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巫女姫物語

― 第2部 ―
 
 


 
 
(六)
 
 
 

 母親に置き去りにされた日――右足は動かず、周りは草むらで、ただ「おっかあ、おっかあ」と呼び続けていたところから覚えている。
 声を立てても誰もこなかった。
 やがて、疲れて、声を出す力もなくなると、眠るように土の上に横たわった。
 いつも空腹だったのに、その辛さがさらに増した。
 置き去りにされる直前、何日も続く下痢、高熱に悩まされ、熱がひいて目覚めると、足が動かなくなっていた。そして、確かその直前、それを癒すように、母親はいつもより多く橘に食べさせた。
 でも、それでも、空腹は満たされていなかった。
 橘はその時、母親がどんな顔をしていたか覚えていない。
 ただ、彼女はいつも、やせてつらそうだった。
 もしかしたらその時も、つらそうな顔をしていたのかもしれない。
 しかし橘は母の顔をはっきりとは覚えていなかった。
 横たわった草むらの中でさえずっと、母親の顔を思い浮かべていたのに、今となっては少しも思い出せない。
 そして、日も暮れかかる頃、雨が降り出したのだ。
 草むらの草と降り注ぐ雨を見上げながら、意識が遠くなるのを感じた。
 助けて――
 誰か助けて――
 おっかあ――
 そしたら、やってきたのだ。
 遠くなる意識の中で、男二人の太い腕に抱え上げられた。――その上から、女が――髪も豊かで艶ややかな女が、輿の上から見下ろしているのが見えた。
 それが蓮女だった。
 ――そこまで話をきいてから、信乃が言葉をはさんだ。
「お…お母上は、巫女さまを見失ったのではないのですか? 戻ってくるおつもりで。」
その言葉に、橘は静かに、しかし、ゆるぎのない表情で信乃をみつめ、
「捨てたのだ。」
と言い切った。
「でも、覚えておいででは」
「捨てたのだ。」
橘は信乃の言葉を切った。
 確かに、捨てたのだ。
 あの時は、そうとわからなかった。
 でも、今ならはっきりとわかる。
 母親は、あの時、自分を捨てたのだ。
 それを調べたわけでもなく、あえて調べようともしなかった。
 だからそれは勘でしかない。
 しかし、あの時、あの状況で、そして、何よりも確かな自分の勘で、間違いなくそうと断言できる。
 母親は、自分を捨てたのだ。
 橘は続けた。
「おふくろさま一門はその頃既に今の本拠地、慈眼寺に根をおろしておられての、次に気がついたときはその寺の宿坊に寝かされておったわ。」
 何故ここにいるのか、何故自分はそこで世話されているのか――不思議にかられて、橘の世話をする付き添いの連中を見たものだった。
 彼らはほとんど、必要以上のことは何も言わなかった。
 ただ「お前は蓮女様に助けられたのだよ」と、だけ。
 やがて起き上がれるようになり、その蓮女に面会がかなった。
 艶やかな美しい女は、寺の講堂の一室で橘の上座に座して、「そなた名は」と尋ねたのだ。
 答えなかった。
 女は意味ありげな視線を橘にそそぐと、もう一度「そなた名は、なんと?」
 そう問うので、横にいた付き添いの者が「これ、名を答えぬか」と急き立てた。
 それでも橘は答えなかった。
 信用ならない――ただ、それだけだった。
 堅く口を閉ざし、女をにらみつけていた橘に、蓮女は「ふむ、よいわ。」と言った。
「答えたくないのであろう。」
