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 おさななじみの千尋が、通っている英会話教室の夏季講習にあまりに誘うので、千尋がその塾に行っている間遊び相手もいないことだし、結局伸子は二日目から参加することにした。
 二人の家から東に田んぼの中の道路を、十五分ほど歩いた所の家にある離れで開かれたその教室は、子供ばかりに英会話を教える教室だった。本当なら、英語なんて中学にあがらないと触れることなんてないと思っていた伸子は、触れたことのない言葉に触れる、それだけでドキドキだったが、違う学年の生徒と混じって勉強するという初めての経験にもドキドキだった。
 それでも、来年になれば結局中学にあがって英語を勉強しなければいけない、ということで、両親も、特に勧めもしなかったが反対もせず、「ちいちゃんがいれば大丈夫」とばかりに夏季講習に参加することになった。
 伸子はその日、千尋と二人で教室まで歩いて行った。いくら都心よりは涼しいと言っても、日中焼けたアスファルトの上を歩いていくので、十分暑い。歩くことよりも暑さに息切れして、うんざりした頃、二人は教室についた。
 千尋が、
「伸ちゃん、こっち。」
というので、教室の離れの方には入らず、本宅の方につれていかれた。伸子が緊張して千尋に従うと、千尋は「せんせー」と言いながらガラガラと引き戸を開ける。家は、この辺によくある純日本風の家で、家の中央にある玄関を入ると、すぐに広い石畳と板の間がある。クーラーがきいているわけではないが、家の奥から涼やかな空気が漏れて、伸子の上気した肌をわずかに冷やした。
 少しホッとする。
 先生が、部屋の奥から「はーい」と言いながら出てきた。先生は、日本人だった。ちょっと若いおばちゃんだった。優しそうな奇麗な人だ。おばちゃん、――もとい、先生は、伸子の顔をみつけると、にっこり笑った。
 千尋が横から、
「ほら、昨日言ってた河原伸子さん。」
「そう、こんにちは。はじめまして、河原さん。よろしくね。」
先生の発音は標準語できれいだった。伸子はちょっと怖気づいて後ろに引き下がろうとする。と、横から千尋が手を握った。
「こ、こんにちは。よろしくお願いします。」
伸子がそういうと先生はにっこり笑う。
 先生は手に持っていた書類を伸子に渡すと、
「これ、教室に入って書いててくれるかな?」
そう言って、またにっこり笑った。
「千尋ちゃん、わかるわね、河原さんに説明してあげてくれる?」
「うん、わかった。じゃ、伸ちゃん、行こ。」
そう言って、千尋は握った手を引っ張り、伸子を外につれ出した。中から先生が、
「あ、クーラーつけてないから、つけなさいね。」
と声をかける。千尋が、「はーい」と返事をした。
 千尋が勢いつけて教室のドアを開けると、中は電気もついていず、薄暗かった。誰もまだ来ていない。千尋が入り口で靴を脱いで下駄箱に並べるのに習って、伸子も靴を脱いだ。千尋が「バカ暑いじゃん、やってらんなーい」などと言いながら部屋の電気をつけ、クーラーのスイッチまで走って行く。部屋の中の、蒸し暑い空気のカタマリに、伸子は一瞬息がつまるかと思った。
「これ書くの?」
と伸子が千尋に書類を示しながら尋ねると、千尋はホワイトボードの横にあるクーラーのスイッチのところから、
「そ。名前とー、住所とー、電話とー、あとアンケートか何か」
書類を見ると、確かにそんな書類だった。教室は長机がホワイトボードに向かって縦に二列、机を椅子が向いあわせはさんだ状態で、並べてある。
「どこにすわったらいいん?」
「どこでもいいよ。早いもの勝ちやもん」
言うので、伸子は目の前にある椅子をひいて、書類を書き始めた。その向いの席に千尋が腰を下し、伸子が書くのをのぞきこんだ。
 名前、住所を書いてアンケートを書き始めたところで、誰かが教室のドアを開けた。
「へロー!」
へろお?
