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巫女姫物語

― 第4部 ―
 
 


 
 
(一)
 
 
 
 

由良のとを渡る舟人かぢを絶え行く方も知らぬ恋の道かな
曾根好忠
(『百人一首』第四十六、『新古今和歌集』恋一所収)
 
 
 
 

 春だった。
 桜も散り始めるころだったかと思う。
 両親につれられて高野のばばさまのところへきて、やっと今日は義見朔次郎をつかまえて稽古できるのだと思った。やってきてからずっと朔次郎を探したが、出迎えの中に朔次郎の姿は見当たらない。
 伯父に尋ねると道場ではないかといわれ、行ってみたが見当たらず、家まで行ったが留守で、お館へ戻る途中でふいに朔次郎にでくわした。
「朔次郎兄!」
「これはよいところに、藤吉郎さま。」
朔次郎はいつものように、突然のことにもさして揺らぐ様子もなく、藤吉郎に対した。
「朔次郎兄、今日は朔次郎兄に剣のお相手をお願いいたしたく」
そういうと朔次郎はこちらへ手の平を向け、藤吉郎の言葉を切った。
「藤吉郎さま、朔次郎『兄』などという呼び方は、やめていただきたい。いくら義見とはいえこちらは分家の身、身分もこちらのほうが低く、そのような呼ばれ方をされる覚えは」
「しかし、この領地の少年たちはみな、そなたのことを『兄』とつけて呼ぶ。私も剣のお相手を願いたく」
「そうだ、藤吉郎さま、それで思い出した。俺は直衛を探しているのだ。あの男、来ているのでしょう?」
 そう問われて、藤吉郎はふと真顔になった。
「藤吉郎さま。」
「直衛どのを探しても無駄だ、朔次郎兄。」
「何ゆえに。今日は来ていないのか。先程一行の中に姿を見たような。」
藤吉郎は朔次郎の顔を見上げた。四つ年上のこの少年は、身分が低いといいながら、どこかぞんざいで、生意気なところがある。才気走った、――でもいつも何かに急かされているような、落ち着きのなさを感じる少年だった。
「直衛どのは、人に会いに行ったのだ。」
「人とは?」
そう朔次郎に問われて、藤吉郎はしばし言葉を言いためらった。言いためらっていると、朔次郎はふふふと笑い、
「会いに行ったのは、大方女人だろう。奴が『桔梗の君』と呼んでいる。」
朔次郎の言葉に藤吉郎はぎょっとした。
「知っているならば」
「藤吉郎さまはご存じか――いや、藤吉郎さま、直衛のためを思うなら、奴に教えてやるがよい。奴が人目をしのんであっている『桔梗の君』は、お館さまの姫、――あなたの又従姉にあたられる、まゆみさまだ。」
 その時うかべた朔次郎の不敵な笑みとともに、直衛とまゆみの二人が心に浮かび、大きな大きな驚きがわきおこったのを、今も覚えている。
 春の陽気におおわれた、花の舞い散る午後であった。あの頃は、まだ、その半年後、高野に戦乱が押し寄せようなどとは、予想だにもせず――
 
 
 藤吉郎は朔次郎のことが頭をよぎる中、信乃のとりだした懐剣をおさえこもうと信乃へと手を伸ばした。
 どう見ても――そう、どう見ても、信乃は両手で剣を握りしめ、自身を傷つけようとしているようにしか見えなかった。
 左手で信乃の右腕をつかむと、力をこめて胸元から両腕をひき離した。
 引き離した両の手を、藤吉郎は両手でつかむ。
 信乃が抗う。
 相手が女ゆえ力の加減が難しい。
「信乃どの! 何をなさる! この刀を…」
一喝しかけたところで、信乃の手がふとゆるんだ。ふいに藤吉郎も力をゆるめると、今度はふりほどいた信乃の刀が、藤吉郎めがけてやってくる。
「信乃どの――っ!」
 
