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 今年の春小学校に上がったばかりの伸子は、夏休みを目前にひかえてようやく母親の「お見送り」なしでも平気で学校へでかけられるようになった。母親のつきそいがなくなってから、玄関でいつまでもグズグズしていた彼女だったが、つい先日、家の前に群がる兵士たちが、実はとても友好的だということに気がついて、平気になったのだった。
 その日も伸子はいつものように、ドアを開けた。家の扉を開けると、今はもう休耕田となった田園風景が、段々に広がっている。大阪でただ一つ残された村な上に、伸子の家は集落を外れて新築されたので、近辺に家が少ない。子供も少ない。故に学校は集団登校であるにもかかわらず、坂の途中にあるいっちゃんの家まで、一人で歩いて行かなければならなかった。入学して最初の一ケ月は、六年生の班長さんが坂の下から迎えに来てくれていたが、その一ケ月を過ぎると、段々のたんぼの間をぬって蛇行する坂道の途中に、民家がまばらに屋根を見せているだけの中を、たった一人で歩いて行かなければならなかった。  
 小学校に上がるまでは、いつも母親にぴったり寄り添って、何者かから身を隠すように歩いていた。そうしなければ、伸子には見えてしまうのだ。
 坂の途中、電信柱の横に、いつも立っている女。
 母親には見えないという。
 遠くのたんぼの中に立っていつも伸子をみつめ伸子が出かける時には笑って手を振るオジイ。坂の下の大木にいる、皺くちゃな顔のオバア。そして、家の前の道路を挟んだたんぼにいつも、たくさんたくさん並んでいる、鎧を着けた兵士たち。
 伸子の村は大昔、戦場だった。人がたくさん、死んだのだという。
 しかし伸子はその事実を知らない。
 幼さが、理解させないのだ。
 伸子がいつものように玄関を開ける。すると、家の前には、休耕田になったたんぼに貧相な草が呆然と立ち尽くしている。しかし伸子には、その呆然と立ち尽くしているのが草ではなく、鎧を着た兵士に見えるのだ。
 二十体…三十体?
 伸子は長い間、その兵士たちが見えないフリをして過ごしていた。しかし、一人で家を出されるようになると、次第に平静を失っていった。しかもそれが、悪いことに兵士たちにばれてしまったらしい。
 彼らは母親の「お見送り」のなくなったある日、一人でしょんぼりとおびえながら歩く伸子の後ろを、隊をなしてついてきた。坂の途中のいっちゃんの家まで。そして彼らはいっちゃんちまで来ると、立ち止まって伸子を見送った。伸子が恐る恐る振り返ると、母親がそれまでしていたように、彼らはそろって手を振っている。伸子はそれを見ると、慌てて前を向いたのだった。
 コワイ―――!
 一体何日、伸子がその恐怖を体験しながら過ごしたことだろう。
 ところがある日、伸子は坂の途中まで来て、ある恐ろしい事実に遭遇した。
 いっちゃん、歯痛でお休み。
 ということで、伸子は一人で坂を下りなければならなくなった。後ろにはいつものように、兵士の群れ。伸子は青くひきつった顔で、体の半分もあるようなランドセルを背負いながら、トボトボと一人で坂を下りなければならなくなった。すると、いつもは見送る兵士たちが、その日に限ってついてくるのである。
 伸子の顔は歪んだ。
「ぎぃやあああ――――――!」
 彼女は泣き出した。泣きながら走った。しかし兵士たちも、伸子の後を走ってついてくる。
 伸子は勢い余ってこけた。顔からのヘッドスライディングである。
 しかし兵士たちは何もしない。
 心配そうに伸子を取り囲んで眺めている。
 ランドセルの重みも手伝って、顔からスライディングした伸子の顔面は、おでこを先頭にあちこちとすりむけてしまった。伸子は起き上がりながら、ンフン、ンフン、と、しゃくりあげる。それから、後ろにいる兵士たちをにらみつけた。
 彼らは申し訳なさそうに肩を落とし、そこに立ち止まった。
 伸子はベソをかきながら、振り向きもせずに坂を下りた。
 そして、その次の日のことである。
 伸子がガーゼだらけの顔でドアを開けると、兵士たちは家を取り囲み、野花を摘んで彼女を待っていた。伸子が胡散臭そうに家の外に足を踏み出すと、兵士は伸子に花を差し出した。伸子はやはり怪訝な顔つきで、上目使いに兵士をうかがったが、差し出されたものを受け取らずに歩き出した。と、やはり兵士たちも後をついてくる。
 伸子は走りだした。
 兵士たちも走りだした。
 伸子が立ち止まる。と、兵士たちも立ち止まった。
 伸子は試みにスキップをしてみた。すると、兵士たちも鎧をカチャカチャいわせて、皆スキップを始めた。
 伸子はとうとう、味をしめてしまった。
 だから今日もドアを開けると、兵士たちが待っている。いっちゃんの家の前まで、隊を成して送ってくれる。そして振り返ると、皆、手を振って伸子を見送っている。
 今日、帰ったら、何しようか?