伸子が顔を上げると、千尋が「へロー」と返している。
「誰? 新しい人?」
と、入ってきた彼女が訪ねると、千尋が「うん」と答えた。伸子の頭の中でヘロー、へロー、という言葉が回り始めると、教室の外が急にうるさくなって、教室の中にヘロー、ヘロー、という言葉が次々に響く。
「伸ちゃん早書かんと、授業始まるで。」
横から千尋が言うので時計を見ると、一時少し前だった。伸子はヘローショックに襲われながら焦っていた。書類は後半分、アンケートを書き終えるだけだ。
 最後の方を書いている時に、先生が入ってきた。
「河原さん、書き終わった?」
尋ねるので、顔をあげると千尋が、
「ううん、あとちょっと。ほら、のぶちゃん、急いで。」
 急いで書き終えて、待っていた先生に渡した。教室の中を見まわすと、知らない顔がいっぱいなので、なんだか伸子はモジモジする。
 先生が出席をとります、と言って千尋の名前が最初に呼ばれた。千尋は何か答えたが、ききとれない。先生が順番に名前を読み上げていくと、みんな何かわからない言葉で答えている。狐につままれたような気持ちで伸子がすわっていると、最後になって伸子の名前が呼ばれた。なんと答えていいかわからず、みんなから注目されたのも手伝って、パニックにおちいっていると、目の前の千尋が小さな声で、「アイム、ヒア」と繰り返しているのに気がついた。
「え? それどういう意味?」
伸子が尋ねると千尋は、
「『私はここにいます』。」
それで伸子は、どもりながら先生の顔をみつめ、叫んだ。
「アー、アイム、ヒア!」

 

 ふと、伸子は目が覚めた。
 覚めたが、部屋の中が薄暗いので、まだ夜が明けていないのだということを寝ぼけた頭で理解した。真っ暗ではないから、部屋の壁にかけてある時計がぼんやり見える。
 五時少し前。
 子供会のラジオ体操で、毎日六時に起きなければいけない。いつも起こされなければ起きられないのに、今日に限って一時間も早く目が覚めてしまった。もう少し寝よう、と思った。
 瞬間、伸子の左手首内側に、激しい痛みが走った。
 くるぶしから少し下、内側のところから始まって、何か鋭い刃物の痛みが、ためらいもなく真一文字に走って行く。
 伸子は思わず、声をあげずに叫んだ。
 その痛みで完全に目が覚めてしまうと、不可解な痛みの原因を探るため、起きあがり、左手首の内側をみつめた。
 ない。
 痛みを感じるべき原因の傷がない。
 そんなばかな、と、目を凝らす。しかし薄暗がりの中でも、伸子の手首は何かがかすった跡さえなく、美しいままだった。
 伸子はベットの上に起きあがった姿勢で、痛みの位置をみつめ、それからベットの周囲を見渡した。
 そうなのだ。
 彼女の手首を傷つけるものは、この周囲には何もないのだ。
 伸子はわけがわからず手首の内側をおさえた。しかし、激しい痛みは未だ去らない。
 痛みに、涙がこぼれそうだ。
 時計を見上げると、未だ五時をまわらない。
 小鳥のさえずりがチュンチュンと外から響いてきて、閉じられたカーテンごしから朝の清涼な空気と、外の明かりばかりが漏れていた。

 

 伸子の母親が朝、台所と食堂が一緒になった部屋に起きていくと、少なからず驚いた。珍しく起こす前から娘の伸子と、それから、毎日五時には起きているが、起きていても顔など出さない姑とが、二人並んで座っているのだ。
「おはよう」
母親が声をかけると、二人とも何でもないように「おはよう」と返してくる。伸子の方は、カップスープか何かで、姑の方はお茶を飲んでいるらしい。会話もなく、静かだったので、二人がいるのに余計驚かされたのであったが、母親は、「まあ」と言ったあと、どちらに声をかけたものかと一瞬迷い、
「伸ちゃん、あんたどしたん。起こす前から起きてくるなんて。」
