらに向かって近づいて行った。
 包みとなった布は、上等の絹らしく、肌触りが何ともいえなかった。布から仄かに香りたつ香気に、やはり普通の娘ではないかもしれぬとの思いを強くした。開きかけた結び目に中を見るかとも思ったが、こればかりは少しためらわれて、やめた。
 橘は玉と包みを膝に載せて、まだ何か他にないかと目を凝らして辺りを見回したが、それらしいものは他に見あたらなかった。
 腰をおろしたあたりの地面が、湿っているせいもあってことさら冷たく感じる。
 一つため息をつくと、藤吉郎の去った方角へと目を向けた。しかし、森の木立の暗がりがあるばかりで、誰の生きた気配も認められない。
「あやつ、私を忘れたりせぬだろうの。」
 寒さと、取り残された森の気配で、橘はぶるっと震えた。
 その時だった。
 橘はふいに気配にとらわれて、崖の向こうの空へと顔を向けた。
 崖の向こう――森の木立が途切れて、絶壁となったその向こうの中空に、何か気配を感じる。そして、気配の主を目で探した。――と、その曇天の中空はるか高い所を、ゆうゆうと、イヌワシの行くのが見える――いや、違う、あれは、イヌワシではあるまい、いや、姿は確かにそうだ、しかし、そう、あれは――
 橘はふと、ここから遠く北東の地にある大木村の、巫女姫のことを思い出した。風を操り気を読むという巫女姫――その巫女姫が使うという風の精霊、それが確かイヌワシの姿をしていると、誰か言わなかっただろうか。
 確かにあれは、命つきるものの姿ではない。
 巫女姫が使うそれかどうかはわからないが、それは生身の形あるものでないことは確かだった。
 そして巫女・橘の君は、その形なきものの姿を目で追いながら、正体のわからぬ不安に襲われた。
 あの、娘は何者か。
 今、この時から、何が起ころうとしているのか。
 橘は、雨天のこの中空を飛ぶはずもない――しかしゆうゆうとゆく、イヌワシの姿を目で追った。
 やがて遠く――見えなくなる。
 橘はまた、不安にかられて木立の奥へと顔を向けた。
 それでもまだ、迎えの者の姿はない。
 思わず彼女は木々に覆われた天を振り仰いだ。
 少しでも確実に、この声が届くように――
 ろくざよ、早く、帰れ――!
 今、奴はあの巨体の体で、どこを行くだろうか。
 この村へと向かっているだろうか。
 巫女の見上げた顔に、小雨を集めた雫が、木の間をくぐってきたのだろうか、ポツリ――額をはじいた。
 

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