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巫女姫物語

― 第4部 ―
 
 


 
 
(六)
 
 
 
 

 
    
 部屋の中で文机に向かって橘が書をしたためていると、部屋の外――信乃が寝起きしている部屋の戸口の向こうから来栖直衛の声がきこえてきた。
「橘の君、来栖直衛です。お邪魔してもよろしいか。」
凛とした声が、壁の向こうから響く。
 橘は手にしていた筆をおいて、文机を自分の前からのけた。そして祭壇の斜め前の定位置に正しく座り、直衛の声がした方向に向かって、
「どうぞ、お入りなされ。」
そう答えた。
 ややあって戸が開き、直衛の姿が見えると、直衛は部屋の中へ入って入口で手をつき、一度頭を下げた。
 立ち上がり、そのまま下座へと足を進めた。
 続けて信乃が入ってくる。
 二人がその二間の部屋の、橘からみて一番向こうのうす暗がりに並んで腰を下ろした。橘は二人の様子をじっと目で追った。
 もそっと近くへよれとか、なぜそんなに離れたところにおるのだ、とも言わず、静かに、二人の姿をみつめる。
 直衛は床に手をつき、頭を下げた。信乃もそれに倣う。
 それから、やや頭をあげ、
「時間がありませぬので、手短に用件を申し上げます。」
「ふむ。」
そこで直衛は顔を上げた。
「橘の君にお願い申し上げる。」
 顔をあげた直衛の位置から、明かりの中に浮かぶ橘の姿が見える。心の揺らぐ気配もなく、静かにこちらの様子を見守っていた。
 何を頼みにきたのか、橘にはおおよそ見当がついているに違いない。それでも、橘は何も言わず、その表情を変えなかった。
「六佐どのを、我が由良の第二子、藤吉郎どの救出のためにお貸しいただきたい。」
橘はやはり表情を変えない。
「六佐どのが、蓮如一門の管理下にある私兵であり、橘の君のご一存では決められぬこと、よく存じております。そこを曲げて、お願い申し上げる。六佐どのを、藤吉郎どののために、お貸し願いたく」
「条件は何だ。」
突然、橘は鋭く切り替えしてきた。
 そこで直衛は、ゆっくりと頭を上げ、姿勢を正した。
 まっすぐと橘を見る。
 橘は続けた。
「六佐は貸せぬと、先程もしずどのに申し上げた。命にかかわる大事に、我一人の判断で、一門の兵は動かせぬ。それを押してそなたが頼むからには、何かそれなりの取り引きがあるのだろう。」
 信乃は二人の様子をうかがいながら、激しく緊張した。直衛が橘に「頼む」というのだから、てっきり「懇願する」のだとばかり思っていたのだ。
 直衛は姿勢正しく座った状態から、もう一度、左手を床について、橘を見た。
「橘の君、橘の君もご存じの通り、私は、由良藤吾様の一の家臣、来栖兵衛の第一子にしかすぎませぬ。地位もなければ、財もなく、また、由良様も父も戦場におるゆえに、由良の兵の一つ、由良の財一つ、己の意志では動かせませぬ。」
直衛は橘の顔を見ながら、言葉を続けた。
「さし上げられるのは、この身一つ。」
橘はそこで目を見開いた。驚いて信乃が顔を上げるが、直衛はそのまま続けた。
「私が、藤吉郎どの救出のために六佐どのをお借りする――そのためにさし上げられるのは、この身一つ――『来栖直衛』それのみにございます。この身を生涯、橘の君――ひいては、蓮如一門さまのためにご奉仕いたしたく――」
「何を!」
橘の声が部屋に響き渡った。
「私と、六佐どのの身の引き替えを」
「何を、何を言うておるのか、わかっておるのか!」
直衛はそこでまた、姿勢を正した。
「来栖直衛、地位はなくとも己の才はわきまえておるつもり」
「そういう話ではない!」
「ではどういう」
「たとえ由良が玉来に根をおく一豪族にすぎぬとも、その第一の家臣の子息とあらば、そなたもゆくゆくはその地位を継ぐ者、――それを、たとえ主家の息子を救うためとはいえ、その身の処遇を、そなたの一存で決められるはずが」
「ですから橘の君」
「そんな話を、私が受けられるはずが!」
「ええ、橘の君、私は確かに、来栖兵衛の第一子でございます。この身そのものを蓮如一門に差し出すわけにはいきませぬ。ですから――」
 橘は言葉をとめ、息を飲んで直衛の言葉を待った。ひそかに、粗くなる呼吸を抑えようと努める。
 乱れそうになる心を、抑えようと努めた。
「私の未来を『借り』として、六佐どのをお借りいたしたい。」
直衛の言葉がわからず、橘は眉をひそめた。
「今のわが身は、玉来に根をおく一豪族の家臣の、その子にしかすぎませぬ。しかしながらこの身は、お館での出仕を嘱望される身でもあり、――なれば、この戦果てればすぐにでも出仕いたし、即座に出世を遂げてみせましょう。その力得た暁には、生涯にわたり、橘の君――ひいては、蓮如一門どのにお味方つかまつる所存にて。」
激することなく静かに語る直衛を、信乃は横からみつめた。
 それから橘にそっと視線を移す。
 橘は直衛の姿をみつめていた――みつめていたのか、言葉を失っていたのか判別はつかなかったが、信乃が橘を見ていると、ようよう、顔に笑みが――浮かぶのを、こらえているかのようにも見え、しかし笑みが――顔が紅潮して