と伸子の方に声をかけた。
「別に、早目覚めたし。」
そう言ってまた、カップに口をつけた。
 母親が時計を見ると、六時五分すぎだった。そういえば補習で夏休みも学校に行く、長男の耕一を起こさなければ、と思って、食堂を出ようと思った時、ふいに伸子の左手首の白い布に気がついた。
「伸子。」
母親に声をかけられ、伸子は顔を上げた。
「伸子その腕どないしたんな。」
母親の顔がみるみるくもって行くので伸子は少し怖気づいた。
「どうもせえへん。痛いからおばあちゃんに巻いてもろてん。」
「痛いて、ケガでもしたんか。」
「ううん、してへん。」
「でもその布。」
「だから、あたしが巻いてやりましたんや。」
母親の口調がきつくなるので、横から姑が口を挟んだ。
「え?」
ろうかから足音が聞えて、ドアノブを触ったかと思うと、父親が騒々しく姿を見せた。
「うぅうあぁあ、おはようさん。」
大きなあくびをしながら入ってくる。父親は部屋に入ってすぐ伸子をみつけると、
「お、伸子や。今日はちゃんと起きてきたんか」
と大きな声で話し掛けた。
 伸子がむっつりしているので、そこで父親はすぐ部屋の中の空気がおかしいのに気がついた。母親は変な顔をしているし、姑、つまり彼の母親は珍しく食卓にすわって、すわっているのに我関せずな様子でいる。
「何や、何かあったんか。」
 そこで父親のマイペースに黙っていた母親が、
「ちょっと伸子、その腕見してみなさい。」
「なんともあれへん言うのんに。」
「おう、おい、伸子、その腕どしたんや。」
言うだけの母親よりも早く、父親が伸子に近づき左腕を取り上げた。
「あたしが今朝部屋ぃおったら、伸子が腕痛い言うて入ってきたんで、布巻いてやっただけや。何もケガしとれへんよってに、布しか巻いとらん。」
祖母がそういうので、父親は伸子と祖母を交互に見て、それから伸子に「ホンマか?」と問うた。
「うん。」と伸子が何でもないような様子で答えるので、「したら見してみ」
「ええよ、でもホンマに何もないねんで。寝てたら急にいとなってん。」
話す伸子の言葉をききながら、父親は布を解いていく。さらしの細い布だから、間違いなく祖母に巻いてもらったものに違いない。それでも部屋の空気は緊張していた。
 布が解けた。と、その露になった表面を見て、ホッと息をついた。
「なあんや、お前、人騒がせなやっちゃなー。」
母親もホッとした様子を見せたが、伸子と祖母だけはなんともない様子で、
「騒いでんのは、お父さんとお母さんだけや。」
そう言いきった。
「そやかて、あんた、そんなところにそんな布巻いてたら誰かて…」
母親がそう言ったところで、玄関の方から、
「のーぶーちゃーん、いーこーうー」
と千尋の声が聞えてきた。
「あ、行かな。ちぃちゃんや。」
伸子は立ち上がった。立ち上がりながら、伸子ははずされた左手首にまた布を巻こうとする。それを見た母親は、
「ちょっと待ちなさい、伸子。なんともないんやったら、そんなん巻いて行きなさんな。」
「え、でも、痛いんやもん。」
「そんでもケガもしてえへんのに、そんなん巻かんでよろし。人が見たら、何やと思うやないの。」
それで、もう一度、玄関から、「のーぶーちゃーん」という声が聞えてくる。千尋の声に父親が部屋を出て、玄関の方へと歩いて行った。
 伸子はむっつりとした顔で母親の顔をうかがって、それからその白い布をテーブルの上に置くと、左手首を押さえたまま、「いってきまーす」と玄関の方へかけだした。
 伸子が出て行ってしばらくすると、父親が戻ってくる。
「何や、ちぃちゃんは、日に日にきれいになりよるな。」
などと千尋の噂話をして入ってきた。
「あれの母親はべっぴんさんやったからな。やっぱり血ぃは争えんわ。」
「あなた!」
