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『春琴抄』ノート



 


 
 
 
 

◇「下寺町の浄土宗某寺」

 
 谷崎本人は、実は芸者や太夫の位の遊女のことを案外高評価していた。
 これは、昭和四年に書かれた「カフェ―対お茶屋・女給対芸者」の一節である。少し長いが引用しよう。

僕はただ、一とおり自滅してしまった後に、純日本趣味の遺風として能楽や歌舞伎役者が残るような風に、ごく少数の芸者が、それも最も芸者らしい芸者だけが、京都あたりにでも残ってくれたら好いと思う。昔は芸者が婦人の流行を支配していた。しかし今では洋装の方は勿論として、真に新時代の和服の流行を支配するのは、東京の若い奥さん連である。この形勢で進んで行ったら、今に芸者が一番世間知らずで、昔の箱入娘といったようなものになると思う。すでに女子のスポーツが盛んになった今日では、箸より外に重いものを持たないという種族の女は芸者だけである。祇園あたりの一流の若い妓で表面から受ける感じでは芸者が一番、女給よりもダンサーよりもキネマスターよりも、モガの奥さんやお嬢さんたちよりさえも、すれっからしでないという印象を受ける。今に「深窓の佳人」という形容詞にあてはまるようなのは、芸者の中の選りすぐったものにだけ残るだろう。近代の女性が脚の美しさを強調している間に一番きゃしゃな、節くれだたない指を持つものは、芸者だけになってしまうだろう。僕は芸者がなるべく時勢に遠ざかって、そこまで退化してくれるのを望む。そして活動役者の名前なぞは知らなくても、お家流の字を習い、活花、茶の湯、和歌、俳諧、碁、将棋を習、徳川時代の島原の太夫のようになってくれるのを望む。(昭和四年「大阪朝日新聞」掲載分)

 この文を読むと、谷崎にとっての、「深窓の令嬢」なるものの基準がうかがいしれる。自身の最初の妻千代も、ひいきにしていた芸者の妹で、そういうことを考え合わせても特に彼自身にこうした考え方を持つことに抵抗はなかったろう。抵抗はなかったというより、これが彼の基準なのだ。一般の基準をもちあわせてどうこう言いだすことはここでは許されない。

 

 さて、大学の演習の授業において、その前述の左で褄をもつはめになる位置関係は、もしかしたら花魁道中を模したものではないかという話になった。というのも、冒頭に春琴らの墓所が出てくるのであるが、それが大阪市の「下寺町の浄土宗某寺」に設定されているからである。
 下寺町に何があるかというに、たくさんの寺がある。下寺町内に、二十を超える寺がある。そして寺の中には墓所がある。
 特にこの時話題になったのが、下寺町浄国寺に新町の遊女・夕霧太夫の墓がある、ということである。
 夕霧太夫は、江戸初期に京の吉野太夫、江戸の高尾太夫と並び称された寛永三名妓のうちの一人で、歌舞伎や浄瑠璃の題材としてとりあげられ、「夕霧忌」と、俳句の季語にもとりあげられるほどの名妓である。(とはいうものの、二百五十年忌が執り行われ、地方雑誌で特集が組まれた昭和初年代ほどに現在は知られた存在ではない。これは指導教授の口から出たものであるが、おそらく前年かそれより前の年の演習において学生の誰かが調査し、指摘したのであろう。なぜなら指導教授は夕霧の詳細を知らなかった。)
 花魁道中は位の高い遊女にのみ許された特権であり、夕霧も最高位「松の位」の遊女であったことから、当然ながら関連性を考えてもよいかもしれない。

 

 そう思って再び本文を読むと、たとえば冒頭、こんな墓の並びの説明が出てくる。

然るに検校が父祖代々の宗旨を捨てて浄土宗に換えたのは墓になっても春琴女の側を離れまいという殉情から出たもので、春琴女の存生中、早く既に師弟の法名、此の二つの墓石の位置、釣合い等が定められてあったという。目分量で測ったところでは春琴女の墓石は高さ約六尺検校のは四尺に足らぬ程であろうか。二つは低い石甃の段の上に並んで立っていて春琴女の墓の右脇に一と本の松が植えてあり緑の枝が墓石の上へ屋根のように伸びているのであるが、その枝の先が届かなくなった左の方の二三尺離れたところに検校の墓が鞠躬如として侍坐する如く控えている。

 位置関係は春琴が右手を佐助に預け、春松検校のところへ通った時に記述されているのと同じ位置関係になっている。もしこれを花魁道中と見立てるならば、松は道中の時のさしかけ傘と見て取ることもできる。
 実際、これが花魁道中を模したものかどうかはさておいても、谷崎がこの並びにこだわっていたのはわかるし、やはりなぜ、下寺町なのかという疑問が残る。
 ネットの時代で便利になった。下に実際の下寺町の写真が掲載されているので、ご参照願いたい。参考までに、浄国寺は、右手に道路が縦にわたっている、最初の横断歩道の左手前にある。

http://www.yamane-e.com/omp-teramachi.html

 この下寺町を実際に歩いてみるとわかることではあるが、谷崎が『春琴抄』冒頭で描写した墓所のある寺は、数が限られてくることがわかる。

知っての通り下寺町の東側のうしろには生国魂神社のある高台が聳えているので今いう急な坂路は寺の境内からその高台へつづく斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍しい樹木の繁った場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな空地に建っていた。

