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『春琴抄』ノート



 


 
 
 
 

◇遊女夕霧との関連2

・観世音菩薩

 『春琴抄』には、次の記述が登場する。

されば春琴女の閉じた眼瞼にもそれが取り分け優しい女人であるせいか古い絵像の観世音を拝んだようなほのかな慈悲を感ずるのである。(二章)

 「観世音」は、いうまでもなく観世音菩薩である。この記述は、春琴の写真を語り手が見て、その印象を伝えるものである。
 夕霧太夫の死後、近松門左衛門が『遊君三世相』という作品の中に、夕霧をこのように表現しているところがある。

もと是人間のたねにあらず。恋慕に沈む衆生をすくひ解脱を示さん其のために二菩薩かりに出生し。

 江戸時代も中期から末に至るにつれ、太夫の価値や品位が下がったのは、石割松太郎「『梅忠』と新町の遊里」(→資料)にある通りであるが、夕霧のいた頃の太夫とは、江戸初期の近松が「遊」と称しているとおり、まだ中世の名残が残っていて、尊敬・尊重に値するものであった。高安月郊が「夕霧」で、「但し太夫は其社会の姫君であった」(→資料)と紹介するに同じである。こうして近松が夕霧を菩薩に例えるのは。そうした中世からの慣習にのっとって表現しているのであり、春琴を遊女夕霧太夫と重ねられる一つの手として菩薩の姿に重ねた記述を入れたのではないだろうか。
 そもそも江戸初期に名残を残す、中世の遊女とは、どんなであったか。
 また、なぜ、遊女たちは菩薩に例えられたのか。
 これは谷崎本人の説明に拠った方が早い。
 『春琴抄』発表前年、昭和七年に発表された『蘆刈』に、こんな記述がある。

遊女記の中には、観音、如意、香炉、孔雀などという名高い遊女のことが記してあり、そのほかにも小観音、薬師、熊野、鳴渡などという名が伝わっているがそれらの水の上の女どもの多くは何処へ行ってしまったのであろうか。かのをんなどもがその芸名に仏くさい名前をつけていたのは婬をひさぐことを一種の菩薩行のように信じたからであるというが、おのれを生身の普賢になぞらえまたあるときは貴い上人にさえ礼拝されたという女どものすがたをふたたび此の流れのうえにしばしうたかたの結ぼれるが如く浮かべることは出来ないであろうか。

 作中の語り手である男が、酒に酔いながら水無瀬の宮跡(現・大阪府三島郡島本町)をめざし、その水無瀬の川下にあった江口や神崎の遊女の里を思い浮かべる際に思いめぐらす場面である。
 ここでは遊女の行いが「一種の菩薩行」であるからとして紹介しているが、別の作品、昭和五年発表『乱菊物語』では、遊女について書いた箇所は、もっと説明くさい。

しかし読者は、中世の遊女と近世のそれとを同一に考えてはならない。最初の室君花漆は「室君」という敬称が示す通り、ほんとうに室の「君」であり、土地の「長者の娘」であって、その家に客となることが出来る者は、公卿とか武将とかいった類の、上流の貴人に限られていた。たとえば最初の室君によって建立された五箇の精舎の跡というのが今でも残っていることを思えば、それだけの富と力を備えていた花漆は、名実共にあの美しい海港の女主人公であったろう。そればかりでなく、西行法師の撰集抄や土地に伝わっている口碑によれば、彼女は実に普賢菩薩の化身であると信じられていた。

 ここまで並べれば、谷崎の知識の中に、遊女=菩薩の構図があり、詳細な調査をした一片がうかがいしれるだろう。

 『春琴抄』では後、「観世音(菩薩)」であったものが「来迎仏」と置き換えられていて、この理由は後に述べたいと思うが、ここでも春琴=菩薩=遊女の図式の可能性が見えるかと思う。(2010.12.19)

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