 思った途端に、橘が「あっはっは」と大きな声を上げて笑った。驚いた信乃は再び橘の顔を凝視した。何がおかしいのかと驚いて見ていると、
「お館に出るか!」
 それから、橘が己の感情を抑えようと息を一つ吐くと、
「ゆきえどのはどうする。しかも稲賀どのは、まかり間違えばそなたの仇。」
「こらえまする。」
「藤吉郎のためにか。」
「――のみならず」
言って、直衛は言葉を続けなかった。
 橘も直衛を見たまま、その先を続けようとしない。
 信乃には気のせいか、橘が嬉しそうに感じているように見える。
 いや、橘は、嬉しいのではないか。
 顔がどことなく笑っているではないか。
 見ていると橘は、またふっふと笑い始めた。そしてその笑いが止まると、どこか別のところへ視線を投げ、それからまた、直衛に視線を戻した。
「面白い。よかろう、今私の一存で決めても、この取り引きにおふくろ様も一門の者も、誰も文句は言うまい。『来栖直衛』の才と引き換えに、六佐をそなたのためにお貸し申そう。六佐のみならず、領国内の助佐たちの手も借りられるように助言いたそうほどに。」
「ありがたき幸せ。」
直衛はそこで床に手をついて頭を下げた。
「しかし、もしその約束をたがえれば」そこで橘はその身を乗り出した。「由良が滅ぶと思え。」
 その言葉に直衛はさらに頭を下げた。
 橘が満足そうに小さくうなずく。
 そこで直衛は頭をゆるりとあげ、顔は下を向いたまま、
「時に橘の君。」
そう強い口調で言葉を継いだ。
「六佐どのをお貸しいただけるということでございますが、そこで肝心なことがございます。」
「何だ。」
「橘の君は、賢明なお方。よもや無駄な取り引きも、まして行っても甲斐のないところへ、大事な私兵をお貸しくださるわけではありますまい。」
「どういうことだ。」
 直衛は床に手をついたまま、体を起こした。
 その姿勢のまま橘をみつめる。
「藤吉郎どのは、まだ生きておられるのですね。」
そこで信乃ははっと顔を上げた。思わず、「直衛さま!」と言葉を発したが、直衛は構わず、
「生きておられるのみならず、明け方までは生かされると。そう、――先程、橘の君は仰せになられた。『布一枚で何がわかる』と。」
途端に、橘の顔から笑顔が消えた。
「何が言いたい。」
「この村に帰りきた隈吉は、この村に大木村からの女人がいて、布の持ち主が信乃どのであると小坂が何故わかったのか、一言も話しませなんだ。にもかかわらず、橘の君は、『布一枚で何がわかる』――と。」
信乃は語る直衛を見ながら、体を起こした。一体何が言いたいのか、見当がつかない。
 直衛は続けた。
「それはまるで、小坂靭実が、藤吉郎も隈吉も口を割ったわけではないのに、あの信乃どのが藤吉郎に預けた布一枚で、すべてを察したとでも言いたげでございました。」
「だから何だ。」
橘の顔が真顔になった。
 直衛は続けて、
「今一つ」
そこで直衛は姿勢を正した。
「こうも仰せられた。『万が一、明朝までに藤吉郎が生かされたとしても』――と。そう、橘の君は、『もう藤吉郎が殺されておる』とも仰せにならず、それを疑いもせず、今確実に生きているようなお話をされる。」
直衛はその時初めて、相好を崩し、ほほ笑んだ。
「なぜにご存じであられる。」
 信乃は思わず、橘の方へと眼差しを向けた。
 ――知りとうもないことまで知るのが、我らのさだめ。
 知りとうもないこと?
「遠く離れた砦山の状況を探るには、よすがとすべき物もなく、さぞ苦労されたことでしょう。あの短い時間とはいえ、さすが、橘の君でございます。」
橘は、ほほえみで話す直衛の顔を見た。
「何が言いたい。」
 直衛の言葉を聞きながら、橘はその力で既に藤吉郎の身の安否を確かめているのだと、信乃は気付いた。
 思わず橘の顔を見る。
 途端に直衛は、再び左手を床につき、橘の顔をしっかと見て、
「情あつき橘の君にお願い申し上げる。」
直衛は隣に座る信乃の方へ少し顔を向けると、
「ここに、藤吉郎どのの身の危険に心を痛める者がおりまする。その身を慕い、今にも馳せさんじたいと思う女子がおりまする。万が一、今藤吉郎どのを失えば、その失意でこの世の地獄に落ちるやも――そのような地獄は、私一人でたくさんにて――藤吉郎どのの元へ、行かずで地獄、行って地獄――であるならば、せめてその悔いが残らぬよう、藤吉郎どのの元へ馳せ参じさせていただきたく――つまり」
「信乃の封印を解けというか。」
橘の言葉に、直衛はうなずいた。
「信乃どののお気持ちは、橘の君も、重々ご察しかと。」
 橘は苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
 こめかみに手をやり、ため息をついた。
「だから私は」
うつむいて目を閉じた。
「そなたが嫌いなのだ。」
橘の言葉に、また直衛は微笑んだ。
 微笑みながら、内心直衛は橘の次の言葉を待った。
 この、危険な賭けを、それでも、この女は許すだろうかと。
  
