snow flower snow

 

 

 暖かい風が吹いています。
 もうすっかり、春のにおいがします。
 花の色を含んだ、甘い香りです。
 それが髪をかきあげ、首筋をなでて、通り過ぎていきます。
 暖かい日差しの中で、それがどこか寂しいのです。
 私はこの季節を知っています。
 待っていたのに、足早に去っていくのです。
 何も残さずに、去って行くのです。
 あれは一体、どこへ行ってしまったのか――。
 
 

 駅の切符売り場の上にある時刻表で、次の列車は「四十二分」と確認した。
 駅舎横にある改札は、階段を数段あがった、その中にある。
 外の景色とは裏腹に、その中だけが幾分薄暗く、寒く、客に早くホームへ向かえとせかしているようでもあった。
 階段をあがって、改札を抜ける。
 彼女はそこで一度、後ろを振り返った。
 誰もいない。
 もう一度ホームへと目を向ける。
 ホームの中にも誰もいなかった。
 特急列車もあわせて四本しかとまらないこの駅で、平日の昼間とあっては仕方がない。線路も単線で、ホームも盲人用タイルが敷かれている以外、殊更な目印は、何もなかった。
 ただ、ホームの脇からホームへ向かって、大きな桜が枝を張り出しているのが目につく。
 桜は駅の中に植えられたものではなく、ホームの外に植えられたものだった。
 大きく枝を張り出したそれは、駅舎よりも背の高いものかもしれない。
 それが、春の日差しをうけて、静かにそこにたたずんでいる。
 花は満開に見えた。
 白い花びらが陽に映え、その存在感をさらに際立たせていた。
 もう花を落とすらしく、よく見ると花の中にところどころ、落ちた後の紅色が見える。
 重い荷物を持ち直し、その桜へ向かって、コツコツと足音を立て、ホームを歩いた。
 桜の前までくると、立ち止まって花を見上げる。
 濃い色の枝に、いくつもの花をつけたその花弁は白よりもわずかに色を帯びている。
 一息つき、線路の方へ目を向け、時計を見た。
 三十八分。
 電車はまだ来ない。
 駅ホーム、線路を隔てて向かいには、竹林がある。この竹林がなければ川が見えるのに、と、いつも思う。
 なぜこんな竹林を放置したままなのだろうと、これもいつも思う。
 それとも、景観のために伐採した方がいいと考える方が、心ないのだろうか。
 この竹林の向こうの川は、西へと向かって流れている。夕暮れ時に一度ここへ来たとき、川にかかる橋の上を二人で歩いていて、その夕暮れの映える川面にみとれたものだった。
 いや、竹林がなければこのホームから見えるはずのものは、その川ばかりではない。
 対岸の山にある桜も、きっと見えただろう。
 閉ざされた袋小路のような場所で、早く電車が来ないかと思った。
 腕時計を見る。
 三十九分。
 この列車を逃せば、次は――
 そう思った時だった。
 目の前を花びらが一つ通り過ぎた。
 途端に、次から次へと花びらが降ってくる。
 風――風でも吹いたかと桜の方を見上げたが、風の吹いた気配もなく、――ちらちらと花が舞い降りてきた。
 ――と、さらに降るように、花びらが、同時に、風も――
 降り注ぐそれに、彼女は思わず目を見張った。
 花は、とうとうと降り始め、風に流れた。
 ふと、その淡く色をそめて降る景色に、あの、雪の日の記憶がよぎった。
 この列車を逃せば、次は――
 そう――と、彼女は微笑んだ。
 この列車を逃せば次は、三十分後までない。――そんなふうに、あの時も話したのだ、ここで。
 
 
 
