「前略 突然のお手紙で失礼致します。 石井様の訃報をニュースで知りました。飛行機事故で亡くなられた方達の中にお名前を見つけた時は、身の凍る思いでした。貴司様の心中、お察し申し上げます。夫人もさぞやお気を落としていらっしゃることでしょう。どうぞお母様のお力になって差し上げて下さいませ。 石井様とは、かつて親しくさせて頂きました。近々、ぜひお焼香に立ち寄らせて下さい。お願いいたします。 草々 如月二十二日 藤原貴子」
手紙は簡単な内容のものだった。葬儀は早々に執り行ってしまったが、一応は長たる立場にいた父なので、一週間後に社葬がある。その時にでも来てもらえばいいのだろう、そんな事が貴司の頭をよぎった。――それにしてもおかしい。だいたい、母のことを気遣うのなら母宛に送ってくればいいような手紙なのに、なぜ自分宛なのだろうか。もっとも母は二年前に既に他界している。母の死は知らないと言う事か。それよりも息子である自分の存在、名前まで知っているのはどうしてなのだろう。父宛に送られてきた手紙は、どれも自分が生まれる前のものだったはずだ。てっきり、藤原貴子は石井義久に子供がいることを知らないと思っていた。それにまた、父の死をニュースで知ったのなら、社葬があることも知っていてもおかしくない。焼香したいだけなら、黙って社葬に列席すればいいではないか。・・・喪主が誰であるか知っているから、自分宛に手紙を送ってきたのか?つまり藤原貴子は葬儀について、そんな事まで知ってる上で、この手紙を書いてきた事になる。社葬には行かないつもりなのだ。あくまでもこの家に来るつもりなのだ。――未だ名字が「藤原」である事も気に掛る。
父とは随分年が離れていたし、ワーカホリックさながらに仕事に打ち込み成功している父は、近寄り難い存在だった。それにほとんど自宅にはいなかった。むしろ家にいたくないが為に仕事に熱中していたようにすら思える。そんな父をこんなふうに突然失っても、実感が湧かない。長年のあいだ母子家庭同様の生活を送った貴司にとっては、母親を失った時の喪失感は耐え難いものだった。ところが今回はどうしたことだろう・・・。こうして突然亡くなってしまって、今更ながらに父が如何に社会的に成功していたかが身にしみて感じられる。葬儀から何から、事務的で煩雑な手続きは、全て会社の人間がやってくれている。だいたい唯一遺された息子は、卒業を間近に控えてはいるものの、まだ学生で社会のイロハも何も分かっちゃいない。しかも、父の会社は親族経営ではないから、別の会社に就職が内定している。今は手取り足取りこの状況を助けてくれる会社関係者も、一通りことが済んでしまえばそれっきりだろう。これからは自分ひとりで生きていくしかない。まだ若かった母が、年の離れた離婚歴のある父と駆け落ち同様で結婚したものだから、母の親族とは付き合いはなかった。母が他界したときに会ったきりだ。今回の葬儀でも数人参列したに留まっている。父は事故死とは言え、もうかなりの年だった。とっくに祖父母を始め、主立った親族は他界している。そう思い返してみると、ひとりで生きていくどころではない、天涯孤独の身の上、とも思える。 「実は天涯孤独の身なのか」。貴司は、自分の声にはっとした。もっとも、家に誰も咎めるものがいないから、まだ他界して日が浅い父の遺物を整理する事が出来ると言うものだ。貴司は苦笑した。結局、何もすることがないのだ。卒論も提出してしまったし、大学に行く必要もない。こんな時に出歩く気にもなれない。だから、昨日のように、父の机を引っ掻き回して、明らかに不要なものを燃やしたりして、時間を費やしているしかないのだ。 貴司は自分宛の手紙を机の上の束になっている古い手紙の傍らに置いた。もう、目を通していない残りの手紙を全て読む気にはなれなかった。母の死を知らなかった藤原の、最後に父に宛てた手紙だけは読んでみたいようにも思う。今更この家にやってこようと言う女の気持ちが分かるかもしれない。――いや、分かるわけはないだろう。昨日古い手紙を読んだ限りでは、どんな人物なのかとても自分には推し量れなかった。多分、父とは二十も離れていない年令――今は四十代後半、という所だろうか。五十に手が届いているかもしれない。母と同年代かやや年上の女性なんて、常日頃から会話する事すらないのだから。