  
  
 背中から押し寄せる夜気が、しんしんと身にしみる。
 しかも焚火の炎は目の前にあって、体の前に照りつけるので、背中の夜気――特にしばられている手の先が、妙に冷たく感じた。
 藤吉郎の身は、未だ強く拘束されている。
 その拘束された中で彼は思い至った。
 信乃がここへ来るはずはないのだ。
 信乃がここに翌朝までに至るには、空を飛んでくるしかない。
 馬で早駆けはできぬ――そう言っていたのだから、他に方法はないのだ。
 しかし空をかけるには、その力を橘に封じられている。
 ある程度、傷を癒せるほどには復活の兆しを見せていたとしても、それが風の精霊を操って、空をかけるなどという大技を使えるほどのものとは思えない。
 すると、やはり封じられた力を橘にといてもらえねば、空をかけるのは適わぬ。
 そしておそらく、橘も、誰も、その身を危険にさらしてここまで来ることを、許さないだろう。
 そもそも、この高階の魔の手を逃れるために、姉に別の方角へと逃がされ、玉来でその身を預かっているのに、橘や兄が、ここへ来ることを許すはずがない。まして、せっかく姉が救ったその身を、むざむざ自ら危険にさらすことになる。
 囚われの身となるために、それらのものを棄てて、この地へ来ると。
 俺のために――。
 まさか、あるはずがなかった。
 勝手にこちらが想っているだけで、戦場に女の身で危険をさらし、わが身をかけるような、そんな馬鹿なことはするまい。
 そんな仲では、ないのだ。
 そんなことを考えるにつれ、信乃はここにはこない――くるはずはないのだと、考え至った。
 してみれば、この命は明け方までかとも思ったが、こいつにただ殺されるには惜しい――。
 しかも一つ懸念がある。
 女の身で、囚われの身となるために、信乃が来る可能性が低いとしても、誰か他の者が――たとえば直衛や、兄が、万が一単身で来る可能性はある。
 直衛の性格なら、そう行動する可能性は十分あった。
 だから要は、ここへ彼らが至るかもしれない、それまでに、この連中が撤退し、本陣へと合流すればいいのだ。
 すれば、無駄な争いも戦いも起きずにすむ。
 そもそもこうなったのは、自分自身のしくじりなのだから、誰も巻き込むわけにはいかない。
 ――藤吉郎はそう思い、何か策はないかと思いめぐらせた。
 舌を噛み切って死ぬにも、この状態では遂げる前に止められる。――それを見越しての、この猿ぐつわなのだろう。
 それ以前にその行動に出られるかどうかも怪しい。
 藤吉郎は、目の前にいる靭実を盗み見た。
 靭実は相変わらず、焚火の炎をみつめている。
 手を縛った縄は、切れぬものか。
 藤吉郎は自由になる術を考えた。
 また小便に行くとする。
 すると立ち上がり、足は自由になれる。手が使えぬ以上抗えばそこで斬られて――いや――いや、そうだ。
 自分が死んだからと言って、この連中が撤退するとは限らぬのだ。
 明け方まで信乃を待ち続けるかもしれない。そして最悪の時は玉来から誰かがやってくる。ここにいるはずの兵――二十か、三十かに立ち向かい、小坂靭実と対峙して、どうなるか――。
 どうする?
 どうすればいい?
 誰も巻き込んではならぬ――これは、自分自身に課された、最後の責任の取り方なのだ。
 藤吉郎は目の前の小坂靭実を、またみつめた。
 手には、あの巫女姫小夜を斬ったという刀がある。
 ――そうだ。
 藤吉郎は口にはめられた布を、顔の肉を使い、歯をかみしめて、なるべく細くなるように寄せると、一言放った。
「はっても、うりゃら!」
 待っても無駄だと言ったつもりだが、正しい言葉にならなかった。
 その言葉に、靭実は顔を上げた。
 藤吉郎はもう一度、
「はっても、うりゃら!」
言葉を発した。
 靭実はこちらへ顔を向けた。それからしばらく、じっと藤吉郎の顔をみていたが、ゆるりと立ち上がり、藤吉郎のそばへと歩いてきた。
 靭実は藤吉郎のそばへと腰を下ろす。
「何だ、何か用か。」
「はっても、うりゃら!」
藤吉郎が同じ言葉を繰り返すので、靭実は藤吉郎の後ろ頭へと手をまわし、その猿ぐつわをほどいた。ようよう、口が自由になり、藤吉郎はすかさず、