 
 巫女橘は、静かに目を閉じ、対面した直衛が話すのをきいていた。
 やがて話し終わると、目をあけ、ゆっくりと眼差しをあげた。
 なぜか橘の目に、怒気がこもっている。
 言葉をついだ。
「つまり、そなたがいうには、信乃の姉である大木村の巫女には、稲賀殿が見張らねばならぬような尋常ならぬ力があり、それは秘密とされていた。ところがなぜか、その秘密が高階方に漏れ、高階はその巫女を手に入れることをねらった、と。そして、なぜそれが小坂に命じられたかというと、その秘密を知った本人が小坂で、そもそも小坂自身がこちらの領地に精通している。もしかしたら」
「そうです、奴は、元はこの領地の側の人間ではないかということです。しかも大木村に何か関わりがあったやもしれぬ、と。しかし橘の君、私が今問題にしているのはそこではなく」
「腹立たしやな。」
「は?」
「腹立たしいと、言ったのだ。」
 そういうと、橘は強い眼差しで直衛を見上げた。
「人として悟りでも開いておるつもりか、来栖。そこまで力がありながら、なぜにいつまでもこの村にくすぶり続けておるのだ!」
 橘の体には怒りが満ちている。
 直衛は何か悪いことでも言ったかと、しばらく橘をみつめていたが、
「いえ、橘の君、私がおうかがいしたいのは」
 途端に、遠く奥の方から何か大きな声がして、ガタンバタンという音に続き、女の悲鳴がきこえてきた。
 悲鳴の主はお勝手にいた あき らしく、そのあと慌ただしい声で あき と藤吉郎の声がきこえてくる。何をしゃべっているかはわからないが、反射的に直衛は橘に頭を下げると腰をあげ、部屋を出て奥に向かってかけだしていた。
 奥に向かうと、その勝手口のすぐ正面に信乃が立っているのが見える。続いて戸口を出ると右手に、藤吉郎が左腕を抑えて血を流し、さらにその藤吉郎の前にはあきが立っていた。
 直衛はそのあきに近づくと、
「玄水どのを呼べ。」
そういって藤吉郎の腕をつかみ、傷を見た。即座に自身の袖の中から小袖をひいて口にくわえ、ひき破る。ところがあきが動揺して動く気配がないので、
「何をしている! 早く行け!」
そう命じると、急いであきは「は、はい」と答えて、館の前の広場の方へ向かって駆け出した。
 直衛は手際よく藤吉郎の腕に布を強く巻きつけて血止めをすると、 信乃の方を見た。
 泣き顔に、血に染まった懐剣を持ったまま立っている。
 直衛は信乃に近づき、信乃の手から力強く懐剣をとりあげると、
「どういうことです。」
そう信乃に尋ねた。途端に藤吉郎が、
「直衛どの、信乃どののせいではない! よけられなかった私が」
そう言うのに直衛が、
「藤吉郎は黙っていよ! 信乃どの、これはどういうことです。」
「やれ、そこで騒ぎを起こすな。」
お勝手口から橘のはりのある声がとんで、直衛はふと我に返った。振り向くと、六佐に抱えられた橘が、そこに立っている。
「ひとまずは、我の部屋へ。どれ、藤吉郎、大事ないか。」
 橘がそう声をかけると、藤吉郎は傷口辺りを手で押さえたままうなずいた。
「では、参ろうぞ。来栖どの、信乃をつれてきておくれ。」
そう言って、橘は六佐とともに早々に中へ入ってしまった。
 仕方なく、三人がそのあとに続いたが、直衛が見ると、信乃はまだ茫然とした顔をしている。
 涙が頬をつたって、やむ気配はなかった。
 