女は扇をひろげ、ゆるゆるとあおぎ始めた。しかし、視線は橘から少しも離れない。橘はどこか威厳のあるその女に半ばおびえながら、女を見続けた。
 女はそんな橘を見て、クククと目を細めて笑う。
「私は、そなたの助けよという声が、私にきこえたゆえ助けたのに、その恩人に対し、なんと無愛想なことよ。そんなに、睨まずともよいではないか。」
 それでも橘は態度を変えなかった。女はまた、意味ありげな視線を橘に送ると、ため息をついた。
「まあ、わらわに慣れるまでは、そうしているがよい。どうせ親に捨てられたのだ、行くところなどあるまい。せいぜい、精進して、そなた自らを助けたその力を磨き、わが一門に役立てるがよい。」
「みずからを、たすけた?」
 その時、橘は女に初めて口を開いた。
 橘の言葉に女は少し驚いた様子を見せたが、初めてその身にまとわりついた威厳を解くと、にっこりと笑って、
「そうよ、そなたがわらわに、『声にならぬ声』で呼びかけたゆえ、わらわはそなたを助けに参ったのよ。そなたはわらわと同じフシュクゆえの。」
その時は、その女が何を言っているのかはわからなかった。
 しかし、橘の心の声が蓮女に届き、それが、意識が遠ざかろうとする間際に花開いた彼女の力であることは、ずいぶん後になって理解したものだ。
 蓮女は続けた。
「名前を名乗らぬでは不便だの。皆が『橘の』と呼んでいるゆえ、『橘』とでも名のるがよい。」
「たちばな――の?」
「そうだ。橘の泊りへの道すがらにひろった子ゆえ、皆お前のことを『例の橘の』と呼んでおるのだ。名前がないと不便だからの、そう呼ぶこととしよう。」
 そうして蓮女はまたにっこりと笑い、扇でその身をゆるゆると扇ぎ始めた。
 ―――…
「ゆえにわらわは、橘の泊りという所とは縁もゆかりもないのに、『橘の君』と呼ばれるようになった。出自もわからぬいやしい身でありながら、『君』とまでつけられての。」
「まことの名はどうされました。」
「忘れたわ。」
その言葉に、信乃は橘の顔をじっとみつめた。
 忘れたのか、語りたくないのか。
 もはや、そこから先を問うことは、してはならぬことのように思われた。
 そのいきさつを語るのさえ、橘には辛いことなのかもしれない。
 それなのに何故いま、それを語るのか信乃には理解できなかった。しかしそれ故に、目の前の橘が、「巫女」ではなく、「人」に見える。
 橘は話を続けた。
「我らは、雇われ巫女なのだ。依頼されれば報酬次第でいずこなりへとも参る。わらわがこの地に参ったのも、稲賀どのがおふくろさまに依頼されたからにすぎぬ。」
 信乃はいいためらいながら、橘から視線をそらし、
「いずれの姫君かと、思いました。そのようなお姿をされているので。」
「つくろわねば敬われぬのでな、これは、わらわなりの『装束』だ。そなたらの祖先のように、都の貴族の出とはまるで違う。」
 橘はそこまで話すと、思い出したというように信乃の顔を見た。
「そうだ、これは藤吾どのに相談されたのだが、村長の一族はそなたの身内であるな。」
「はい。」
「稲賀殿の元におるが、そなたの消息を伝えたものか、どうか――。」
 信乃の頭に、長老の息子の嫁に入ったたきや、娘のみのたちの顔が浮かんだ。
 おそらく一族は、長老の家のものとともに稲賀の元にいる。
 彼らは、気にしていようか。自分の所在、姉の――
「藤吾どのは、ここに逗留してもかまわぬとおっしゃっている。村へはしばらく誰も入れぬことになっておるし、高階の軍勢が押し入った理由も判明しておらぬゆえ――。」