境内から高台へ続く斜面を持つ寺はいくつかある。しかし問題は次の描写で、

奇しき因縁に纏われた二人の師弟は夕靄の底に大ビルディングが数知れず屹立する東洋一の工業都市を見下ろしながら、永久に此処に眠っているのである。

 こう記述するからには、ある程度の高さのある位置に墓を持って来れないといけない。すると、せめて建物の二階以上の位置に「中腹の空地」を作ることが可能な斜面であって、しかもその位置から大大阪の街並みが見えないといけないということになる。

 ここから、ネット上の地図をご参照願いたい。
 →googleマップ 下寺町付近(ストリートビューにて景観確認可能)

 さて、下のものは、下寺町を道路を挟んで向かいの歩道から、北(向かって左手)へ向かって撮影したものである(源聖寺西側の源聖寺坂を降り切った向かい)。

続いて、南(向かって右手)へ向かって撮影。

 これを見たらわかるかと思うが、正面にある東側(後方)の高台は、そんなに高くない。しかも南へ行くに従って低くなる。
 しかもどの寺も御堂などの建物自体が邪魔をして、東側の高台なんて見えない。
 こちらから見えないのであれば、あちらからも見えないだろう。それ以前にそもそも、高台そのものが上の写真を撮影した目の前、源聖寺あたりを境に低くなる。(下はずっと南に下った超心寺から、大阪夕陽丘学園高校校舎へ向かって撮影したもの)

 時代が進歩して、生国魂公園を挟んだ浄国寺南側の源聖寺は裏の山の斜面を削り、二十年前にはなかった新築墓所を造成していたが、その昔にはない高い場所へ入って撮影した場合でも、こんな感じ。昭和初年当時目の前の建物はここまで大きくなかったとしても、旧来の敷地内に入ればさらに相当段が下がるので、眼下に大大阪を見るのはかなり厳しい。

 するともう該当するのはこの辺りになってくる。浄国寺墓所。(下、向かいの歩道より撮影。)

 実際浄国寺墓所の高台(最上段の一段下)から眺めた場合。(現在はマンションが建っていて夕陽を眺めるなんてとんでもない状態。)

 まとめると、下寺町にあるどのお寺も、御堂が邪魔をして、たとえ東側の斜面に入れたとしても、西に向かって夕陽を眺めるのは相当難しい。少なくとも「大市街の彼方に沈んでしまうまで」などと悠々とした状態でみることはできない。かといって、東側の高台にあがってしまって夕陽丘にある寺に移動してしまうと、今度は下寺町の境内の墓所から斜面をあがるという記述が不可能になる。
 そもそも、その描写をするのであれば、東側の高台にあがってしまって夕陽丘に寺を設定しておいた方が、まだ格好がついたかもしれないほどだ。
 したがって、本文に記述されているように、境内から斜面へ抜け、大大阪を「眼下」に収めることができる高台があるのは、現在の下寺町では浄国寺のみ、たとえ昭和初年、寺の御堂が低かったと仮定し、西の大阪平野を見るならば、それができるのは、境内から続く斜面が一定の高さを持つ浄国寺、あるいは北側の大蓮寺應典院もしくは、南側の源聖寺のみとなる。
 なぜにこんなことにこだわるかというと、たとえフィクションといっても、無理なところに物は建てまいと思うからだ。
 おそらくこの地を谷崎も訪れただろうし、もちろん作家がありもしないものを実際の地にでっちあげるのは珍しいことではない。しかし無理なところにそのようなものをでっちあげるほど、際どいこともあまりしない。なぜなら大阪の地元の人に読者がいないはずはないし、ついでに言えば、一般に人の出入りできる寺といえども、夕霧の墓のある浄国寺以外は入りづらい、地元の人さえ、この辺にあるのだろうと勝手に予測し、一人合点しながら通り過ぎる人もあったろう(下寺町に実際に春琴の墓を訪ねてきた読者もあったらしいが)。ところが、たとえば地元の人が歩いていて、高台の高さが足りないところへもってきて、そこへ墓がありました、見えもしないところへ見えましたと書くのは、やはり嘘がつきまとうのでなるべく避ける。可能だと思ったから踏み切った位置があるのであって、おそらく浄国寺、違うとしても、可能性は南北の二寺を出まいかと思う。
 そうすると、その三つの寺のうちで一番見晴らしのよい斜面があり、浄国寺が想定されたと考えた方が自然ではないだろうか。
 夕霧太夫の墓は一番最後の浄国寺境内写真右にある草むらの裾部分にあるが、元はここを訪ね、東側の高台を眺めあげながらあの冒頭の墓所を着想したと考えるのが自然に思われる。

 今のところ、夕霧太夫の墓以外に、下寺町に春琴の墓所をおいた根拠がみつからない。
 この作品はフィクションである。大阪に墓所は数知れずある。にもかかわらずここを選びとったからには、作家に何かしらの動機がないといけない。

 

 

 ということで、さらに話を深めるために、「夕霧」と「春琴」の共通点を探ってみよう。(2010/12/02)

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