 
 部屋へ戻ると橘が、部屋の中に布を広げさせ、その上に藤吉郎を座らせて向かい合わせで腰を下ろした。先程直衛が巻いた布をほどき、応急の手当てを始める。玄水が来るまでの仮の処置と見えた。
 六佐が助手になり、六佐は橘に言われるがままに手水、布、酒を準備して手渡していく。
 手当てをほどこしながら、橘は信乃に尋ねた。
「原因はなんだ。」
 尋ねられた信乃は、涙に汚れた顔で橘を見ている。うつむき、また泣き出しそうな顔をしたので、思わず藤吉郎が、
「橘の君、信乃どのは、悪くございません。甘くみて油断した私が悪いのです。ですから、」
そういいかけると、橘は口に酒を含み、藤吉郎の傷口に思い切りそれをふきかけた。思わず「ぎやあ」と藤吉郎は叫び、そのまま言葉を継げなくなった。
「原因はなんだ。」
橘はもう一度信乃に問うた。
 泣きながら信乃が、
「生きてはならぬと――」
一同の動きがとまった。
「何?」と橘が問い返す。
「生きてはならぬと――白い女が申すのです。生きてはならぬと、いえ、――私は――」
信乃の目からまた、はらはらと涙がこぼれた。
 橘は信乃の言葉に、思わず直衛と顔を見合わせた。 それからもう一度信乃を見ると、
「やれ、どうやらずいぶん混乱しておるようだ。」
そう言った。
 橘が藤吉郎の腕の血をぬぐっていると、外から「橘の君、藤吉郎さまはこちらでございましょうか」と黒田玄水の声がかかった。橘が「入りなさい。」というと、道具箱を持った玄水とあきの顔がのぞいた。
 玄水が部屋に入ると、橘はあきに「何か暖かい飲み物を頼めまいか」と頼んだ。そう言われるとあきは頭を下げ、戸を閉めて行きかけたが、途端に橘はあきを呼び止め、
「藤吾どのは、館の中におられるか?」
と問うた。あきが、修練場で他村の首領の方々とうちあわせとかで、というので、
「藤吾どのには私が報告するゆえ、それまでは、このことは藤吾どの含め、誰にも言うてはならぬ。」
そう口止めをした。
 既に治療に入った玄水に、橘は、
「大事はなかろうか。」
と尋ねた。
「傷は浅うございます。処置すればさほど完治に時間はかかりますまい。」
そう続けた。そして顔をあげ、
「相変わらず適切なご処置でございますな。簡単な処置なら、私など要りませぬ。」
と、橘に顔を向けて話した。
「我も昔は戦場で、あね様方に交じって治療もしたゆえ」
そう言って、橘はにっこり笑った。
 玄水は手際よく、血止めの薬を処方し、きっちりと布を当てた。それから入れ替えられた桶の水で手を洗い、道具を片づけた。
 一歩腰をひき、
「化膿止めと熱さましの飲み薬を後で届けさせまする。」
そう言って床に手をつき、頭を下げた。
 部屋を退出する間際に橘は玄水を呼び止めたが、
「わかっております。他言いたしませぬゆえ。」
と、橘が言葉を発する前にそう言った。
 橘が得心したような様子を見せたので、玄水は、再び頭を下げ、部屋を出て行った。
 橘はその場に正しく坐した藤吉郎の顔を見上げ、
「傷が利き腕ではなく、浅いのが幸いであった。」
その言葉に、藤吉郎はその姿勢のまま頭を下げた。
「したが、そなたの失態ゆえの傷ではなかろう。」
そこで信乃に眼差しを向けた。
「何があった。」
 信乃の目からは涙は消えていたが、頬が涙で薄汚れている。膝の上に置いた手をふるわせながら床につけ、言葉を発しようとした途端、藤吉郎が、
「信乃どのが、気になることを申されました。小坂靭実は、元は高野の、義見――朔次郎であったと。」
撃たれたように、直衛が顔をあげた。
 それから、信乃へと顔を向け、藤吉郎へと顔を向けると、
「朔次郎?」
言ってまた、信乃へと顔を向けた。
「信乃どの。」
直衛は信乃に向かって床に手をつき、のり出して信乃に尋ねた。
「信乃どの、それは、まことのことか――朔次郎――小坂靭実が、義見、朔次郎――と?」
直衛が問うのに、信乃はうつむいたままうなずいた。
 それで、その信乃と直衛を見ながら、橘が、
「やはりそなたら、義見朔次郎とは、既知の間柄であったか。」
そう言う橘に、また直衛は信じられないと言った顔で、
「橘の君も、橘の君もご存じであられたか――それをなぜ、今まで内密に――」
「稲賀どのには報告してある。広まっては領国の戦意喪失にならぬと限らぬゆえ、黙っておった。ましてここは」
「お静さまのおじい様が、高野の義見家だからでございますか――藤吉郎や、丙吾さまと血縁になる――それで」
「いらぬ誤解や混乱を招きかねぬのでな。」
「いらぬ――どころ、では、ございませぬ。義見の血縁のものが、まさか敵方の将などと――いや、何かの、何かの間違いではございますまいか――朔次郎は五年前の戦のあと、身内のものどもと高野を逃れ、そののちまもなく徒党を組んでお館さまを襲ったがため、追われる身となったはずでございます。結局はみつからなかったものの、領国内の潜伏先も、国境いの兵の検閲にもとまらず、冬の峠を越えるのも無理であったろうということで、みな、死んだのであろうと」
直衛が語るのに、橘が言葉をつづけた。
「そうだな、ところが、その冬の峠を、死ぬのを覚悟で越えようとしたのだ。それでも峠には兵がいる。ゆえになせず、峠を避けて山越えを試みた。しかし慣れぬ冬山で獣に襲われ、それを助けたのが――」
「誰でございます。まさか――」
直衛は信乃の方へと視線を向けた。橘はその直衛を見ながら、
「そこにいる信乃の姉君――大木村の巫女、小夜どのだ。」
橘の言葉に、信乃のうつむいた目からまた、はたはたと涙がこぼれ落ちた。
 橘は続ける。