「稲賀どのの元にいかれた一族のものは、軍勢が押し入った理由はなんと――」
そこで、橘は信乃の顔をじっとみつめた。
「理由は判明しておらぬと、――そういうことだ。」
 信乃は一族のものの顔を思い浮かべ、それで稲賀の居城で一連のことについてどう報告したのかを理解した。
 信乃は橘に正面から改めて対座した。
「それで巫女さま、私、大木村に帰ろうと――」
 その言葉に、橘も信乃の顔をまじまじと見つめ、
「わらわは今、大木村へは誰も入れぬと言わなんだか? 兵がつめておって、立ち入りが許されておらぬと。」
「そうではありませぬ、ですから、わたくし」
「まさか」橘はとたんに、呆れた表情を満面に浮かべた。「それで風の精霊をみつめておったのか。」
「ええ、ですから、空から行けば誰にも止めだてされませぬ。姉は瀕死の傷をも癒す力をもっております、わたくしは、姉が、生きていると信じているのです。そして、その姉が、私を逃がすとき、幼いときに封じた巫女姫としての力を解いてくださいました。今一度」
 橘はク―――ッと吹き出した。
 必死と説明していた信乃は、思わず言葉を失って面食らった。しかしその信乃にかまう様子もなく、橘はアッハッハと大声を立てて笑い始めた。
「あ―――っ、そなたはほんに、箱入りで、育って、きたのだな。考えることが、生一本すぎて、わらわには、ついてゆけぬわ。」
それからまたアハハハハと笑い続けた。
 そこに、ふすまの向こうからあきの声が響いた。
「巫女さま、夕餉のお支度ができましたが、お持ちしてもよろしゅうございますか。」
あきのその声に、橘は半ば笑いながら、
「うん、うん、頼む。おう、そうよ。ここに、信乃どのもおるのでな、信乃どのの分もお願いできまいか。」
 ろうかの向こうから「承知いたしました。」という声がかえってくる。
 まだ笑いの治まらぬ顔で、橘は信乃に目をやった。
「飛んでいって、どうするのだ。また、一昼夜寝込むのか?」
橘の笑いに、信乃はあっ気にとられたまま答えなかった。
「やれやれ、自分の力が封じられておるのもわからぬか。そなたの力は、この村に嵐を呼ぶ気配だったゆえ、わらわがそなたの寝ている間に封じたわ。」
 はあっと息を吐き出すと、やっと笑いが治まったという様子で顔をきゅっとひきしめにかかった。それでもまだ何かおかしいのか、顔がどこか笑っている。
 橘は続けた。
「そなたの力はな、そなたが寝ている間にわらわが再び封じたわ。まだまだ御しきれぬ様子だったゆえ」
「しかし、姉は」
「姉御はもう大丈夫と言ったのであろう。なに、逃がすためにそう言ったのだ。まだまだ、そなたはその力、操れはせぬ。第一、使えたとて、一昼夜寝込むようでは話になるまい。」
信乃は何か言おうとして、口をもごもごとさせたが、それきり黙ってしまった。
「信乃よ、よくきけ。不思議の力とは、ただあるからといって誰でも使いこなせるものではない。それは、ただ人にある力と同じ、磨かねば光らぬ珠よ。無理に使えばそれだけの報いがある。そなたでいえば、一昼夜寝込んだそれのこと。能力を備えていても、使いこなすだけの体力、気力を備えていなければ、なかなか、思い通りにはならぬわ。」
 橘は手元に視線を落とし、それから、さきほど横に回した文机の上においた、蛇穴からの文を手にとった。
「大木村に帰りたいかや?」
信乃は答えず、橘の顔をみつめた。