父親の言葉に、母親は思わずたしなめた。
「安藤さんとこでは奈美さんのことは秘密にしてはって、千尋ちゃんも今のお母さんがホンマのお母さんやと思てはるのんに、そんな軽々…」
「でも、べっぴんさんはべっぴんさんや、言うてるのやし、別にええやないか。」
「あきしません。そんなん言うてたら、どこでいつうっかり言うてしまうかわかれへんやないの。」
母親は伸子のことで気が高ぶっているのか、口調がきつい。父親は肩をすくめながら椅子にすわった。
「しかし、伸子は何であんなとこ痛とがっとんやろか。おばあちゃん、なんぞきいたか?」
祖母は一呼吸置いた。
「朝目ぇが覚めたら、なんや、ここに、」言いながら、祖母は左手首の内側をこちらに見せ、「こう、」といいながら、線をひいてみせた。「痛みが走ったんやと。」
それを見ながら父親は、「ふうん」と口を曲げ、
「何ぞ、またきたんかいな?」
母親は父親の言葉にヒステリックになって、
「また、最近治まってたと思ったのに! そんなこと言わんといてください。」
「言わんといてくださいて言われても、確かに手の方はホンマになんともなかったし。それより、医者にでも見せてみるか?」
母親はそれで口をつぐんだ。高ぶった感情の吐き口がみつからなくて、むすっとした顔で立ったまま考えこんでいると、祖母が、「おかあちゃん」と母親に声をかけた。
「耕一起こさんでよろしいんか。」
我に返って時計を見ると、時間は六時半を回ろうとしていた。

 

 縁側の向こう側は、まぶしい程の日向だった。部屋の中はクーラーがよくきいているけれど、もう日中の暑さを思わせるような日差しの色を見せていた。庭先をみつめる少年の目に、ゆらゆらと陽炎が揺れているのが映る。
 少年の景色は、少年自身はほとんど動かないまま次々に変えられていった。あの、家を一歩でれば住宅だらけの街――少年の窓からは空と向いのビルぐらいしか見えなかったあの場所から、少年は突然この村に連れてこられた。――いや、運ばれたのだ。
 そこが父方の親戚の家だということは、以前一度つれてこられたので、彼は知っている。彼はそこに、「環境が変わるといいかもしれない」「少し距離を置いて」という理由で、連れてこられたのだ。
 でも、そんなことは、どうでもよかった。
 今の彼にとって、世間の何ものも、どうでもよかった。
 ただ、この場所には、彼を見つめる何ものもない。
 ただ、世界を、じっとみつめていればいい――ただ生きて、全てを放棄していればいいのだ。
 それでも、遠い過去――実はとても近い過去かもしれないが、彼の中に記憶が過る。あの庭先の陽炎の中に、ぼんやりと浮かんでは、彼に話し掛けるのだ。
「――くん? ――くん? 人の話きいてる?」
 彼女はよく、彼に話しかけた。彼とは二年生から同じクラスなのだが、今年は前期、二人そろって学級委員になった。
「――先生がね、職員室に―――て、来てほしいんやて。なんか、話があるって。」
彼女が話しかけているのに、所々言葉を逃してしまう。集中しようとするのに、世界がとても遠い。
「え?」と彼は聞き返した。すると彼女は、少し怒った様子で、
「もう、真面目にきいてー、最近の吉井くん、全然らしぃないで。」
「あ、うん、職員室な。うん、わかってる。今かな?」
「え、うん、今。」
言われて、彼は時計を見た。
「じゃあ、急がな。行ってくるわ。」
彼は立ちあがった。昼休みなのだ。教室を出ようとすると、友人の誰かが彼に声をかける。何か言ったが、聞き取れず、彼は笑顔だけ向けて手を振った。
 教室を出て行く。
 ふと、彼は意識が遠くなった。
 廊下が陽炎のように揺れている。
 これから、廊下を歩いて、ショクインシツに行って、行、かなければ、センセイに――センセ――