「いいか、来栖、よくきけ。先程のそなたの問いの答えを話してやろうほどに。ただしそなたの頭なら、これから話すことが他言ならぬことも、容易に察せよう。つまり、こういうことだ。朔次郎は信乃の姉君に助けられた。しかし信乃の姉君小夜は瀕死の重傷を負ったその旅の男を見て、なにやら事情のあるものということはすぐに勘付いた。小夜は村はずれの猟師小屋にその男を運びこみ、看護した。命をとりとめた朔次郎は、その小夜と恋に落ちる。自身は追われる身、また大木村の巫女はただ人との婚姻は許されぬゆえ、二人はかけおちしようと試みた。しかし、村人にみつかり為せず、朔次郎は国境いの向こうへと捨てられた。五年経って」
「お待ちください、橘の君。」
藤吉郎がそこで言葉を切った。
「いくら傷を負ってはいても、義見朔次郎は罪人ではございませぬか。村人は、そこでお館につきだすのが筋というもの」
 橘は藤吉郎を見、それからすぐにまた視線を正面へと戻すと、
「大木村の巫女姫小夜は、特別な巫祝であった――村にとっても特別な巫祝であったゆえ、その道をはずれて恋うた男を、殺すわけにも、突き出すわけにもいかなんだと――先日たきどのにお聞きしたときは、そう言うておられた。男を殺すより、その時の小夜どのの心が死んでしまうことの方が、村にとっては大事であったと。」
 それでも、突き出すべきではないのかと藤吉郎は思った。まして、そこで生かしたばかりに――そう、考えていると、直衛が横から、「橘の君」と口をはさんだ。
「やはりそれは、人違いではありますまいか。」
直衛の言葉に、橘が疑問の色を浮かべてその顔を見た。直衛は言いためらうように少し頭をかしげると、
「人違いでなくば、小夜どのは騙されておったのでは――でなければ」
「なんだ、何か問題でもあるのか。」
「我らの知っている、義見朔次郎という男は、才気走って生意気で、堅物で、とても誰ぞと――恋に落ちるような男ではありませぬ。まして手に手をとって女にかけおちさせるなどとは、とても――」
 直衛はそのまま、唇をかんだ。
 そうだ、あの日、朔次郎は直衛をつかまえてこう言ったのだ。いつものぞんざいな、あの、どこか偉そうな顔で。
――お前ほどの男が、女なぞにうつつを抜かすなどと、その気持ちが少しもわからぬわ。恋なぞいつでもできよう。今は、少しでも早く出世するために、その道に精を出したらどうなのだ――
「確かに、堅物には間違いございませぬ。一本気で偉そうで――そういう気質は――」
思わぬ信乃の言葉に、直衛ははっと我に返った。
 信乃はつづけて言う。
「つい先日の戦の折に、大木村に再び戦の傷を負って逃げ入り、それを助けたのも姉でございます。殺せばよいものを殺せず、あの此度の事態を招いたのも、姉――自身でございます。」
 信乃が訴えかけるように話しかけるが、直衛はまだ信じられぬという顔をしている。
 その直衛に橘は、
「何、時も移れば人の心も変わろうて――そなたらの知っている義見とはすこぅし感じが違うても、十五やそこらの堅物が、重傷で女を欺けたとも思えぬ。」
 直衛は信乃をみつめた。
 信乃がこう語るということは、信乃も「朔次郎」に会っているのだ。
 「朔次郎」にも会っているし、「小坂靭実」にも会っている。
 姉とのいきさつも、すべて承知しているのだ。
 かつての恋人であるにもかかわず、命を二度まで助けられたのにもかかわらず、高階の命ずるがままに、村に攻め入り、姉小夜を斬った――。
「だから、信乃どのは、姉を斬った仇として、朔次郎の血縁である藤吉郎を討とうとなされたのか。」
直衛の言葉に、反対側から藤吉郎が、「違います、直衛どの。」と声をかけた。
「信乃どのは、自身で自身を斬ろうとなされた。私はそれを止めに入って、誤って斬られただけにございます。」
それに直衛と橘が顔を向けた。二人そろって、あんぐりと口を開けている。
「なんと」
二人そろって呆れた顔で言った。さらに、
「それはまことか。」
とまたぞろ声がそろった。藤吉郎が照れくさそうにうんとうなずくので、
「なさけない。」と強く言い切ったあと、「そなたそのようで本当に戦に出られる気か」「止めに入って斬られるなどと、油断の塊ではないか」と口ぐちに言いあった。
 ところが橘はそこではたと気がついて、
「まて、来栖。」
と直衛に声をかけ、直衛の方を向いた。
「義見朔次郎と藤吉郎は、血縁ではない。」
 藤吉郎と直衛の動きがぴたりと止まった。それから直衛が真顔で、
「橘の君、お言葉ですが、朔次郎の義見とお静どのの母上の実家義見は、共に剣豪で知られた同じ義見の家に間違いございませぬ。遠縁ではございますが」
「だから、朔次郎本人は、その義見の家の生まれではないと言うておるのだ。元は」
そこで部屋の外からあきが、「お話し中失礼いたします。橘の君、お茶をお持ちいたしました。いかがいたしましょうか。」と声をかけた。
 それではたと我に返った一同は、言葉をつぐんだ。橘が、「どれ、入るがよい。頼む。」と声をかけると、盆に茶器を抱えたあきが、戸を開けて部屋に入ってきた。
 皆の前に一つずつ配していくと、「失礼いたします。」と言って、また頭を下げて出て行った。
 橘は信乃に目を向けると、
「少し飲んで心を落ち着けるがよい。」
そう言葉をかけた。
 一同が茶を口に運んだ。
 橘がその茶碗を手に抱え、茶碗から伝わるぬくもりを感じながら話を続けた。
「義見朔次郎には母と兄、叔父がいたろう。そもそもその母が、実家に帰って朔次郎らにも義見姓を名乗らせたのだ。したがその母と兄らと、朔次郎は血のつながりはなく、その母とは実は朔次郎の乳母にすぎぬ。義見朔次郎とは、二十年前に稲賀どのに滅ぼされた結城家家臣、塚本右近の孫にあたる。義見とは、血のつながりなどは全くない。」
