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 昼過ぎから降り始めた雨は、バスにのる頃には小止みになって、もう止むかとみえたのに、バスを降りたときにはまた降り始め、降りて空を見上げると、傘をささねばならないことに気がついた
 雨は小雨だった。
 傘をささなくても歩けそうだけれども、傘をさすほうが無難に感じられた。
 駅が近く、車の通りもあるのに、なぜか静かだった。
 すべてが、そのグレイの景色に吸い込まれるのではないかと思うほど、音が、どこにも感じられない。だから、傘をさし、その吸い込まれそうな景色の中に、小さな雨音をきいていようと思ったのだ。
 あまりにも静かだと、心もとないから。
 街は、民家と、ところどころに忘れられたように田んぼが見える。
 何度も歩いた景色だった。
 道は、バスを降りると、東へ向かう。東へ向かうと電車の駅がある。いつもは、この道を、大急ぎで歩く。時間に追われてしまって、景色を眺める余裕など、まるでない。
 今は、フン、フンと小さく鼻歌を歌って歩こう。
 どうせ誰もきいていないから。
 アスファルトの小さなへこみにたまった水もふんづけて、ビシャビシャと音を立てながら、軽快な足取りで、駅へと向かう道を進むのだ。
 街は、雨がしんなりと世界をグレイにぬらすばかりで、鼻歌を歌おうと、水を飛ばして歩こうと、誰にもとがめられることはない。
 周囲には、誰もいないから。
 そういえば、雨の街を、こんなふうに鼻歌を歌いながら歩いた映画俳優がいた。
 誰だっけ、と笑ってみる。
 そうだよ、あれは、と見上げてみる。
 近く、山が、けぶりながら、形を見せていた。緑の木々さえも、灰色に煙って、今日は違う色に見える。
 それでも、晴れているとき、一番遠くに見えていた山が見えない。
 駅前通りの細い道に入ると、急に民家が混み入った。それは道に押し寄せるように迫ったが、駅へと向かう道を横目に、そのまま、まっすぐと歩き続けた。
 まもなく、踏み切りに突き当たる。
 電車も来ておらず、赤信号は暗く押し黙り、踏み切りはあがったまま、ただ、雨の中にその姿をしめらせていた。
 左手に駅があった。
 左を見ずに、右を見ながら線路の行く手をみつめる。
 のびていた、線路は、長く、遠くへ――しかし、先はやはり雨でけぶっている。
 もし、雨でなければ、ゆるゆると上り坂の向こうに、隣りの駅が見えるのだ。
 霧で先の閉ざされた、縦と横への広がりは、レールのラインに、滑走路を連想させた。
 両手いっぱいにひろげて、走れそうで―――
 飛べそうだ、心が―――
 あの、雨でけぶった白い虚空の中に―――
 

 一瞬の陶酔から醒めて、また、元の道へと歩きはじめた。
 吐いた息が白く色づいているのに気づいて、その空気の重さを感じた。
 まだ、それほど冷え込む季節でもない。
 それは湿度のせいなのだ。
 傘ごしに、大きく息を吐いてみて、その湿度の高さを確かめる。
 吐き出した息がまた、白く形を見せ、その息の変わりに、しっとりとした空気が肺の中に満ち溢れた。
 ふくらむ。
 ふくらむ―――
 雨が、体の中を湿らせ、潤わせていく。
 少し濡れてみようかと、傘を傾け、手を広げてみたが、ぴと、と、大きな雫を額に受け、慌てて傘をさした。
 道は、線路から、だらだらとのぼりになり、景色に緑が多くなる。
 森が迫り、間もなく民家も途絶えるだろう。
 そうしたら、きっと出会える。
 この前来たのはいつだろう。毎年、とは限らないのに、今年も、ではないかと期待して、足を運んでしまった。
 緑が深まり、山が迫る。道は民家も途絶え、道沿いに走る小川の音ばかりが、響くようになったころ、きっと現れるだろう。
 湿ったアスファルトに、自分の影が落ちているので、それでも空が少し明るいのに気がついた。
 雨は、あがるのだろうか。
 それとも、降り続けるのだろうか。
 傘を飛ばして、かけていこうか、子供みたいに。
 大声を上げて。
 でも、そんなことをしたら、今は息があがってたいへんだ、と、クスリと笑った。
 期待で胸がふくらみ、息がはずむ。
 確かこの角を曲がれば、見えるはずだ。
 せっかく、緑に囲まれた景色が、グレイに沈んでしまっているけれど、雨音が傘に響いて、おまけに小川の音までじょろじょろとうるさいけれど、ホラ、今年も見えた―――山肌の間際まで、田んぼ一面に咲いている、黄色や赤やピンクの、秋桜―――
 コスモスだ。
 立ち止まりながら、はあ、っと息を強く吐き出した。
 あの頃―――小学校も中学校も、高校も、何度かこの前を通り過ぎたことがある。なのに、あの頃は、何も思わずに通り過ぎてしまった。たいして美しいものとも思わずに、遠くまで広くコスモスが群生しているのだと、ただそれだけを認識している、それだけだった。これが、毎年、何のために植えられ、そして、なぜこうして色を放っているのかもわからずに、ただ通るときはいつも、何も思わずに通り過ぎるだけの日々だった。
 それが、今日になって、突然、あの色が恋しくなった。
 何の意味があったのだろう。
 コスモスもただ、そこに植えられ、植えられた意味さえ知らない。
 植えられた意味も知らなければ、なぜこんなに群れてひっそり咲いているのかもしれない。
 自分がどうして今日、思い立って、このコスモスを見に来たかったのかも、知れない。
 でも、見たかった。
 その、色、が、恋しかったのだ。
 

 小川をまたぎ、あぜに足をかけると、しゃがみこみ、赤い花弁に手を触れて、ひいてみた。
 花は茎をしならせながら近づいた。
 花弁はしっとりと濡れていて、露を含んでいた。
 頬に花弁を近づけて、触れてみると、優しい、柔らかい感触が伝わる。
 口づける。
 そっと手を離すと、花は水をほころばせ、少し揺れて、また、群生した花弁の中に紛れた
 遠く群生するコスモス畑をみつめて、はあ、と、息を吐き出した。
 時にすれば一瞬のものなのだ。
 その一瞬を過ぎれば、盛りも終わるのだろう。
 でも、毎年、毎年、ここにあり続ける限り、その「時」は存在するのだ。
 見逃してきたものを、今、つかんで、得たものは、何かはわからなかった。ただ、グレイの景色の中に浮かぶ、不似合いなほどの、赤、黄、ピンク―――
 目の奥に焼きついて、しばらく忘れられないだろう。
 また、来年も来るだろうか。
 再来年も来るだろうか。
 誰が知るだろう―――この、静かな息吹の対面を、一体、誰が知るのだろう――
 いいのだ、
 それでいいのだ。
 一瞬を、胸に焼き付けて、それで、今、だから今、それで、いいのだ―――
 ただ、この花を見たかった、今日の目的は、ただ、それだけなのだ。
 

 あぜから、アスファルトの道路へと降りた。
 道の上を、どこからか、小川の水があふれて、斜めに走っている。
 気がつけば、道を線路へと下るにつれて、空が暗くなるのを感じた。
 外灯が灯りはじめたが、それもまた、灰色の中に白く色を放っていた。
 足音は静かに、バス停へと向かう。
 やがて、濃紺がたれこめて、世界を闇へと包むだろう。
 それでも、花は、咲いているだろう。
 その濃紺の中でも、静かに、ひっそりと―――
 生きている

(2001.12.29)


 

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