「待っても無駄だ!」
そう言った。
「何?」
「いくら待っても、無駄だ。誰も、ここへは来ない。」
言う藤吉郎を見ながら、靭実は軽く笑みを漏らした。
「なぜそんなことが言える。」
「俺には、その価値がなく」
言うと、少しあざけるようにまた靭実がふっと笑った。
 構わず藤吉郎は続ける。
「信乃どのは再び力を封じられた。だから――女の足で、翌朝までにここへ至ることはできない。」
「小夜はどうだ。」
 靭実の言葉に、藤吉郎ははっとした。
 気をのまれ、身ぶるいするような心持ちになって、靭実の顔を改めて見る。
 靭実は真顔だった。そのみつめる顔が続けて、
「小夜がいるだろう。小夜が空を飛んで来られるのではないのか。小夜が――」
 靭実は先程、確かに『巫女姫小夜を斬った刀だ』と言った。
 先程も思った。
 やはり靭実は、おかしい。
 その言葉を言った時の靭実を思い出しながら、藤吉郎は、
「信乃どのの姉君、小夜どのは、――亡くなられた。」
 藤吉郎はようようそう言った。
 しかし、靭実は、同じ表情で藤吉郎を見ている。
 ややあって靭実はふっと笑い、視線を下げた。
 そしてすぐにその目を上げ、うろうろと視線を泳がせる。
 それからまた、藤吉郎へと目を向けると、口元に笑みを浮かべ、
「何を馬鹿なことを」
 藤吉郎はぎょっとした。
 身が震えそうになる。
 それをぐっとこらえ、
「お前が――先程、斬ったと言ったのでは」
「あれは死なぬのだ。」
 靭実の言葉に藤吉郎はわけがわからず、目を見開いた。
「あれは、死なぬのだ。斬られても、肉を生み、つなぎ合わせる術を持っている。現にお前も俺も、それで傷を癒され」
「こ、俺のは、信乃どのが」
 そこでふっと靭実は笑った。
「信乃は力を封じられているのではないのか。」
「ふ、封じられてはいるが、何度か、手をあてているうちに、傷口が閉じたのだ。よそ者の巫女が封じたために、完全に封じ切れているのではないのだろう。だから、その巫女が解かねば、信乃どのが来るのは無理で、まして姉君は、もう、――この世の方では」
 途端に、靭実が立ち上がった。
 藤吉郎は縛られたまま、その靭実を下から見上げた。真上にいるので、その表情がよく見てとれない。
 なぜだろう、明らかに気配が――。
 気配が動揺している。
 藤吉郎はぐっと胸元に力を込め、続けて、
「信乃どのも、間際まで姉君の訃報をきき、大木村で姉君の霊に再会するまで、生きておられることを望んでいた。しかし所詮、お前のようなものに斬られては、いくら不思議の力を持っていようとも」
「黙れ!」
靭実は一喝した。
 途端に、靭実はまた藤吉郎の横へ腰をおろし、藤吉郎の胸倉をつかんで藤吉郎を縛った後ろの杭へとその身を勢いよく押しつけた。
「おい、嘘を言うとためにならぬぞ。小夜が死んだなどと、なぜ そんなことが言いきれる」
「しかし」
「お前も、見たわけではないのだろう?」
「俺は見たわけではない。しかし、玉来に遣わされた蓮女一門の巫女が、大木村まで行ってその死霊を確かめたのだ。村はずれの猟師小屋でさまようておられるところを、魂送りし、――猟師小屋までは俺も護衛でどう」
「ではなぜ!」靭実の言葉に、藤吉郎は言葉を切った。「ではなぜ、小夜は、俺のところへは来ないのだ! おかしいではないか。死霊となった、それならば、 ――それでも!」
 靭実は藤吉郎の胸倉をつかんだまま、その力をゆるめようとしない。
 気を飲まれながらも、藤吉郎が靭実の目を見返していると、靭実は藤吉郎の胸元から手を離した。
 ゆっくりと立ち上がる。
藤吉郎から離れ、元座っていた床几へと歩いて行く。
 しかし床几へは腰を下ろさず、ゆっくりとその手前で、地面へと落ちた。
 右手に持っていた剣を両手でつかみ、うずくまる。
 そのまま、すがるように剣を抱きしめた。
 言葉にできない哀しみが、その背中から満ちてくる。
 藤吉郎は靭実の背中をみつめた。
 また、目の前の男から靭実の気配が消えて、朔次郎の姿が現れる。
 それはあの日、十五で別れた少年の後ろ姿そのまま――戦場にあるにはあまりにも、無防備な後ろ姿だった。
 