「さきほどの蛇穴の兄者からの文には、こうも記してあった。大木村の社殿と神がどのようであられるか、この目で確認したい、ついては、わらわにもそれに同道願いたいというのよ。」
「それは、どういう…」
「大木村から一番近い我らの一門は、諏訪社にいる兄者よ。それで、血で汚された神殿の様子を確かめに行こうというのだが、何かあったときのために、わらわにも同道願いたいというのだ、入村の許可は諏訪社の方でとるゆえ、お願いできまいかと。――そなたも、行くか?」
信乃は思わず目を見開いて、その目を輝かせた。
 橘は続ける。
「村へ入ったとて、長居はできぬ。特に、そなたのような身の上のものはの。滞在したとして半日、それでもよければの話だ。もちろん、道のりは、歩いて行くぞ。」
「それで、その短い時で、姉は探せましょうや。」
「さて…」言って、橘はため息をついた。
「姉御の居場所が、先にわかれば一番よいのだな。私も、何度かこの力で人捜しをしたことはある。死者なら確実にわかる。生者なら、わかるときもあれば、わからぬときもある。」
「捜せるのですか?」
「完全に、ではない。」
「どうやれば」
「そうさの、姉御の身につけていたものでもあれば」
途端に、信乃は姉から手渡された布包みを思い出した。
 外の包みの布は、確かに姉のものだ。
 信乃は立ち上がった。
「もってまいります。」
「今か。」
「はい。」
 部屋の入り口へと急いで歩き、出ようとすると、膳を抱えたあきと出くわした。そのまま、信乃は大急ぎで廊下をゆくと、自分が昼横になっていた客間へと足を運んだ。
 明かりも灯っていない部屋の中へ飛び込むと、そのまま暗闇に勘で包みを探しあて、布を解いて握り締めると、急いで廊下を橘の元へと向かった。
 部屋へ入ると、既に夕餉の膳が並べられている。
 あきが、部屋を出て行くところだった。
「巫女さま」
はやる気持ちで橘の元に歩みよると、橘の前で膝をつき、それを橘へと向けた。
「巫女さま、お願いいたします。」
橘は信乃の顔をみあげた。
 そしてもう一度、
「完全ではないぞ。見誤ることもある。時に、依頼するものの希望を映し、魂の強い死者は」
「でも、試してみるだけでも」
信乃のすがるようなもの言いに、橘は少しためらった。そして、懐から大きな数珠を取り出した。それを両の手に渡らせてかけると、一度ねじり、信乃にその両手を差し出した。
 黙って信乃は、布をその手に載せる。
 手に載せられた布を両手ではさむと、橘はそれを両手の間に挟んだまま合掌し、目を閉じて集中し始めた。
 息をのんで、信乃はその姿をみつめる。
 思わず、自分自身も手をあわせた。
 やがて、橘は両手に挟んだ布を額につけると、頭を重く沈めた。
 ややあって、重そうに橘が頭をもたげた。
「村のはずれ、山の中腹に、小さな小屋がないか。」と言葉を発した。「猟師小屋のような小屋だ。入るとすぐに土間があり、小屋の中央に囲炉裏があって」
「ございます。」と信乃は橘の言葉を切った。
 橘は目をあけて、信乃の顔を見上げた。すると、
「そなたも見るがよい、これは、そなたの姉か。」
そういいながら、橘は布を持ったままの手で信乃の手を握り締めた。
 すると、その脳裏に、人の姿が浮かびあがる。
 笑っている――笑顔の――それは――
 懐かしい姿に、信乃の目から涙がこぼれた。
 次から次へと、あふれてくる。
 それは、夕餉の支度をする姿か、忙しそうに立ち働きながら、誰かに話しかける。幸せそうな――近年、めったと見せなかった、あの、笑顔で――
 ねえさま―――!