 ひどい雪だった。
 いや、朝は晴れていたのに、突然降りだし、ひどくなった。
 しかも雪はどか雪で、二人ともひどく閉口したのだ。
 対岸からの橋を渡り、急いで駅に向かうと、駅にたどりついて、改札を抜けた。
 駅の改札を抜けた後で、彼女は慌てて立ち止まった。
「ねえ、駅の中、自動販売機ないよ。」
 そう言うと、ホームの先を早足で歩いていた彼は立ち止まり、ダウンコートの襟もとから取り出した帽子の先を手で抑え、振り返った。
 振り返ったが、何も言わず、またすぐに背を向けて、ホームを歩きだした。
 何も答えないので仕方なく、彼女もその後を追う。
 やはり、この雪では駅舎の近くで待つ方がいいのではないかと思い、歩きながら明かりのともった駅舎の方を振り返った。
 それでもう一度、その背中に向かって、
「ねえ、駅の中で待とうよ。屋根のあるところで、ねえ。」
 そう声をかけるが、彼は歩き続けた。
 立ち止まる。
 後を追った彼女が彼に追いつくと、
「ねえ、聞こえてる? こんなとこに居て、風邪ひいたらたいへんでしょ?」
そういうと、彼は息を一つ吐き出すと、上着の袖をめくり、
「んー、でもあと五分ぐらいで来る。」
そういうので、彼の腕をのぞきこんだ。
「ねえ、さっきのとこで買っておいたらよかった。ちょっと行ったところにコンビニあるじゃない。駅員さんに言って出してもらって、あそこ行って傘も買って」
「あそこまで行ってたら、電車間に合わないよ。」
ばばっと体についた雪を手で払いながら、そう言った。
「そんなに急いで帰りたいの?」
彼女が言うと、彼はまた帽子の先を抑え、彼女の顔をちらっと見た。
 でも、何も言わない。
「何よ。」
彼女が問うと、
「あとちょっとじゃん。これ逃したら、次三十分後。」
そう返事が返ってきた。
「でも、傘買ったら着いてもわざわざ買わなくていいし、電車の中でもホットのぬくぬくで体温められるのに、この後ずっと電車の中で」
「そうか!」
突然彼が叫んだ。
 それから彼女へ向き直って、荷物を一度きちんと肩へかけ直すと、うつむき、コートの前のボタンを勢いつけてバチバチと音を立てながらはずした。
 呆気にとられて見ていると、彼はばっとコートの前を広げた。
「はい!」
いうので、思わずその開かれたコートの中の胸元に見入る。
 ガリ股の足も、やけに目についた。
「はい、雪やどり。傘代わり。ホットのぬくぬく代わり。ほら!」
顔はなぜかさっきとうって変わって、ニコニコと笑っている。雪はますますひどく降って前髪が濡れているのに、その笑顔がひどく不似合いだった。
 その姿に、思わず吹き出した。
「何。何笑ってんの。」
「だって、だって、そのかっこう、街中で出没する、変態さんみたいじゃない。」
言うと、彼は自分のコートの中をのぞきこんだ。
 じっとその中を覗き込んだが、ちらりと彼女に目をやると、背を正して一度コートを閉じた。
 それからまた、ばっと開き、
「笑うなんて、変態さんに失礼だ。」
 彼女はまた、吹き出した。
 笑いがひどくなる一方で、彼の方から近寄って、コートを広げたまま、彼女を包んだ。
「雪やどり、傘代わり、ホットでぬくぬく。うーん、安いもんだあ。」
 そう言って、ぎゅうっと抱きしめる。
 抱きしめられ、自分の着ているコートが冷えて冷たいことに気がつくと、包まれながら彼女も、前ボタンをはずした。
 コートの中の男の背中に手をまわして、きゅっと抱きしめ返した。
「うん、ぬくぬく。」
 目の前の首筋から、熱が漂う。
 その熱をかいで、その首筋に頭を寄せた。
 肩越しに、雪が降りしきるのが見える。
「いつもは、こういうの嫌うくせに。」
一人ごちると、
「雪で何も見えないから、大丈夫。」
と、頭の上で声が返ってきた。
「んー、でも、もう電車来るよ。」
頭をもたげると、
「じゃあ、次の電車に乗るかな。」
と、その腕を離さなかった。
「これ逃したら三十分後って言ったじゃない。」
「うん」そういった。ややあって、「言ったなあ…」
 また、吹きだしそうになった。
 雪が降る。
 外の景色は暗くなるばかりだった。
 ホームに、アナウンスが流れ始めた。
 アナウンスの聞こえる駅舎にふりかえって目をやるが、暗い中、明かりがともるばかりで、誰もいない。
 視線を戻し、また、ぎゅっと抱きしめた。
「ねえ」
声をかけた。
「ん?」と答えが返ってくる。
「雪やどりって言葉、本当にあるの?」
「んー…」
 そう言ったまま、言葉は返ってこない。
 彼女は、また、ふふふと笑った。
 笑って、線路を近づく電車の音に耳を傾ける。
 この手を離したら、お別れなのだ。
 電車の中でさようなら。
 その後他人のような顔をして、二人また、お別れなのだ。
 今日降る雪のように消えて行く、――まるで最初から、何もなかったみたいに。
 だからもう少し。
 もう一分。
 ほんの一秒、このぬくもりを、体に刻もう。
 せっかく雪が、目隠ししてくれるから――
 
 
 
 花の降る中で、ホームに、列車の到着を告げるアナウンスが流れていた。
 暖かな風とともに、花びらが体にまといつく。
 まとわりつく。
 あの雪は、どこにもない。
 あの時も、どこにもない――
 それでも、花は降りそそぎ、そのほんのりと色づいた花弁が、心の中の記憶を開いた。
 やがて、線路の上を電車が、ゆっくりとした速度で走り込んでくる。
 ガタン、ガタンという音とともに、その巻き起こす風が、今度は落ちた花を舞い上げる。
 舞い散らす。
 やがて電車が停車し、扉が開いた。
 彼女は電車の中へと乗りこみ、立ったまま、誰もいない車内の座席に、荷物を置いた。
 車内が少し薄暗く感じられる。
 暖房がきいているとわかって、まだ外は少し寒いのだということに気がついた。
 扉が閉まり、彼女は扉の前に立った。
 目の前の景色が動き始める。
 扉の向こう、春の日差しを照り返しながら、ホームの中に浮かぶ桜の木と、舞い散る花びらを、目で追った。
 景色が流れるに従って、さきほどいた――あの日、二人でいた場所を、扉のガラスに寄りかかってみつめる。
 ひどい雪だった。
 今日のこの花のように、とうとうと降ったのだ。
 昼だというのに、とても暗く、寒さがますます募った。
 二人、温めあった短い時。
 
 
 ――いつか、すべてが、消えてしまうのだ。
 花も、雪も、いつかは、消えてしまう。
 来年に咲く花は、今年のものとは違っているだろう。
 再来年に咲くものも、今年のとは違っているだろう。
 あの雪は、果たしていったいいつの冬だったか。
 凍える体を温め、花は咲き、また違う季節が来て、――また、花が咲く。
 生々流転の時の中で、それでも――
 降り続けるそれを、愛と名付け、命と呼んで、何度も何度も繰り返す。
 それが、いつか、消えるとしても。
 たとえ、同じ時が繰り返されることはなくても。
 また、花は、咲くのだろうか――
 
 
  
 雪やどりの熱は、今も熱く、胸に残る。

(2011.01.05)

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