貴司は電車に揺られていた。どこまでも抜けるように澄み切っていた空は、暮色に染まり、西の空は鮮やかなオレンジと薄紫のグラデーションになっている。東の空には、もう漆黒の闇が迫っている。車内はラッシュ前の静けさをたたえていた。 いくつか、確認したり署名したりしなければならないものがあると、父の会社に呼び出されたのは、午過ぎだった。細々とした事務を一度に済ませたかったのか、次から次へと引き止められて、随分と時間がかかってしまった。会社ではあくまで事務的に事が進み、お仕着せのお悔やみを聞かされるよりは気が楽だった。 貴司はドアの隅に肩をもたせかけて、車窓からすっかり暗くなった外を見ていた。冬の夜は好きだ。漆黒の闇の中に家々の明かりが灯っている。冷ややかな大気の中に、それらは一粒ずつ落とされた光のかけら、ひとつひとつが自ら暖かく輝いている。小さくなって集まって、結晶した温かさがある。外からはとても壊せそうもない。単調な電車の走行音に耳を傾けながら、貴司は外を見つめ続けていた。やがて電車は橋にかかった。黒々とした水面に時々光が反射するのが見えて、そこに河が流れている事が分かる。今朝の夢を貴司は思い出した。あれは自分にとっての父、そのものではなかったか。素直に慕った思い出なんて何もない。いつも後ろ姿ばかりを見せ付けられ、追う気にもなれなかった。父はいつも一人で戦場に赴く兵士さながらに、凛とした中にもどこか疲れた色を隠し切れずにいるようだった。そう、いつだって、順風満帆に仕事がはかどっているときでさえ、あの人は何かをぐっと耐えるような表情をしていた。それが、幼い頃には「恐い」というイメージに繋がっていた。――いったい何に耐えていたのだろう。あの人の、父の人生は充実したものではなかったのか。自力で企業を起こし、そこそこの実績を上げ、社会的にも成功し、人の上に立つ職に就いた。立派な自分の城を築き上げたのではないか。その城は誇らしげに建っていたではないか。しかし実際には、あれは仕事と言う名の父の牢獄だったのかもしれない。なぜあんなにまで尽力を注いで、自らを監禁してしまったのだろう、家族からも離れて。いや、それよりも、父は母を愛していたのだろうか。駆け落ち同然の結婚だったと話したのは、母だった。それは母が父を追って結婚しただけの事なのかもしれない。父にとっては、母との結婚は一体どんな意味を持っていたのだろう。――父は、死ぬまで自らの孤独を癒す事が出来なかったのではないか。天涯孤独、この言葉は父にこそふさわしいのかもしれない。 どんなに父の人生を推し量ろうと努めてみても、生前でも亡くなった今でも、父の存在の遠さには何も変わりはなかった。貴司は胸がつまるような思いだった。 ふと、視線が窓ガラスに移った。自分の顔が映っている。車内の様子も映っている。外の景色と合わせて見てみると、まるで漆黒の闇の上を、細々とした灯かりの上を、自分も電車も駆け抜けているかのようだった。しかし、寒空の中の暖かい灯かりのどれひとつも自分の為のものではない。疾走する足の下は、どこまでも深い闇だった。
自宅に戻ると留守電が入っていた。聞き覚えのない、やわらかな女の声だった。 「藤原と申します。お手紙でもお伝えしたのですが、お読み頂けたでしょうか。勝手を言って申し訳ないのですが、明日の午後、そちらに寄らせて頂けたらと思い、お電話いたしました。」 葬儀のあった家に焼香に来るのに、手紙だ、電話だ、と、ここまでするものだろうか。この家に直接焼香に来た者は他にも何人かいたが、父が特に親しくしていた人達で、こんな回りくどい事はしなかった。初七日も過ぎてない家に約束なしに訪れるのは常識をはずれてはいない。わざわざ連絡してくるのは、結局は、家にいてくれ、と釘をさすようなものだ。つまり、その通りなのだ。明日会いたい、と言う事なのだ。貴司は、何とも言えない思いで床に就いた。
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