 橘の言葉に藤吉郎が、
「しかし橘の君、我らでさえ親族と思うておったもの、まさかそのようなことは――」
「我ら一門の調査力を甘くみるなよ、藤吉郎。朔次郎の母がかつては結城家家臣塚本右近につかえた家のものであることは、とうに調べがついておる。朔次郎の母は朔次郎の兄を出産したあと子がなかった。したが、塚本右近の家系図にはその年男の子が一人生まれておる。この子の名は討ち死にした死者の中に、実母もろともに入ってはおらぬ。」
「記載落ちでは」
「藤吉郎。」
橘の強い調子に、藤吉郎は、はあと弱々しく身をひいた。
 それを横目に直衛が、
「しかし信乃どの、なぜに自身に刀を向けるなどと――ご自害、されようとなされたのか。藤吉郎が、朔次郎と血縁だと思うたゆえか。」
「そう――かもしれませぬ。」
「そうかもしれぬとは?」
その直衛の言葉を橘が切った。
「信乃、そなた藤吉郎の母が義見の親族と、いつ知った。」
橘のきつい口調に、信乃は手の上でこぶしを強めた。答えぬ信乃に、
「信乃。」
とまた強く橘が詰問する。それで信乃はうつむいたまま、
「たきさんが、来られた夜、佐助に――」
「佐助とは――、あの、忍びか。あの夜、どこで会うたのだ。」
「たきさんを探して、外に出ました。その時」
 ややあって、直衛が信乃の方へと改めて視線を向けた。直衛の頭に、あの夜のうす曇りの空と、闇から信乃の姿が現れたのを思い出し、ああ、という口をして何か得心したようだった。
 しかし、それを、口には出さなかった。
 信乃は眼差しをあげ、橘の顔を見た。
「あの夜も、白い女が現れたのでございます。私に、生きてはならぬと――また、生きてはならぬと言って。ですから私は――」
「白い女とは、大木村の帰りに現れたとかいう、その白い女か。」
橘の返す言葉に、藤吉郎があっと声を上げそうになった。
「隈吉の村の、村長どのの館に宿泊したときに現れた、白い女ですか。」
と、藤吉郎が橘に問うた。藤吉郎の言葉に、信乃が急いで目を向ける。
「藤吉郎さまも、その白い女を見られましたか。」
それに藤吉郎が答え、
「はい、恨めしげな様子で見る、痩せた女でしょう。 私は、一瞬しか見ておりませぬが。」
「何だ、話が見えぬぞ。どういうことだ。」
直衛が二人の会話を遮ると、橘が横から、
「白い装束に身を包んだ幽霊のような女が、信乃の前に現れる、というのだ。それが、信乃に『生きてはならぬ』と言ったと――そうだな、信乃。」
「はい。」
信乃の返事をきいて、橘は大きくため息をついた。
「橘の君、あの時橘の君は、害のあるものではないと。」
そう、藤吉郎が尋ねると、橘は眼差しを上げ、藤吉郎へと顔を向けた。
「それはそうだ。害――の、あるはずがない――私もそう、思うておった。なぜならばの、信乃。」
そう言って橘は顔を信乃に向けた。
「それはの、信乃、それは、死者でも悪霊でも、なんでもない。それは、そなたの中から抜け出した、心の陰なのだ。そなた自身の思いを、そなた自身の陰が言うているにすぎぬ。」
 信乃は愕然とした。
 あの、恨めしげな女の姿が心によぎる。
 それからもう一度、あの女がどこで現れたか、自身の記憶をたどり始めた。
 最初は、大木村を後にしたあの晩だった。次が、次は――?
 正月の夜、藤吉郎に小坂靭実の姿を問われ、泣きながらお館への道を急いだ――由良社の境内で剣の一人稽古をしていて、そう、藤吉郎にこれ以上頼ってはならぬと思った――それから――それから?
 あの女は、なぜに生きてはならぬというのだ――いや、私は、なぜに、生きてはならぬと――
「姉が死んだは、己のせいと思うたか、信乃。」
記憶の糸をたどる信乃に、橘が問いかける。
 信乃は橘をみつめた。
「姉を、あの道に走らせたは、己が親に問い詰められ、二人の逢引を大人たちに話し、己が、二人の仲を裂いたせいと思うたか、信乃。」
 橘の言葉に、信乃は軽いめまいを覚えた。
「そなたがしゃべらぬでも、村人たちは巫女姫どのと、朔次郎の動きはつきとめたであろう。十四の小娘が、そう大人たちを侮れるものでもないわ。たまたま、そなたがあのとき、その役を担うたにすぎぬ。」
目のくらむ中で見える橘の顔に、憐れみの色が浮かぶ。
「深き、心の傷よの、信乃。――したが、なぜにそこまで、己の心に気付かぬほどに、そなた自身を偽らせたのか――己の身を離れて、己自身をさいなまねばならぬほどに――」
 誰も、想ウ、テハナラヌノニ――
 信乃の心の中では、あの日――姉と朔次郎の二人を裂いたあの日、村人と父親に詰め寄られたあの日が、また心の中に浮かぶ。
 あの日以来何度も、心の中に浮かんでは沈んだ、あの日の記憶だ。
 あの日、父親と村人に囲まれ、気を失いそうになりながら、己と姉とが犯している過ちを、ひどく恐れた。
――さあ、信乃、言うのだ。小夜が大きな間違いを犯す前に、小夜が近頃、どこへでかけているのか、言わねばならぬ。
 信乃は息をのみながら、大勢の大人に囲まれて、ようよう、口を開いた。
――姉さまは、村はずれの猟師小屋に、怪我をした男の面倒を、見に行っておられます。巫女姫様に潔斎を命じられた間は、私が代わりに――男の名は、朔次郎といい、ええ、姉さまは、その男のことを、想っておいででございます。きっと男も、姉さまを――
 消しても、消しても、それはどう消そうとしても、形を変えることなくそこにある。何度それを思い出しても、何度その記憶を沈めても、その事実が、別の形になることは、ついぞなかった。
 

