drawing

 


 


 南から北へと、都会のビル群の中に、一本筋を貫いたような大きな通りを歩くのが、私は好きだ。仕事の帰り、夏などは、その通りは日暮れ前で、ラッシュには早いせいか車道もさほど込み合っていることはなく、比較的静かで穏やかだった。四車線ある車道のわきに、車道に似つかわしいほどの広い歩道があって、並木がその脇に延々と植えられ、まるで歩道はビルの谷間の川べりの道のようだった。
 私は毎日、仕事の帰り、職場のあるビルの脇にある細い通りからその大通りへ出ると、歩道を駅へと歩いていく。
 その駅へと向かう大通りに面したビルの一つに、一階から二階への高さを貫いてショーウインドウを設けているところがあった。とても美しく、開放的なそのショーウインドウが私は好きで、月に一度される衣替えを楽しみにしていた。おまけにそこは隣の一画にビルがなく、駐車場になっているので、他の谷間よりも大きく空を見渡せるせいか、開放的で、とにかく、そのショーウインドウ付近は私のお気に入りの場所なのだ。
 それが最近、ショーウインドウを扱うデザイナーが変わったせいか、色合いがますます華やかになった。以前はどちらかというと、「シック」だった。それがとてもカラフルになり、私は足を止めて見とれるまでになっていた。
 殊に夕暮れ時、谷間にはまだ街灯の明かりも点らないのにショーウインドウの中がライトアップされると、そこだけがこの世ならぬ別世界を見ているように見える。中は、真っ白い顔の、目鼻をなだらかにかたどったマネキンが三体あって、それに新作が着せられ、明るい色合いの数種の布がウインドウの中に張りめぐらされていた。そこにライトアップされるのだから、この世ならぬさわやかな明るさで、目にも華やかに迫ってくる。
 そんな色鮮やかな世界で、私が一番注目してしまうのは、マネキンの顔だった。その、三体あるうちの、真ん中だった。
 白いだけで、特に人間らしい特徴がない。――いや、人間らしい特徴を残すと、かえって、服のイメージと着る人を縛りつけてしまうので、こんな顔のマネキンにしてあるのだろう。
 しかし何故、私はその色鮮やかな世界の中で、その造作のないマネキンの顔をみつめてしまうのだろう。
 いつまでみつめていても飽きのくることのないその顔に、私は一体何をみているのか。
 そういえば私は、あまり人の顔というものを注視しないかもしれない。いや、話すときはもちろん、顔を見ているだろう。しかし、その造作にとらわれることがあまりないかもしれない。
「ねえ、写真ないの? 見せて。」
とは、よく職場の仲間や友人にきかれる言葉で、相手が見せてほしいのは、家族だったり、友人だったり、恋人だったりするのだが、残念なことに私は、写真はあまり持ち歩かない。実は撮る事も少ない。自分自身のものでさえ、撮らない。
 写真が嫌いなのか、と問われれば、そうかもしれない。芸術として、とか、まだ見ぬ世界に思いをはせるよすがとして見るにはいいけれど、現実に向き合い、向き合った後では、写真の世界では、もうだめなのだ。
 だって、違うのだ。
 その平面の世界は、現実の彼らとは少し違う。
 きれいにかたどられた彼らの姿が、彼らの中身や性質までとどめることは、ほとんどない。時にイメージとしてそこに立ち現れ、ある程度の似たものを残そうとも、それは私の知っている当人ではないのだ。
 似ているけれども、違う。
 それで私は、あまりのギャップに目を閉じ、それを身近に置こうともしない。置いてみたところで、当人とのあまりの違いに、今そこにない人との距離を感じ、ますます落胆するばかりなのだ。
 だから、特に、恋人の写真を持ち歩かないことに、不審を抱く人もいる。もしかしたら、恋人本人も不審に思っているかもしれない。でも、私の知っている恋人は、写真に写っている場合の人と、少し――いやかなり、違う人なので、私はかえって持ち歩くことを避けているのだ。
 写真の中の人は、すました、よそいきの顔。そこからは、その秘められた情熱も、繊細さも、ずるさも、嫉妬深さも、不安も何も感じられない。
 でも、目を閉じ、その姿を思い浮かべると、かたどられたものよりもより正確に、甘く、誰も知らない手のぬくもり、息吹、そして姿が、生き生きと浮かびあがる。
 今日も――いつでも、どこでも。

 
 私は、目を閉じて人を見る。何もない空間に、人を映し出す。
 心の中を走る一本の鉛筆で――。
 日暮れの街、谷間のような通りで、今日も出会い続け、描き続ける。
 みとれている――目が、離せない。

(2003.8.30)
 Home短編集 

Copyright(C)2003-,Kiyora Sakihana. All rights reserved.