 
 
 信乃は駐屯所へと向かう坂道の前で、直衛と別れた。
 夜の闇はやはり深く、星明かりと由良の館の前に灯された松明の火だけでは、それほど夜目がきくわけではない。そこを、信乃は神社へと向かう道に足を進めた。
 橘に言伝を頼まれてのことだった。
 信乃は先程、由良の館を出てから、直衛と話したことを思い返していた。
 直衛は言った。
 橘の立場上、私情では協力できぬのだと。
 一つを許せば見境がなくなる。己一人の情で、何の利害もなく一門や自身の力を他人に貸せば、我も我もと懇願し、すがるものに侵され、敵わねば攻撃され、やがて一門そのものの存在をおびやかすことになる――彼ら巫祝の一団とは、そういうものなのだ。
「それがわかっているから、何の取り引きもなく六佐を貸すことができぬのです。橘の君は、元は人一倍情に篤いお方。しかし己が性格を熟知するからこそ、なるべく懇意にならぬよう、あえてこの異郷の地では必要以上に人に交わらぬよう、努めておられる。」
 直衛はそうも言った。
 二人が目の前で交わしたかけひきを見、そして今自分が橘に頼まれたことを心の中で繰り返し、一歩一歩暗闇に足を踏みしめながら、「ただ飛んでいくこと」しか考えなかった自分を、軽率に思った。
 一度たりとも心の中で二人を責めた自分を、恥ずかしく思った。
 直衛が直談判に行ったとき、橘は一も二もなく「条件は何だ。」と問うた。
 直衛がそうした橘の立場を理解し、そして談判にやってくるには、何か条件を持ってやってくると予測できるほどに、橘は直衛の才を理解している。
 評価している。
 あの橘からにじみ出た嬉しさは、一門の利益になるということへの嬉しさではないのだ。
 この村で、過去の悲劇にとらわれて閉じこもっている彼が、立つということへの嬉しさなのだ。
 立ち直ろうとする人への、喜びなのだ。
 信乃は神社へ向かう道の傍にある木立に向かった。
 風がそよぎ、木々がわずかにざわめいている。
 その木々のざわめきの中、木立に向かって、信乃は楓の名を呼んだ。
「楓、そこにいるのなら、出てきておくれ。橘の君が、お前に頼みがあるそうです。」
信乃は人の気配一つない、その木立の暗闇をみつめた。
 しかしややあって、信乃の目の前に一つの影が浮かびあがった。するとその影はたちまち人の姿に変わり、そこに信乃と変わらぬ年の少女の顔が現れた。
 橘が直衛に頼んだことをも思い出し、信乃は身の内が震えるような思いになる。
 動くのだ、藤吉郎を、救うために――。
 