 橘はそのあと、直衛に巫女姫一族と小夜のあらましを説明し始めた。
 昔この国に唐土が攻めてきたときに、大風が起こって、唐土を追い払ったことがある。その大風を呼んだ巫女の子孫が大木村の巫女であると。巫女は都で陰陽師の男との婚姻が許されず、のがれ、二人は大木村に土着し、村人に交わったが、その尋常ならざる力は子孫にまで残った。
 いつしかその子孫で力のある女子は、大木村の神社の社で代々巫女職をつぎ、巫女姫さまと呼ばれ、その存在を秘密にされた。その秘密のために、またその血を絶やさぬために、さまざまな者が殺され、記憶を消され、犠牲にされた。折も折、この戦国に、その祖にも匹敵するような力のある子が生まれた――それが巫女姫小夜である。
 巫女姫小夜は風の精霊を使って空を飛び、また気を読み、未来を見る。それこそこの乱世で広くその力が知られれば、こぞって奪いに来るであろう強大な力を秘めていた。
 しかし小夜はある日、朔次郎と出会って、また己の利発さゆえに、この能力を受けつぎ、そのために悪習を生んだ「巫女姫」という職をなくさねばならぬと考えた。
 予知も可能であった巫女姫は、かつて別れ、戦でのがれてきた小坂靭実を助け――。
 そこで橘が言い淀んだ。
 しばらく言葉をつげず、どこともなく眼差しを定めずにいると、その沈黙を待っていた直衛が、
「もう、構いませぬ、橘の君。」
そう言葉を発した。
 直衛も何も言わず、しばらく視線をどこか一点に定めていたが、顔を上げ、
「信乃どのの姉君と、朔次郎――小坂靭実は、かつて既知の間柄であり、恋仲であったと、そういうことでございますな。姉君はただ人との婚姻はなせず、朔次郎は敵方の将となりはてた。――生きて許されぬものが、その想いを遂げるならば、行く道は、一つしかありませぬ。」
その言葉に、藤吉郎がはっと顔をあげた。
 直衛は落ち着いた顔で、橘の顔を見て話し続ける。
「たとえそれが戦の火ぶたを切ろうとも、そこに、どんな罪が生まれようとも、小夜どのには、行かねばならぬ道だったのでございましょう。」
 