 皆でカゴメカゴメしよう。
 はないちもんめしよう。
 鬼ごっこしようか。
 戦争ごっこも…

 南朝の英雄、楠正成の生誕の地であるという、その村に彼がやってきたのは、七月半ばの平日だった。一般企業のサラリーマンである彼は、その日有給をとって家にいるはずだったのだが、突然、その朝思い立ってこの地に来たのだった。思いつくのが遅かったために、ついたのは昼過ぎだった。途中、近鉄電車の富田林駅近辺で昼食をとり、そこからバスに乗った。終点の「森屋」というバス停に降り立つと、まず照りつける日差しに閉口した。大阪でたった一つ残った村だというから、どれほど自然も豊かだろうと思ったのに、バス停から見渡す付近はジリジリと熱を発するアスファルトの世界だった。
 案内標識に従って楠公誕生地を目ざす。ゆるやかな坂をのぼりながら、その暑さに、朝の陰鬱さがまた蘇って来た。
 四月に異動があった。その頃といえば、彼は体調をくずしていたのだが、異動した先の部所では、仕事になかなか慣れなかった。営業部から出版部への異動であり、三十にして係長に昇進した。勤務先や平の異動と違って仕事の内容や責任がまるで違う。そして仕事が不慣れな上に、上司がワンマンだった。入社間もない頃のことであれば、新人の意識も手伝って、今の状況に立ち向かうこともできただろう。しかし、彼の瞬発力は衰えていた。おまけに、一緒に暮らしていた女が出て行った。それが余計、彼を陰鬱にしていたのかもしれない。
 いや、女が出て行った、それが、一番大きな原因だった。
 女は友人に誘われて、数年前にこの村に来たのだと話したことがある。ちょうど、大河ドラマで「太平記」をしていた頃で、どこかの旅行社がバスツアーを企画した。彼女らは、そのツアーに参加したのだという。
「楠公誕生地? 確かあそこやと思うねんけど、空が広く見える土地。山の向こうの低地に海見えるんかと思ったら、大阪市街が見えるんやもん。あの市内の巨大ビルディングやで。コンビニもない田舎、たんぼの中にいてよ、気分は『太平記』で。最低、あのビルどうにかしてよって思ったわ。」
彼女はいつものように、ぺらぺらとよくしゃべった。それをきくともなくきいていた彼は、新聞を眺めながら、
「へえ、いいところ?」
そう尋ねると、彼女は皮肉な笑顔を彼に向けた。そしてどこか遠くへ眼を泳がせて、
「できそこないの田舎。何をしたらいいかわからなくて焦ってしまう。どんなに賑やかでも、一人になると寂しくて死んでしまう。」
それきり彼女は黙ってしまった。
 バス停からゆるゆると坂を五分ほど歩くと、標識があって彼は左折した。少し下って、橋がある。橋の名前は「出会橋」と記されていた。何と縁起のいい名前と思って橋の名前をみつめて歩いていると、道が三方向に別れている。案内標識がないから直進だろう。彼は進行方向に目を向けると、思わず顔を苦らせた。
「うへえ、登りや。」
さっきよりは強い坂が、蛇行して登っていた。山の合間を削ってつくられた道なのだろうか、両サイドが崖に挟まれている。その道を五分ほど上っていくと、サイドの崖はいつしか消え、視界が開けたところで案内標識があった。その案内標識に従って右折する。なるほど、あれが楠正成の誕生地なのだろう。左手に大きな建物があって、右手に木の茂みがある。そして彼は真っすぐ、誕生地と書かれたその茂みへと進んだ。四角に盛り上げられ、椿の垣がめぐらされたその壇の内側には、楠が何本か植えられていて、上の方で枝が屋根を作っている。足元に敷き詰められたジャリ石には、木漏れ日が落ちていた。樹齢何年ぐらいだろう、百年は経つだろうか。幹が古くて太い。中央にはひときわ高く壇が設けられ、「楠公誕生地」と刻まれた石碑がある。