 
 直衛は駐屯所の扉を開けると、扉のそばにいた兵に、
「丙吾さまはこちらときいたが。」
そう尋ねた。
 すると兵は黙って駐屯所の中ほどに目を向けると、「あちらに。」と言って、駐屯所の中にある広場の中央を指さした。
 人が集まっているその中央に、丙吾の後ろ頭が見える。
 ここの責任者の赤木と話しているらしかった。
 そこへ向かって直衛が歩みを進めると、直衛は丙吾に向かって、「丙吾さま」と呼びかけた。
 丙吾は話の途中で言葉をとめ、直衛に振り返った。
 その顔は先程よりやや明るい顔をしている。
「直衛、叔父貴どのが、結城にある寺の住職と以前からつきあいがあるゆえ、そこの僧兵をお貸しいただけぬか、頼んでみてくださると先程おっしゃられた。それで、その寺への使いの者をお貸しくださるように、今赤木どのに頼んでいる。」
 そう言うと、直衛はその言葉にうなずき、赤木の顔を見て、
「兵はお貸しいただけそうですか。なんなら由良の兵から選抜しても」
赤木は手の平をこちらへ向け、直衛を制した。
「夜目のきく馬の上手がまだ何人もおります。それぐらいのことならば、お力になっても叱られはいたしますまい。」
直衛は赤木の言葉にうなずいた。赤木の口調では、ここの兵も目立たぬ程度で数人、出動させるともとれる。
「それは、ようございました。よろしくお願いいたします。――ところで丙吾さま。」
丙吾は直衛に顔を向けた。直衛は続ける。
「橘の君が、六佐をお貸しくださるそうでございます。」
途端に、丙吾の目が輝いた。途端にはじけるような笑顔になり、
「お…おお! まことか!」
「はい、その僧兵の話もありがたいことでございますが、六佐と、それから領地内にいる助佐たちにも声をかけてみてくださると」
直衛がそういうと、丙吾はますます目を輝かせ、うんうんとうなずいた。
 直衛の腕を強くつかみ、
「でかした、直衛! そなたあの堅物を、どうやってたらしこんだのだ。そうか! 六佐たちが借りられるなら、百人力だ!」
「はい、ええ、つきましては、お借りしたいものがあるので、丙吾さまにお願いをと。」
「なんだ。」
「藤吉郎どのの所持する刀をお貸しいただきたいと。できれば、できるだけ最近使われていたものがよいそうです。」
「よし、わかった。すぐに藤吉郎の部屋へ取りに行こう。戦へ持って行かなかったものが幾つかあるだろう。」
そう言って、丙吾は笑顔で勢いよく歩き始めた。直衛はその丙吾の後をついて歩いていく。去り際、丙吾は一度立ち止まり、赤木に振り返って、
「赤木どの、また、すぐ戻る。兵が用意できる頃、叔父貴どのの文を持参いたすゆえ、お待ち願いたい。」
そう告げ、また直衛に向かって「行こう。」と声をかけた。
 その言葉にうなずき、直衛は去り際、赤木に一礼すると、赤木も高揚した顔をして、直衛にゆっくりと頭を下げ返した。
 
 
 信乃が一人で橘の居室に帰ると、あきときよらが居た。
 二人が衣服を持参しているようで、橘にそれを差し出していた。
 近づいてみると、普段きよらが剣の稽古の時に着用している、男ものの上下に、さらに何枚か差し出されている。
「元々は兄の着用していたもので、私が着るために縫い縮めたものです。殿方が着るには短いかもしれませぬが。」
きよらがいうと、橘は、
「いや、いいのだ、それで。」
ときよらの言葉を制した。
 橘が「ありがとう、しばらくお借りする」というと、二人が頭を下げて部屋を出て行く。
 二人が出て行ったのを見届けて、信乃は声を落とし、橘に、
「巫女さま、あちらの」そう言って、障子戸の方をさした。「お部屋の外に、楓が控えております。」
「ふむ、中には入ってこぬのか。」
「お目にかかるなら、外で、と。」
「やれ、面倒だの。」
そう言うと、橘は腰を浮かせ、部屋の廊下側とは反対の障子の方へ向かい、手を使って這って行った。それに合わせて信乃が障子を開け、外側の板戸を押し開ける。なるべく音を立てないようにそっとあけると、そのすぐ下の、部屋の明かりが届かない闇の中に、忍びの女が現れた。
 地面に手をつき頭を下げ、控えている。
 橘は部屋の中と外の気温差を肌に感じた。
 まだこの時間、夜は冷える。
 橘は闇の中に控えるその姿をみつめ、話し始めた。
「初めて見るな。――そなたは、そうでもないか?」
楓は答えず、控えたまま――橘は続ける。
「時が迫っているゆえ、手短に申す。」
そこで橘は一呼吸入れた。
「先程の騒ぎをきいただろう。そなたの兄の失態で、今信乃がこの館の子、藤吉郎のために死地へと赴かねばならなくなった。」
楓はその橘の言葉にやや顔を上げた。
 しかしまた、すぐに姿勢を正す。
 押し殺した心の、その体から漂う気を探りながら、橘は話し続けた。
「そこで、今から戦場にいるそなたの兄を捜し、一つ伝えてもらいたいことがあるのだ。――由良藤吉郎も隈吉も、生きている。そしてそのたくらみと失態をお館に伝えられたくなくば、砦山の頂にいて小坂に捕らえられている由良藤吉郎を、――そしてその命と引き換えに砦山へ行く、信乃を救え。」
暗闇の陰にいる楓は、橘の言葉に明らかに動揺した。
 顔を上げる。
 橘は構わず続けた。
「そなたがその事実を知るか知らぬかは、私も知らぬ。しかしそなたの兄は、藤吉郎を罠にはめたのだ。誰の命でもない、己の欲のためにな。」
橘は手をついて乗り出し、闇の中の楓の顔へと、自身の顔を近づけた。
「そなたの兄も、馬鹿なことをしたものだ。そなたも兄とともに、砦山へと行くがよい。藤吉郎を救えなければいずれにしても、死が待とう。命をかけて、走るがよい。」
 