 
 しばらくして直衛が、その場を辞すむねを述べ、橘に礼を述べて、腰をあげた。
 藤吉郎が直衛の出ていくのを目で追いながら、何か言いたげな様子であったが、それでも何も言わずに姿が部屋から消えるのを見続けた。
 すると、何か迷うふうであった信乃が突然立ち上がり、直衛の出て行ったあとを追った。
 走り出した信乃に、藤吉郎が
「信乃どの、どこへ行かれる! 信乃どの」
そう声をかけたが、橘が何かつぶやき、藤吉郎はそのまま声をかけるのをやめた。
 信乃が直衛のあとを追うと、直衛は駐屯所の入り口へ向かう坂の前に立ち、坂を下りようとしているところだった。
「お待ちください! 直衛さま!」
そういうと、直衛はその場に立ち止まり、信乃の方を振り返った。信乃が直衛のところへとかけよると、
「直衛さま、今のお話をきいて、どうなさるのです! 姉が、知って朔次郎さんを招きいれたとも」
と言いかけたところで、直衛は慌てて「信乃どの、信乃どの」と言いながら、口の前に人差し指をたて、言葉をつがないようにうながした。
 それで信乃がぐっと口をつむぐと、
「本当に、あなたときたら、誰がきいているともしれぬのに。」
「しかし…!」
そこで直衛は信乃の真剣な顔を見ると、信乃の腕をひき、神社へと向かう小道の方へと信乃を連れていった。そして信乃に正しく向き合うと、
「信乃どの、よくおききなされ。私は、今きいた話は他言いたしませぬ。」
それでも信乃の顔から不安の色がとれない。
 直衛は困ったような顔をして、その顔に苦笑いを浮かべた。そして、「むしろ」と言葉を付け足した。
「むしろ、あなたの姉君をうらやましく思っておりました。私にはできないことを、なせて。」
「直衛さまには、できないこと?」
「ええ、正しくは、私にはできなかったことを、です。」
そこでまた、直衛は困ったような笑いを浮かべた。
「おきかせするほどの話ではありません――いえ、信乃どのの姉君と、朔次郎の話をきいたからには、私もお話せねばなりますまい。」
 そう言ってから、直衛はため息をつき、うつむいて、信乃から視線をそらせた。
「あれは、高野の戦が起こる前年の秋にございました。」
そう言って、直衛は語り始めた。
「私がまだ、十四の時でございます。十の年から、藤吾さまやお静さまが高野にご訪問されるお共に、父とともにつきそうようになったのですが、ある時からお暇をいただいた折など、一人で――時には数人で、ご領地をめぐるようになったのです。しかしその年、その山歩きをしているときに女人が、川べりの木の幹に片手をかけ、桔梗の花をたおろうとなさっていらっしゃったのです。人の入らぬところゆえ、足元の地がゆるいのは人目みてわかりました。」
 その女人が、身なりがよく相応の家の者であることも、人目みてわかった。しかし不思議なことに供もつけず、このような山中によくぞこんな女がいたものだと、直衛はその時その女を見守っていたのである。
 途端に、女は幹にかけた手をすべらせ、それとともに足元の緩い地面に足をとられた。「あっ」と声をあげて落ちるかに見えたが、地形は峡谷となっていて、落ちれば命にもかかわるほどの高さである。直衛はとるものとりあえず駆け出し、すべる女の手をとった。
 恐怖で蒼白になった女の顔が、直衛に向かっている。まだ年の頃も若く、娘盛りの色が浮かんでいた。
 直衛はなんとかその娘をひきあげると、粗い息の中で、「もし、もし、お体に大事はないか。」と尋ねた。娘は蒼白になりながら、言葉なくその場に座り込んでいたが、しばらくすると恐怖から解放されたゆえか、ほたほたと涙をこぼし始めた。
「その時は、あまりのいとけなさに年下かと思うほどでした。やがて話し始めたその言葉遣いをきいてみると、確かにそれ相応のお方だったのです。でもまさか、その時は、それが高野のお館のご息女、まゆみ姫だとは思わず――今日の礼がしたい故、またここでお会いできぬかという言葉に誘われて、由良の家臣ゆえ、由良のご一行が参るときにはその共に参じております、その時にはまた参りましょうと。」
「それで、それは、次もお会いできましたの?」
「ええ、由良御一行が高野に参じた、その日に行くと、必ずそこでお待ちでした。高野に行けば、毎日同じような頃合いにでかけ、よくお会いしたものです。供もつけず、女一人で、こんなところで待つのはなりませぬと申し上げたのですが――」
 直衛は視線を下げて、しばらく足元をみつめていた。
 続きは聞かずともわかる。
 高野でそのあと戦乱があった。主だった家臣は討ち死にし、主家は館に火を放ち一同自害を遂げた。その中に、まゆみ姫も入っていたはずで、高野の姫が、稲賀の側室に入ったゆきえ姫のほかは、生き残ってどこかへ嫁いだという話も聞かない。
 直衛は続けた。
「あまりにまっすぐで、かわいらしく、清らかで、――しかし名は決して名乗ろうとなさらず、時折こちらに文はつかわされても『桔梗』とばかり記されているだけで、まさか高野のお館の姫とは思いもかけず、それが、ある日――その年の夏の終わりでしたでしょうか、くだんの」そう言って、直衛は信乃の顔を見た。「朔次郎が――私に教えたのです。『そなたの会うておる相手は、どなたか知っているか。あれはお館のまゆみ姫だ。他領地の家臣の息子ではお目見えがかなわぬで、わからぬだろうが、そなたの『桔梗の君』は、間違いなくまゆみ姫だ』と。」
「それで、どうなされたのです。お会いするのをやめられたのか。」
「いえ。」そう言って直衛はにっこり笑った。「もうそれを知ったからとて、止められはいたせませぬ。」