 
 
 
 橘の君が諏訪社の社主蛇穴の元に文をつかわしたのは、その晩遅くだった。事は急を要するので、三日後の巳の刻(※午前十時)に大木村の兵の詰め所で、と、日時を指定して、六佐に文を遣わせた。
 翌午前、蛇穴よりの返事により互いに待ち合わせることが決定し、橘は由良藤吾に、信乃を連れて大木村へ行き、蛇穴と落ち合う旨を説明した。
 信乃はあくまでも村や社殿の案内ということで、もはや尋常では考えがたい「生きている巫女探しのために」ということは、藤吾には伏せた。
「大木村へ。信乃どのを連れて大事ありますまいか。いや、あちらの村には兵士が満ちておりますゆえ、大事ないとは存じますが。」
 そう、藤吾は言って、やや考える素振りをみせた。
 それから、一行に、駐屯所の兵一人と、藤吉郎を護衛につける旨を申し出た。
「藤吉郎とはいえ、あれは紛れもなく我が息子。つれておりますれば、役に立ちましょう。どうぞお連れください。」
 それで、橘、信乃、六佐、兵一人に、藤吉郎の五名で大木村へ向かうこととなった。
 昼すぎ、橘の居室で兵を抜いた四名が集まり、藤吉郎が地図を持参して、橘たちの前でそれを広げた。
 地図は、稲賀領国を描いたものだった。
 藤吉郎は三名の前で、その地図の一点に指を置いた。
「ここが、玉来村。」
それから地図の斜め上の方にすすすと指をずらして、
「ここが、大木村。」
「ふむ、それで。」
橘が続きを促した。
「道のりは、およそこうです。」
藤吉郎は地図の上で村への道のりを指でたどりながら示した。
「一日の行程で進むと、あちらに着くのが日暮れてから、下手をすると夜中にもなりかねませぬ。兵の駐屯する立ち入りの禁じられた場所で、その夜の宿泊が許されるとは思えませぬし、かといって巳の刻の到着にあわせての夜行は途中、この」といいつつ、地図上の一点に指をとめた「山の峠を越えねばならぬため、何かと危険でしょう。そこで、一日早く出て手前の村で宿を借り、そこから翌朝出立するのが適当かと。」
地図をみつめていた橘が、顔をあげて、
「ふむ、そうだな。適当な宿はあるだろうか。」
「それは、心配いりませぬ。同道する兵はその村出身の者の中から選びます。」
「ふん、なら、それでよかろう。明朝出立ということで。」
それで、橘はおひらきの風を装ったが、藤吉郎は正した姿勢のまま、信乃の方へ顔を向けた。
「信乃どの。」
「はい。」
「馬には乗れますか。」
「え、ええ、少しなら。でも、早駆けせよといわれると」
「いえ、乗せてお連れするだけで、信乃どのが操る必要はございませぬ。」
そういうと、橘が横から、
「なんだ、馬で行くのか。わらわは馬には乗れぬぞ。」
「いえ、馬に乗せてお連れするだけで…何かあったときには、役に立ちまする。」
藤吉郎がそういうと、橘はしばらく考えるように視線をさげた。
 万が一、盗賊などにでくわしたとき、――いや、万が一、残った高階の軍にでくわしたとき、確かに女連れで逃げるには、素足では逃げ切れまい。
「ふむ。ま、よいわ。わらわは六佐に抱かれてゆくゆえ。六佐は、馬より早いからな。」
そういいながら、橘は六佐に顔を向けた。
 そんな馬鹿なと思いながら信乃が六佐を眺めていると、藤吉郎が大きな声で、
「何も危害が及ばぬよう、この藤吉郎、みなさまを精一杯お守りいたしますゆえ」
とハキハキと告げたが、それに橘が、
「よい、藤吾どのは安全のためそなたらをつけるといわれたが、本来六佐一人でも十分しのげる。それに、いくら己の身にかかわるとはいえ、わらわにも危険の予知ぐらいはできるわ。」
「いえ、それでも。」
「まあよい。」
 それで、藤吉郎のはりきりをよそに、橘の頭の中では既に明日のしたくにかかる算段にはいったようだった。
 その二人の様子を信乃が不安そうに見ていると、
「信乃どの。」
と藤吉郎がよく通るハキハキとした声で、声をかけてきた。
「心配はご無用。」
「はい。」