 彼は息をついて、汗をぬぐった。
 奥には「郷土資料館」がある。試みに彼は碑のある壇を下りてその建物に入っていった。入り口で職員の顔がのぞいて、入場料をはらう。奥の展示室に入ろうとして、彼はふと、
「あの下にある橋はなぜ、『出会橋』というのですか?」
と尋ねた。すると職員は造作もなく、
「楠公さんの兵と、幕府方の兵が出会った橋やからときいてますけど…」
彼はそうですかと言って、礼を述べてから展示室に入った。
 先ほど縁起がいいと感心して通ったが、実は少しも縁起がよくなかったのだ。そうだ、喜ばしい出会いもあるが、喜ばしくない出会いもあって当然なのだ。
 こぢんまりとした展示室を見終わると、彼は資料館を退出した。
 アスファルトとセメントで覆われた地面が、憎らしいほど午後の日を照り返している。彼はさきほど、誕生地へと曲がる前に「産湯の井戸跡」という標識を見たような気がしたので、そちらの方に引き返して標識を探した。見るとたんぼの中のあぜ道を通っていくらしい。彼はその道を行きながら、さっきの誕生地の方を振り返った。「誕生地」から、「産湯の井戸」まで、どうしてこんなに距離があるのだろう。これでは水を運ぶのにも、バケツリレーだ。
 と、道が下りになった。たんぼも段になっている。土地が一段下がっているのだと思いながら歩いていくと、井戸の方とおぼしき道に、茶色い小学校の制服を着て、黄色い学童帽をかぶった子供が一人立っている。子供は背をこちらに向けて、まだ新しい赤いランドセルをてりてりと照りつかせていた。少女は彼が来たのも気づかないそぶりであぜの真ん中に立っているので、彼は声をかけようとした。と、その瞬間、少女は振り返った。振り返った途端に、少女は突然顔を歪ませた。
「ぎぃーやーあーあーあー――――!」
彼は呆気にとられた。
 自分の腰ほどしかない背丈の子供はやがて、叫び声をそのまま泣き声にかえて、大声で泣き始めた。
「ちょっ、ちょっと。ごめんよ。おじさん、そういうつもりじゃ…」
彼はたじろいだ。少女は大きく開けた口を曲げて、だらだらと泣いている。オラウータンが泣けばきっとこんな感じだろうと、彼は想像した。
「だ、大丈夫? ごめんね。おじさん、びっくりさせてしもたんやね。何にもせえへんから…」
彼がそういうと、少女は泣くのをこらえるように、しゃくりあげた。それでも、まだ口の歪みはなおらない。少女はその口の歪んだ中から、「コトリが…」とつぶやいた。
「え? 小鳥? 小鳥がどうかしたの?」
彼が尋ねると、少女はまたしゃくりあげた。
「コトリ、来たんかと、あんまり、一人で、遠…いくと、コトリ、来て、サーカス売られるて、おばあちゃんが…」
彼は思考をなくして少女の泣き顔をまじまじと見ていた。それからしばらくして、少女の言うのが「小鳥」ではなく、「子盗り」なのだということに気が付くと、「いつの時代や」と小さくつぶやいた。照りつける暑さも手伝って、彼は激しい倦怠を感じた。

 

 彼は少女の手をひいて、もう一度誕生地の方へ戻った。資料館近くにある自動販売機まで連れていくと、少女に「どれがいいか」と尋ねた。少女は背伸びをしてこれと指さした。
 彼は、冷たい缶を二本手に持つと、
「どこか座れるとこないかな?」
と尋ねた。少女は、誕生地の裏にあると答えるので、そのまま石碑をいただいた壇の裏側へとまわっていった。
 そこで二人はベンチに腰掛けてすわると、彼は少女にジュースを差し出した。少女は怖じて首を振った。