 直衛は一つため息をつくと、
「時の許す限り、それでもお会いしようと、心をくだこうと、――そう思って、間もなくのことです。高野との情勢が危うくなり、お館の兵が攻めるということになったのは――」
 直衛は信乃から視線をそらせ、村の景色の開けた方へと体を向けた。
「ですから、私は、あなたの姉上がうらやましい。共に逝くことも、二人生きることもかなわず、あとを追うことも許されず、一人この世に取り残され――ただ、ただ、己が身の小ささを悔いるしかなかった。しかも、戦がひいたあとは、酒におぼれ、前後も不覚になり、寝ているか酔っているかもわからない中で泣き暮らし、体も心もいつも酩酊して、父に叱られても藤吾さまに叱られても、全く正気にはもどれず――ところがある日、いつものように酔い潰れて眠る私のもとに、文が」
「どなたからのものでございます。」
「まゆみさまの姉君の、お館さまのもとにおられる、ゆきえさまからのものでございました。どこからか、私とまゆみさまのことを、そして私のふがいない姿をききつけられ、お逢いしたこともない私に文をくださったのです。――その文の中で、ゆきえさまは妹君のまゆみさまを失われただけではなく、ご一族を失われたことを書かれ、それでもゆきえさまが私を励まそうとなさっている文面を読み、あまりに恥ずかしく」
向けられた直衛の後ろ背に力が入るのがわかった。それを見ながら信乃が、
「でも、直衛さま、それは」
そういいかけて、直衛が信乃の方を向いたので、信乃ははっとした。そして直衛のその顔を見て、
「いえ…」
と言葉をひいた。
 直衛は続ける。
「なんとか日常には復帰したものの、心はいつもこの世のものではないような、どこか違う地をさまよっておりました。 そう、そしたら、あの方がこの地にいらっしゃったのです。」
「あの方?」
直衛は由良の館の方を指さしながら、
「あの方です、あの方――橘の君です。」
 この館に来たときは、十八かそこらの、まだ少女の面影を残す巫女だった。こんな少女が遣わされるとは、由良も低く見られたものだと内心思いながら、遠くからその巫女を眺めていたが、ある時、橘が来て間もなくの頃、何かの行事で隣同士に並ぶことになった。その時橘がささやくように、直衛に話しかけたのだ。
「そなたの、いつも後ろにいる女子は誰だ。」
予期せぬ言葉に直衛はぎょっとした。その驚きに動じる気配もなく、橘は、
「かわいらしい感じの、育ちのよさそうな女だ。そなたのそばにいつもいる。それが、今私に話しかけている。」
直衛は内心激しく動じながら、橘の顔を見た。橘は前を向いて直衛に横顔を向けたまま話し続ける。
「もういいと、言うておるぞ。」
「な、何がで、ございますか。」
「その後ろの女だ。そなたが嘆くのは、己も悲しいゆえ、苦しいゆえ、もういいと。――それと、しっかりと、生きてはくれぬかと。」
 それでも、橘はなんでもない顔をして、そのまま前で執り行われる行事を見続けていた。
 ―――
「その時は、橘の君が私のことを誰かからきいて、そんなことを話されたのかと思いましたが、どう考えても、もうその頃は、周りを偽れるほどまでに装っていたつもりでしたから、それはきっと橘の君がきいた、まゆみ様の声なのだろうと納得したのです。それからしばらくは、一人残された自分に、なぜそうも簡単に生きろと言えるのだと思ったものですが。」
「それで」
信乃はひたりと直衛の顔を見た。
「それで――とは?」
「立ち直られたのでございますか。もう――」
直衛は信乃の問いに自嘲気味に笑った。
「今の、体たらく、でございますよ。さきほども、橘の君になぜこの村にくすぶっておるのだと、叱られました。」
なぜか、信乃の胸が強く痛んだ。抑えようとするのに止まらず、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「し、信乃どの。」
かえって、それに動揺したのは、直衛だった。
「信乃どの、泣くことではありませぬ。」
「わたくしは」
涙をこぼし、それを手でぬぐいながら、信乃が言う。
「わたくしは、わたくしは、とんでもないことを申しました。――嫌いだなどと、なんでもわかった顔をして、などと」
「いえ、よくそう、言われるのも、事実です。」
それでも、信乃の涙はとまりそうもない。
 その信乃を見ながら、直衛は続けた。
「信乃どの、私が言ってもあまり説得力はないかもしれませぬが、恋とは、そう、恐ろしいものでもありませぬ。相手が自分になって、自分が相手になって、わけもわからぬほど自分をなくしても、それでも、その陶酔の記憶だけでも生きてゆける。痛みさえも、また、幸福の記憶なのです。知らぬ頃の、日々平穏だった自分が、不幸だったとさえ思えるほどに――。」
「つろうは、ござりませぬのか。」
泣きながら信乃がいう。
「つろうは――ございますなあ。」
「一人残されて、つらくて――それでも、幸せだったと申されるのか。」
直衛ははにかんだような、困ったような笑顔を浮かべ、
「あの方と出会えた偶然を、神に感謝したくなるほどに――ええ。」
 信乃は両手で顔をおおった。
 由良の館へ向かう初春の小道に、小さく風が吹いた。小さな風は、少し強みを帯びて周囲の木々を揺らす。
 その風の中にはらみながら、どこからともなく薫る梅の香りに、春が近いのだと思った。
 春が――近いのだ。
 
 
 

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