 規則正しく歩を進めながら、彼の前の景色がゆっくりと消えていく。
 何かが静かに壊れていた。しかし、それはもう彼が自分の力で修正できる代物でも、なかった――、音もなく、確実に――。
 残酷だった。世界も彼も。全てが、残酷だった。
 何もかもが、あまりにも彼の世界と離れていた。

 どうも家にいると母親に何か言われそうなので、伸子は誕生地まで来てしまった。都心部に比べれば涼しいと言っても、やはりこの季節は暑い。しかも誕生地は地面の大半が石で固められてしまっているので、この季節に、もの思うには適切な場所ではないかもしれない。
 伸子は誕生地の裏側に、東屋風の屋根がついたベンチと椅子の、その椅子に腰をかけて、机の上にダランとうつぶせになった。何をするでもない。蝉の声もうるさいし、風が吹くたび木々が騒ぐ。
 暑い。
 伸子はログ仕立ての机にうつぶせたまま、手首の内側をみつめた。それから首を動かして頭の位置をかえると、別の方向から手首をみつめた。
「原因不明」
ボソリとつぶやいた。
「うーん、痛いなあ」
痛みはずいぶん失せたが、全く消えたわけではなかった。
 母親が神経質になった理由は二つある。
 こんなところに白い布など巻いていたら、手首を切って自殺をはかったのではないかと疑ったこと、そしてもう一つは、布をはずしたら傷などなく――つまり、ここ最近口にしなかった「見えないもの」のことに関係するようなことを言ってしまった、ということにあった。
 「見えないもの」は正確に言うと、ここ最近口にしなくなったのではない。見えなかったはずのものが見える、あれが、最近本当に見えなくなってしまったのだ。ごくたまに、影が過るように、伸子の視界の端に浮かんでは、消えていくだけなのだ。きっと、連中がいなくなってしまったのではない。伸子自身が、そういうものが見えなくなったと考えたほうが正解なのだ。
 でも考えてみれば、今朝のようなことは今まで体験したことはなかった。全く原因不明の激しい痛みが、彼女の体を襲うことなどなかったのである。だから今回のことに関しては、伸子自身が不可解なのだ。まして、周りに説明することなど出きるはずもない。にもかかわらず、痛みは確実で、未だその手首にはっきりと残っている。
 伸子は目を閉じた。
 そういえば今日はコレのせいで、起きるのがずいぶん早く、何だか寝不足で目が痛む。キュッと強く閉じて、彼女はまた薄く目を開いた。机のデザインは木でも、実際はセメント仕立てだから、つけた頬から、どこまでも冷たい感触があがってきて、涼しいを通り越して、本当に冷たい。机の上に視線を落とすと、誰もあまり使わないのか、砂がわずかと、それからアリが一匹歩いているのを発見した。アリは体の大きいアリで、チョコチョコと動きまわっていたが、机の端まで行くと見えなくなった。
 と、どこか遠くから声がきこえてくる。声は細く、長く延びて、近づくにしたがって伸子のことを呼んでいることがわかった。
 千尋だ。
 伸子が机にうつぶせたままでいると、誕生地の石碑と郷土資料館の間を、伸子のいる裏手の東屋に、足音が近づいてくる。千尋の姿が視界に入って、
「あー、おったー!」
と声が聞えたかと思うと、伸子の方に走りより、目の前の机にかけのぼって、
「伸、あんたどしたん。十時から一緒に宿題しよ、言うてたやん。」
そう言いながら、伸子の頭に手を置いて、彼女の顔をのぞきこんだ。伸子はふと、千尋との約束を、すっかり忘れていたことを思い出した。
「何や、おばちゃんと喧嘩したん?」
千尋は向い合わせの机に腰を下し、伸子と同じ格好にベタっと机に顔をつけ、伸子の顔を見た。
「ううん、してへんよ。」
「してへんのに、何でこんなとこおるん。」