 藤吉郎が何をはりきっているのかはわからないが、そのはりきった少年の姿に、信乃は笑いをこみあげるのを禁じえなかった。笑っては失礼かとこらえたが、この一つ上の少年には、大事を任されたような気持ちなのかもしれない。
 年上ながら、どこかかわゆらしい人だと信乃は思った。
 それで、藤吉郎のはりきりを満たそうと、
「ところで藤吉郎さま、おききしてもよろしいでしょうか。」
信乃が尋ねた。
「はい。」
「下の駐屯所とこの間からおききしておりますが、この家の下にその駐屯所がありますのでしょうか。」
信乃の言葉に「あ」と藤吉郎は小さく声を上げた。
 それから、いつもの彼に戻って、
「案内いたしましょうか。」
と信乃へと視線を向けた。
 やや丸い大きな目は、まっすぐで美しい目だと信乃は思った。光を帯びて、どこかキラキラと、まばゆい瞳だった。
 
 
 翌朝、橘の一向は大木村へ向けて出立した。
 この時、この村へ来て信乃は初めて、由良の館の敷地より外へ――、由良の館の下にある、要塞のような兵の駐屯所の外へと出て行った。
 昨日、藤吉郎に誘われるままに「駐屯所」なる場所へと向かった。
 大木村近くにあるような小さいものを思い浮かべていたので、それはあまりにも意外だった。
 由良の館から正面の坂道をくだっていくと、すぐに館の土地の高さにそって両脇に板塀が現れ、正面に大きな背の高い板の門が現れる。
 その門へと降りていくと、右手に由良の館への通行を仕切る兵の詰め所があった。
 兵は、藤吉郎に連れられた信乃を、珍しそうにみつめた。
「大事ないか。」と藤吉郎に問われ、兵は、「はっ。」と言って気をつけの姿勢をとった。
 藤吉郎が、
「数日前、大木村から難を逃れて我が村へとやってきた、信乃どのだ。兵の駐屯所をお見せしてもかまわないだろうか。」
 兵は表情を和らげた。二人の前へ歩み出すと、その兵の詰め所の正面――由良の館から下りて、向かって左にある大きな板の扉を、こんこんと叩くと、門についた小窓が中から開いて、また別の兵の顔が現れた。
「お客に、駐屯所をお見せしたいそうだ。」
そういうと、小窓はしまり、大きな扉が中から開け放たれた。
 招じ入れられた中は巨大で、由良の館のある丘陵に沿って二階建ての宿舎がめぐらされていた。その手前には広場をとって外側に背の高い板塀がめぐらされており、丘陵の影になるせいか、板塀の高さのせいか、中は少し暗い。
 その広さに圧倒されながら入っていくと、信乃は一斉に視線が向けられるのを感じた。
 藤吉郎が何か近くにいる兵に告げる。その兵は、宿舎に向かって何事か叫んだ。
 すると、中からやせて骨ばった体つきの少年兵が一人、小走りでやってきた。
「くま!」
藤吉郎が手を挙げると、相手が「よう!」と手を挙げ返してきた。少年兵は二人の前で立ち止まりると、藤吉郎は信乃の方にちらりと視線を向け、
「明日同道させる予定の隈吉です。大木村の二つ手前の村の出で。」
そういわれて、信乃は慌てて頭を下げた。
「あ、よろしくお願いいたします。」
 信乃に丁寧に頭をさげられて、隈吉は少し及び腰になったが、すぐに姿勢を正すと、
「こちらこそよろしくお願いいたします。――藤吉郎よりは、頼りになります。どう」
と言って頭を下げたところで、藤吉郎がゴチンとげんこつで頭を叩いた。
 隈吉は叩かれた頭をさすりながら頭をもたげ、
「いってぇなあ。本当のことだろうが。可愛い子の前だからって、かっこつけ」
今度は藤吉郎に口をはがいじめにされた。
「信乃どの、お気になさらず。」そういって藤吉郎は笑い、口をふさいだ隈吉と無言で、目で何事か言い交わした。
 それから隈吉をおさえたその手を離すと、
「ここは上の館の丘陵沿いを削って建物を設け、その手前を板塀で囲ってあります。板塀には一応のぞき穴とやぐらが二ヶ所あり、今きた入り口と反対の」そういいながら藤吉郎は指差した。「あちら側に峠へと続く道の監視台と通行所が設置してあります。」