  
  
「斬るつもりはなかったのだ。」
床几に腰かけ、焚火の炎をみつめながら、靭実がそうつぶやいた。
 その靭実が、藤吉郎にチラリと視線を向ける。
「大木村の巫女姫、小夜だ。」
藤吉郎は靭実をみつめたまま、答えなかった。
 靭実は続ける。
「斬るつもりはなかった。一人、村に残っていたからそのまま、生け捕りにしようと思ったのだ――いや、二人で一緒に高階へ行こうと、そう言ったのだ。何を言っても、言い訳に聞こえるかもしれないが、俺はあいつに誘いこまれて、あの場で、斬ってしまったのだ。小夜がなぜ、俺に斬らせようとしたのかはわからない。」
 そこで藤吉郎は顔を上げた。
「斬らせようとした?」
「そうだ、斬らせようとしたのだ。俺はその時、倒れた小夜を抱えて、『なぜ斬られた』と尋ねた。すると、あいつはこう答えたのだ。『皆が幸せにならねばならぬ。だから、私は、お前に斬られたかったのだ。』と。」
「幸せにならねばならぬ、から、お前に斬られたかった、と?」
「そうだ。そう言った。未だに――わけがわからない。」
「恋仲ではなかったのか。」
「かつて――な。」
藤吉郎は靭実の話をききながら、断片的すぎるせいか、さっぱり要を得ない話だと思った。
 確か、靭実と小夜の話を橘に聞かせられながら、ここで直衛は橘の話をとめ、こう言った。
 ――信乃どのの姉君と、朔次郎――小坂靭実は、かつて既知の間柄であり、恋仲であったと、そういうことでございますな。姉君はただ人との婚姻はなせず、朔次郎は敵方の将となりはてた。――生きて許されぬものが、その想いを遂げるならば、行く道は、一つしかありませぬ。
 藤吉郎は続けた。
「小夜どのは、お前との仲が許されぬのならば、せめてお前に斬られて死にたかったのではないか。」
「だから、それがわからぬのだ。」
直衛の即答に、藤吉郎は思わず眉を寄せた。
「だから、それがわからぬのだ。なぜそこに、生きるという道がないのか――俺は、五年前にも言った。あの村を捨てて逃げよう、と。しかしその時には村人に妨げられ、あいつも追ってはこなかった。そして今度も、その気になれば、生きて遂げられなかったわけではない。」
「それでも、そこには」藤吉郎は思わず口を開いた。「幾つもの難題があろう。それがわからぬとは」
「わかるさ。」今度は靭実が藤吉郎の言葉を切った。靭実は続けて、「それでも、命あれば、まだ何か可能性もあるだろう。死ぬなら、すべてに絶望した後でもよいではないか。なぜに、死なねばならぬ。なぜに、生きてはなせぬ。」
 話す靭実の横顔を見ながら、藤吉郎は思った。
 それでも今は敵国の武将であり、その名も知れ、破竹の勢いで出世を遂げる男ではないか、と。お館の妹君との縁談もあり、むざむざその地位を捨てられただろうか。
 靭実の横顔をうかがいみながら、静かに息を飲む。そして、言った。
「ではもし、小夜どのに添うてくれと言われれば、添い遂げたのか。」
 靭実はその藤吉郎の問いに、眼差しを上げた。
 それから藤吉郎を見やる。
 また、焚火の炎へと目を戻した。
 語り始める。
「この短い生涯でただ一人、俺が心を許した女だ。共にいた時は数日であった。しかし俺の中にいた時は、数日どころではない。」
 
 
 