伸子は千尋の問いに答えを考えたが、面倒くさくなって机から頭を上げると、
「今朝な」と口を開いた。
「ふん」と答える千尋の方は、机にうつぶせたまま、目だけ伸子を見上げている。
「ここのところ」と言って伸子が左手首の内側を千尋の方に示し、「こうまっすぐに」と手首の上を右手人指し指で真横にまっすぐすべらせた。それで千尋は頭を起こし、正しい姿勢にすわりなおした。
「痛みが走ってん。」
千尋が体を乗り出して顔をしかめた。
「だからな」
「何があったん。」
「何もないよ。寝てたら痛みが来たんやんか。」
「何にもしてないのに?」
「ふん」
「ふーん」
千尋は考えるように、東屋の外に視線を泳がせた。
「それでおばちゃんと喧嘩したんか?」
「ううん、あんまり痛いからおばあちゃんに布巻いてもろてん」
「ふーん、それでおばちゃん、怒ったん?」
「怒ったわけちゃうけど…、うーん、そうやなあ、怒ったんかなあ。」
「何でそんなことぐらいで怒るん?」
「さあ…」
伸子は小さくため息をついた。千尋は伸子のそういうことは昔から知っているし、それはそれで伸子の「見える」ということは認めていたのだ。だから、彼女には、伸子の母親の反応は「そんなことぐらいで」としかとれない。母親の思うであろうことを細かく説明すれば千尋も理解するのであろうが、そこまで彼女に説明するのも面倒くさいし、一生懸命説明しても、彼女は頭でわかって実感はできず、やはり「ふーん」で終わらせてしまうだろうと予測した。それで、伸子は細かい説明を省いた。
「あ…」
と千尋は思い出したように小さく声を上げた。でも、千尋はつぶやいたまま言葉を継がず、正面を直視したまま黙っている。
「何?」
千尋はその姿勢のまま、机につっぷしたままの伸子に視線を落とし、「ううん」と首を振った。それかたまた視線を戻して、何も言わないので、もしかしたらその視線の先に何かあるのかと振り向いて千尋の視線の先を探してみる。しかし、木々の枝葉の先に、いつもの村の景色が見えるだけで、それらしい変化はない。伸子は千尋の顔に視線を戻した。そうしてもう一度、
「何?」
と尋ねた。
 すると、千尋は机の表面に視線を落とす。
「ううん、だって、伸子のそれって、今朝の話やろ?」
「うん。朝の五時前」
「じゃあ、違うわ。関係ないやろ。」
「何が?」
「え、ううん。」
「ううん、違うやん。言いかけてやめんといてよ、気持ち悪い。」
伸子にそう言われて、千尋は言うか言うまいか迷った挙句、言いにくそうに、「あんな」と言葉を発した。
「夏休みに入ってすぐに、うちの親戚の家――ああ、門屋さんとこやねんけど、そこに、男の子が来てん。」
「男の子? 泊りに来たん?」
「ううん、療養って。」
「リョウヨウって何?」
「療養って言うたら、病気とか治すことやんか。」
「へえ、その子病気なん?」
「ン…」
といって、千尋はまた言いよどんだ。
「何や、言いかけたんやったら、最後まで言いや。」
それで千尋はまた姿勢を正した。
「うん、その子っていうか、中三やから、あたしらより年上なんやけど」
「ふんふん、それで?」
「伸子の言うたところに、傷あるねんて。」
千尋の言葉に、伸子はわからず背筋が寒くなった。それから、「え?」と問い返し、
「その人、その傷を、治しにきたん?」
千尋は首を横に振った。それから、伸子の耳に顔を近づけ、小さな声で、
「ココロの病気。」
伸子の胸の中に、サクリ、音を立てて何かがささった。
「ココロの病気?」
体を起こして千尋と伸子は向いあった。千尋はすぐに、伸子の顔色で彼女の心を読み取った。それで、そっと、ゆっくりと、言葉を選びながら、
「原因はまだわかれへんねんけど、でもな、もうそれ、十日も前の話やねんで。」
「え? 何が? ココロの病気が?」
「ううん、その、傷…。」