「遠慮しなくていいよ。おあがり。」
「知らん人から物もろたらあかんて、おかあちゃんが。」
「お母ちゃんには内緒にしておいで。おっちゃん、喉カラカラなんや。お嬢ちゃん…名前なんて?」
「のぶちゃん。」
「のぶちゃん飲んでくれな、おっちゃん二本も飲まれへんわ。」
そういうと、彼女は缶ジュースを受け取った。ぎこちない手で開けようとするので、横から手にとって開けてやると、彼女はやっと笑顔をみせた。
 よくしつけられた子供だと、彼は横で缶ジュースに口をつける子供の、長いまつげを眺めた。そういえば、自分にもこれくらいの子供がいてもおかしくない年なのだ。
「のぶちゃんは、何年生かな?」
肩につけている黄色い交通安全の札で既にわかっていたが、彼はこう尋ねてみた。
「一年生。」
「お母さんとおばあちゃんと、他に家族誰がいてるの?」
「おとうちゃん。」
「ふん。」
「おじいちゃん。」
「それから?」
そう尋ねると、少女はじっと考える様子で、
「お兄ちゃん。」
と付け足した。
「へえ、お兄ちゃんは何年生?」
少女は口をへの字に曲げて彼の顔を振り仰いだ。眉間に皺を寄せている。
「中学一年生。」
彼女は怒ったような口調でそう言った。彼は家族構成をきいて何かまずかったのかと思ったが、少女は続けて、
「お兄ちゃん、きらい!」
そう言い放った。
「え? どうして?」
「のぶちゃんのおやつとるねん!」
「そ、そう。のぶちゃんの、おやつ…」
少女はぷいと前を向いた。彼は自分で顔が笑っているのがわかった。
 愛想は悪いが、愛嬌のある子供だ。
 するとふいに、少女はまた彼の方を向いて、
「おじちゃんは?」
と尋ねた。彼が、え、とたじろぐと、
「おじちゃんの家族は?」
少女は続けて尋ねた。彼はどう答えたものか迷ったが、
「おじちゃんねえ、家族いてへんねんよ。」
そう答えた。すると、少女は首をかしげて、
「いてへんのん? お父さんも?」
「いや、お父さんはいるよ。一緒にすんでないんや。」
「何で?」
「その…おじさんは仕事の関係で、お父さんやお母さんと離れて、一人で暮らしてるんやよ。」
「一人で?」
彼がうんとうなずくと、少女は不思議そうな眼で彼を眺めた。
「お嫁さんは?」
こうきかれて、思わず彼の胸はうずいた。彼が答えかねて視線を落とす。しかし少女の顔をうかがうと、彼女はまだ彼の答えを待っている。彼は何かをとりつくろうように、ハハと笑った。
「おじさんね、ふられてしもてん。お嫁さんに来てほしかった、女の人に。」
自分で言った言葉の端からズキリと胸がうずいた。決して、嘘ではなかった。しかし、正しい言いでもなかったのである。

 

 顔を合わせる度に結論のない口論が始まるので、お互い別の部屋に閉じこもったままで、顔を合わせるのを避けるようになっていたのは、いつごろだったろうか。
 ところがある休みの日、楽しむこともなく居間のソファにすわってテレビを見ていた彼の前に、彼女は改まった風情で姿を現したのだ。
「お願いがあるの。」
そう言って、彼女は彼の前に一枚の書類を見せた。堕胎の承認書である。
「もうあんまり時間ないのん。何も言わんとハンコ捺して。」
彼はその書類を見ながら、しばらく動かなかった。複雑な気持ちが心を占める。そして一緒に暮らしているのに、なぜ女が子供を堕ろそうとしているのか、理解できなかった。しかし、彼は目の前の女に、産めばいいじゃないかと思っているのに、またそれを口に出せない。
「印鑑どこ? あたし自分で捺すわ。そこに、名前、書いて。」
女はじれたようにウロウロと歩き回った。彼はたまりかねて、
「何で堕ろすんや。」