 由良の館の前にある坂を降り切った、駐屯所の入り口の前で、六佐は旅装に剣を胸元で抱え、馬にまたがり、その背に竿を背負わされていた。
 これからその竿の先にある松明に、火をつけるのだ。
 夜目に明かりをとるためだった。
 赤木と駐屯所の兵が、六佐の馬と持ち物を点検している。
 見送りには橘と丙吾、直衛、深田五郎――同じく並んで、藤吉郎の母しずが、六佐に手を合わせていた。
 駐屯所の屈強な兵に抱えられた橘は、馬上の六佐を見上げながら、
「明かりは灯すが、あまり目に頼るな。」
六佐は橘の言葉にうなずいた。続けて、
「心の目で見よ、その方が、正確なはずだ。」
六佐はまたうなずいた。
「兄者によろしくな。文を渡せば、よろしく次をとりはからってくれよう。我らも一門の者も、お前たちの勝利を祈るほどに。」
そこで丙吾が口をはさんだ。
「結城の僧兵がこの件をひきうけてくれるならば、お前たちの加勢をしてくれるはずだ。敵兵とは、間違えるな。」
また、六佐がうなずいた。
 その時、駐屯所の入り口が開いて、兵が一人現れた。兵は赤木に近づき、耳打ちすると、赤木は小さく「何?」と声を上げた。
 兵が報告を終え、一歩下がってそのまま赤木の指示を待つようだったが、赤木はしばらく考え、うなるような声で、
「橘の君。」
と声をかけた。
 赤木の声に、橘は彼の方へと顔を向けた。
 赤木は続ける。
「信乃どのはどうされた。」
赤木の問いに、橘はきょとんとした顔をして、
「信乃どのが、どうかしたか。」
次第に、赤木の顔から汗がにじむのがわかる。
「見張り台にいる兵からの報告で、北東へ向かって――おそらく女人の操る馬が一騎、村の中を走りぬけた――と。」
その言葉に丙吾が、驚いたように声を上げた。
「それは、信乃どのか?」
丙吾が問うと、赤木がう〜んとうなり、
「遠目ではしかと確認できなかったそうでございます。しかし、年格好からして、そうではないか、と――」
それで橘が、
「あれは、先程までは行くの行かないのと言っておったが、説得の甲斐あって諦めたと思うたに――本当に、信乃どので間違いはございませぬか。なんなら、館の中に信乃どのがいないか、一度戻って確かめてはどうでしょう。もしや他の女人」
いうと、直衛が思わずそれを制した。
「お待ちください。それが信乃どのかどうかを探ることは、後でもなせまする。今は一刻を争うとき、加えて、六佐がちょうど同じ方角へ向けて出立いたすゆえ、六佐に後を追わせ、捕まえさせましょう。もし信乃どのではなくとも、この時刻に村から走りぬけたのなら捕まえねばなりますまい。どんな馬の上手といえども、六佐には勝てませぬ。すぐに追いつきましょう。」
「おお、そうだ。そして捕まえたら、そのまま高野の兄者に預かってもらえばよい。」
二人の言葉をきいていた丙吾が、
「おお、そう――そうか、そうしていただけると助かる。――それにしても信乃どのはそれほどまでに、己に責めを感じておられたか。」
「これは油断でありましたな。」
丙吾に続けて深田五郎が言う。その二人を尻目に橘が、
「どれ、急ぎ、六佐を出立させようほどに。よいか六佐、先程も申したとおり、ちゃんと取り計らえよ。信乃のことは、忘れるな?」
言うと、六佐は再びうなずいた。
 六佐の松明に、駐屯所の兵によって火がともされる。
 途端に、六佐の操る馬が歩みを始めた。
「気をつけよ! 無理はするな!」
橘が声をかける。
 馬は次第に、駐屯所の囲いの前を行き、加速をつけて遠くなる。
 ――すぐに、街道に出る角を曲がって見えなくなった。
 一同はその後ろ姿が見えなくなっても、しばらくその姿を見送っていたが、深田の「後は神に祈るしかありませぬな。」とつぶやく声がきこえて、ふと丙吾が我に返った。
「そうだ、信乃どのをお探しせねば。」
「ええ、そうでございますな。まずは、お館から」
そう深田が丙吾に答え、一向が由良の館の入り口へと足を向けたとき、赤木が、
「橘の君。」
と呼びかけた。
 橘が兵に抱かれながら赤木の方へと振り返ると、
「信乃どのが馬で去ったかもしれぬと申したとき、驚かれませなんだな。」
探るような目でそう問うた。
 橘は少し考えるようなそぶりを見せ、
「そうか?」
しらりとした顔で答える。そして、
「我はいつもこうだ。」
橘の言葉に、赤木は思わず忌々しい顔をして舌打ちをした。
 直衛は笑いがこみあげそうになるのを、必死と抑えた。
 確かに、いつもそうだと思った。
 直衛はそんな橘を見ながら、村の中を走りぬけたという影を思い、あの女は、つかまらぬと思った。
 六佐にさえ、捕まえることはできぬ。
 あれも、兵力の一つなのだから。
 直衛は館への道を行きながら、六佐たちの成功を祈った。
 せめて、靭実が従える兵三十余り、倒せれば、まだ希望はある。
 
 
 
 

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