伸子は考えるように、誕生地の石碑を取り囲む楠の木の緑に視線を移した。それから得心行かぬ時に彼女がよくする、ぼんやりとした目で、
「でも、あたしが痛かったのは、今朝やわ。」
「うん、だから、関係あるかどうかわかれへんけどって。」
伸子は答えなかった。答えず、楠の木から視線を戻して、机の上にヘニャヘニャと体をつけた。頬に当たる表面の石の感触がなおさら冷たい。
「わかれへんわ。」
伸子は机の上にペットリ体をつけたまま続けた。
「なんか、ようわかれへん。」
伸子は目を閉じた。目を閉じると、世界は真っ暗だけど、蝉の鳴き声がヒステリックにうるさい。その音がただうるさく耳に残るので、伸子は眉間にしわを寄せた。それからゆっくり体を起こすと、
「それってどんな人なん。見たん?」
「え?」
「その男の人。」
「うーん、きれいな人。」
「え? きれい?」
「うん。」
「男の人やねんろ?」
「うん。」
「どれぐらいきれいなん? ちぃちゃんぐらい奇麗?」
伸子の質問が具体的に過ぎるので、千尋は少し困って、
「そんなんわかれへんわ。」
「その人って会えるん?」
「う、ん。会おう思たら会えるんちゃう? おばちゃんまた来てね、言うてたし。」
「おばちゃんって誰のおばちゃん?」
「その、男の人の。」
伸子は考えるように黙った。目の前の楠の木が風で揺れて東屋の中に涼しい風が吹き抜けた。
「でも、全然しゃべれへんねん。」千尋は言葉を続けた。「お人形さんみたいに、ずっとじっとしてるねん。」
千尋の言葉をききながら、机に両肘をついて、伸子は両手で両目をこすった。
「宿題どうする?」
千尋がつけたすように言った。すると、伸子はこすっていた両手をパッと離し、
「ごめん、忘れてたわ。」
「ほうら、どうせそんなことやと思たわ。」
「そや、早帰ってやろ。」
伸子が立ちあがった。それに続いて千尋も立ちあがると、二人そろって駆け出した。千尋が「何で走るん?」などと言いながら、やはり走っている。
 資料館の建物の脇を抜けると、夏の日差しが体に振りかかった。
「う、わあ、あっついなあ。」
思わず伸子は声に出した。影をもたないアスファルトが、もう焼け始めている。
「のぶー?」
先に走る千尋が声をかける。
「なにー?」
「あたし一回家帰ってくるわ。」
「なんで?」
伸子が問うと、走りながら、千尋が振りかえる。彼女の方が伸子より背が高いので、逆光のせいもあって、表情がよく見えない。
「トイレ行きたいから!」
しゃべりながら走るうちに、伸子と千尋の家の別れ道に来てしまった。伸子が立ち止まり、そこで足踏みしている千尋の姿をみつめた。
「なんで、うちで行けばいいやん。行って帰ってきたら、十分近くかかるやろ?」
「えー、だって、今日アレやもん。」
「アレって何?」
「アレはアレやん。耕ちゃん昼で帰ってくるんやろ?」
「お兄ちゃん昼で帰ってくるのと、何の関係あるん?」
「ええやん、そんなこと。とにかく、うち帰ってくるし。」
千尋の声はだんだんヒステリックになって行く。こういう時の千尋は逆らったら怖いので、伸子は深い詮索はやめた。
「でも、ホンマにうちの使ってええねんで。」
千尋は少し考えた末に、自分の家の方向に足を進めながら、
「いややわ、だって、」言いながら、ますます遠ざかっていく。「おばちゃんに、バイタやと思われるわ。」
それで千尋は「バイバイ!」と大きな声で言って、駆け出した。伸子は伸子で、度肝を抜かれてそこに立ち尽くし、走る千尋の後姿を見つめ続けた。それから小さく、
「バイタって何?」
つぶやいた。

 

 夏の日差しが暑く、伸子は日差しから逃れるように、家に向かって走り出した。