彼の問いに、女は動きを止めた。そして彼の瞳をじっとみつめた。その瞳には軽蔑の色が浮かんでいる。しかしすぐに、彼女は視線をそらせた。
「産んだらええやないか。オレの子やろう?」
「産んでどうするの?」
彼女は立ったまま、またイライラと視線を動かした。
「あんたに一生縛られるなんて、ごめんやわ。」
彼はカッとなって立っている彼女をにらみつけた。
「荷物まとめてん。あたしら今日で、終わりにしよう。」
彼は立ち上がった。自分の部屋まで帰ると、イライラと印鑑を探した。まるで、住民票でも取るための書類のように、素早く書き上げて印鑑を捺す。そして居間へと帰ってくると、女に突き付けるようにそれを差し出した。女は彼をにらみ上げている。そして、いつもの、片頬をひきつらせたような皮肉な笑みを浮かべると、それを受け取った。
 彼女は何も言わず、自分の部屋へと引き返した。バタバタと何か支度する音が聞こえる。すると、部屋のドアの開く音がして、玄関へと向かう足音が聞こえた。
「待てぇ!」
彼は居間のドアから女の背中に叫んだ。それから廊下を、足音を立てて近づきながら、
「お前どういうつもりや! 子供一人簡単に、相談もせんと、何で堕ろすんや! しかも、何も言わんと今日出ていくやなんて…」
「相談やったら今したやないの。」
「あんなん相談のうちに入るかあ! 今まででけたともでけてないとも言わんかったくせに。今お前ハンコくれ言うただけやないか。」
「そしたらあんた、ハンコくれたやないの! それがあんたの答えやないの!」
「くれ言うたから捺しただけや。…ちょっと待てや、落ちつこう。」
彼女は肩で息をしている。大声を出したせいというだけではない。興奮の反動なのだ。
「あんたいっつもそう。さっきかて、何で産んだらええやんかとしか言われへんのん? 何で産んでくれて言われへんのん? いっつもそうや。『きみのしたいようにしたらええ』。あたしのしたいようにした。そやのに何で怒るのん? 自分に責任がかかる時だけは、大人ぶって好きにせいというんやわ。自分がのぞむ時は、あたしの気持ちも都合も構わんでしたいようにするくせに! あんたにとってあたしって一体なんやのん。一体なんやのん?」
堂々めぐりの口論の中で繰り返されるいつものセリフを、彼女ははいた。しかし、彼には彼女が訴えることが、一方的ないいがかりだとしか思えなかった。時にはそのセリフが、被害妄想のようにも響いた。そして目の前で彼女は、ため息をはいた。
「もうたくさん。」
そして女は「サヨナラ」の言葉を残して出て行った。
 荷物は後で取りに来させるから――
 女と暮らし始めたきっかけは、ごく簡単なことだった。久しぶりに偶然あった、大学時代の同級生。大家とトラブルを起こして部屋を追い出され、友達の家を転々としていたところだった。部屋は空いてる、よかったらどうぞ、と言ったら、彼女は次の日やってきた。結構いい女だった。でも、最初そんなつもりはなかった。いつのまにか――そう、いつのまにか、そんなふうな関係になった。楽しい日々もあった。彼は自分の年も考えて、そろそろ結婚してもいいかと思った。社会的にも、一家を構えなければいけない年なのだ。彼女なら、いい。一緒にやっていく自信がある。そしてそう考えて、彼女に求婚した。しかし彼女は、しばらく考えてから、
「あんたの相手、あたしやなくてもいいん違う?」
そう言ったきり、彼女は黙ってしまった。
 二人の口論が始まったのは、確かその頃だったろう。

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