 信乃は言われるままに指差されたほうをみつめ、「立派なのですね。」と思わず声を上げた。
「稲賀領地未申(ひつじさる)の守りですからな。」
と横から隈吉が口を挟んだ。
 信乃は昨日の橘の言葉を思い出していた。
 ――この土地は稲賀の領地の未申の位置にある。佐伯との国境に面し、鬼門の守りとしても要衝の地としてもある土地である。ゆえに警護も固く、他国のものなど侵入する余地は――…
 世界は広く大きいのだ、と、今まで大木村ばかりの生活であった自分を顧みた。
 それでも、その大木村へ向かおうという今、――由良の館の要塞のような砦――駐屯所の門を抜け、藤吉郎に馬の上に乗せられた今、昨日立派だと思った駐屯所も、門を出て振り返れば、また遠く小さくなっていく。
 しかし、やはり外から見ても立派な駐屯所であり、その上に見えるか見えないかという由良の館も立派なものであった。
 今見ると駐屯所の位置は、由良の館がある敷地の丑寅の方角を基点として板塀を張り巡らせており、道理で神社からは影になって見えず、気付かなかったのだと納得した。
 駐屯所の板塀の向こう、由良の館のさらに後ろに、大きな山がそびえている。
 あれは、なんという山なのだろう。
 形のいい立派な山だ。
 由良の館の丘陵を降りて、平地の中に集落がある、その村の中を馬に乗せられて行きながら、信乃は思った。
「夜、逃げてこられたときにはお気づきにならなかったかもしれませぬが、なかなか美しい景色でしょう。」
ふり返って山をみる信乃に、馬をひく藤吉郎が下から尋ねた。
 夜、逃げてきた、といわれて、信乃はドキリとした。斜め前を六佐に抱かれていく橘をちらと見て、なんとか「ええ」とだけ答えると、話がそちらへと続かぬように言葉を探し、
「あの後ろの大きなお山はなんと言いますか。」
と尋ねた。
「あの山ですか。あの山はショウギョクザンといいます。」
「しょうぎょくざん? どんな字を書きますの。」
「玉を生む山と書いて、生玉山。昔七宝の一つ、玻璃(はり)が産出されたのに由来するそうです。」
「昔? 今は出ないのですか?」
「そうですね。昔――というか、昔本当に掘り出されていたのかも、よくわからないぐらいで。」
 藤吉郎は歩きながら山を振り返った。それから馬上の信乃を振り仰ぐと、にっこりと笑った。
「帰ったら、村を案内しますよ。お楽しみになさってください。」
 藤吉郎に、「帰ったら」と言われて、本当にまたここに戻ってくるのだろうかと思った。
 自分は今、自分のうまれた地に帰ろうというのではないのか。
 自分の故郷なのに立ち入りが禁じられ、こうして伴われて、わずかに許された時間を目指して進んで行く。
 なんとも奇妙な心地に思われてならなかった。
 まるで、長の旅路に出たような、行く方を失いさまよう人のような――。
 また、あの歌が頭の中に甦る。
 由良の門を渡る舟人舵を絶え、行方も知らぬ――
 ねえさま――。
 信乃は心の中で両手をあわせた。
 ねえさま、どうかご無事で――
 
 
 由良家一の家臣が、下男とともに藤吾のところへ書状を持ち来たったのは、その日の午後だった。お館からの連絡文で、大木村の仔細とともに、巫女のことにも触れられていた。
 自室で執務を行っていた藤吾は、その文を読み進めるうちに、「ムッ」と声を上げた。「ムムム」とうならせるので、横から家臣が不審に思い、「いかがいたしました。」と声をかけると、
「一足遅かったな。」
独り言のようにつぶやいた。
「何が、で、ございましょう。何が書いてございますのか。」と問いかけると、
「大木村の巫女どのの消息、姿が見えぬということだったが」
「見つかりましたか。」
藤吾は家臣に視線を向けた。
「お館さまが、村に出入りさせていた忍びの者の報告によると、その者が本殿に横たわるご遺体を発見し、既にご一族の墓へ埋葬したと――。」
 

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