 伸子がうちに帰ると、家に中から「伸子かー?」という母親の声がきこえる。伸子は急いでいたので、そのまま階段までかけて行った。階段を駆け上がっているところで、母親が台所のドアを開けて出てきた。
「伸子、さっき、ちぃちゃんが宿題する約束したって、来てたんやけどな。」
「うん、誕生地で会うたわ。」
「ああ、さよか。それで、千尋ちゃんは?」
「一回家帰って来るって。」
「ふん、じゃあ、来やったら、お昼うちで食べて行き、言うたって。」
「わかった。」
「あんた何急いでるんな。」
伸子が話しながら階段の途中で足踏みしているので、母親はその様子をとがめたのだった。
「なんかちぃが難しこと言うてん。だから、調べよ思て、」
「さよか、やったら早行き。」
言われて途端に伸子はかけあがった。自分の部屋に入り、本だなの扉を開けて、小学国語辞典を開ける。さっき千尋が言った「バイタ」という言葉をひいて見た。
「ない。」
「歯痛」ならあった。でもそれならわかる。トイレに行くと歯痛だと思われるというのも意味が通らない。
 伸子は立ち上がり、さっきかけあがった階段を駆け下り、下の居間へと走った。それから、居間の本棚にある「国語辞典」をひっぱりだすと、「バイタ」をひいてみた。
「あった。」
伸子は「ばい−た」の項を読んだ。
「売女(名)?不特定の男性と性行為をして金を得る女性。売春婦。『―にも劣る』?不貞な女性を卑しめののしっていう語。『この−め。』」
伸子は首を傾げた。まず、「性行為」の意味がわからない。それでサ行の項に移って、「性行為」をひいてみた。
 ない。
 仕方がないので、他の語を探してみた。「性行」というのがあるけれども違うのだろうか。
「性行(名)その人の日常に見られるひととなりやふるまい。性質と行動。身持ち。」
を、手で挟んでおいた「売女」の項と比べてみたが、どうもピンと来ない。仕方がないので、「身持ち」の語をひいてみた。
「身持ち(名)?倫理的に考えての、日ごろの行いや態度。品行。『―が悪い』?胎内に子供ができること。妊娠すること。『―になる』『―女』」
 それでまた、「売女」と照らし合わせてみた。「身持ち」の?の意味ではよくわからないから、?の方だろうか。すると、不特定は、たくさんの、の意味だから、「たくさんの男性と子供ができて、金を得る」ということだろうかと思ったが、それもどうも千尋にピンとこない。
 考えたあげく、やっぱり?の意味かしら、と今度は「倫理的」の意味をひいてみた。
「倫理(名)(『倫』はなかまの意)?社会生活において守るべき道理や法則。人倫の道。道徳。『―感の欠如』『―にもとる行為』『企業の―』?(「倫理学」の略)道徳のもととなる理論を哲学的・科学的に研究する学問。『―の講義を受ける』」
 ?の意味がいけるのではないだろうかと、「売女」の項と比べてみる。
 「たくさんの男性と倫理学をして金を得る女性」
 それから千尋の姿を思い浮かべて、いける!と思ったのだが、それがうちのトイレに行くこととどう関係あるのだろう、と思って、伸子はわけがわからなくなった。
 国語辞典をかかえながら、しばらく見るでもなく文字の羅列を眺めていたが、突然、
「うあああああああ!」
と吠えて、伸子はその場にゴロンと寝転がった。
「ちぃは難しい。」
目を閉じる。
 板の間の居間から、外が見える。よしずを立てかけていないので、照り返しがまともだ。
 ふと、また手首に軽い痛みが走った。伸子は顔をしかめると、右手でそこを押さえた。痛みと共に暑さでジリジリと汗がにじむ。
 こんなに暑かったら、死にたくなるのもわかるような気がするよ、と遠い目で日差しの中をみつめる。そして、まだ見ぬ少年の姿を心に思い浮かべた。 

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