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June Bride

 (続き)

「お前今度の舞台出てくんねえか。」
「へ? あたし?」
 坂城は目の前の机にバンッと手を置いて頭を下げた。
「頼む! 結婚式も記憶喪失もわかってる。でもさっきお前見てたら、せりふ覚えてたじゃねえか。後十日で完璧出来るって言ったら、お前しかいないんだ。な、助けると思って。」
「え、でもあたし、舞台なんてたったことなんか…」
「ああ、まどろっこしい!」
坂城は机に肘をついて頭をガリガリとかいた。
「お前はここ来てからだなあ、三カ月しかいない間に、主役はるまでになっちまったんだよ。ところがだ、ここのオーナーの契約してるエージェンスから文句が出て、お前降ろさなけりゃならなくなった。わかるか?」
「はあ。」
「俺の大学の後輩で、元はここの劇団に所属してた奴がいるんだが、そいつの方が名前が売れてる、この劇団の未来のために、そいつ使えって言われて。」
「それが、あの、さっきの人なんですか?」
「さっきの奴も代役なんだ。元々は、榎木碧って奴なんだが、みどりの奴、あいつ」
「何ですか?」
「今月の頭に妊娠がわかって降りたんだ。」
「できちゃったんですか?」
「つくったんだよ!」
坂城は机をたたいた。
「しかも目立たないのをいいことに、堕ろせなくなるまで黙ってたんだ。『あたしアイドル女優じゃないのよ、子供生むのだって経験よ』、おーいだったらもっと早く言えってんだよなー。」
坂城は机に伏せた頭を抱えた。
「あいつ元々うちの所属だったのが、育てるために外に出したのがまずかったかなー。名が売れて増長しちまったのか…。」
「え、それで、ご結婚は?」
「うん、だから今月頭に。」
「ご主人は、どういう人で…」
「うちの劇団の、お前覚えてないよなあ、主役が結婚するはずだった相手役の奴なんだけど。」
「へー」
「な、頼む!」
坂城は目の前でパンと手を合わせた。
 手を合わせられても、千尋にとっては寝耳に水、しかも記憶がない時に、記憶のない時のことを頼まれても、うんとは言えない。彼女にとっては、それどころではないのである。
「そんなこと言われても…」
「そうだよな。いまさらだよな、そうだよ、俺もわかってるんだ。」
坂城はうつむいたままウジウジ、ブツブツと言っている。
「いえ、そういう問題じゃなくて…」
「お前がはまり役だと思ってたんだ。それなのに、柴野が余計なこと言うから…」
「あの、本当にそういう問題じゃ…」
「本当に?」
坂城はパッと顔を上げた。
「ええ、ですから、私は記憶を取り戻さないことには、どうにもお返事しようがないんです。」
千尋の返事に坂城は大きくため息をついた。そしてうつむいて、頭を下げる格好で、
「でも、頼んだことだし、もし近いうち記憶戻ったら、ギリギリまで待ってるから、返事くれる?」
「あ、はい。」
「うん。」
坂城はそこで時計を見た。
「あの、あたしここでちょっと生活してたってきいたんですけど。」
「ああ、うん。そこの、稽古場の裏に小さな休憩室あるんだけど、そこで。二週間ぐらいか、部屋みつけてすぐ引っ越したけど。」
「前はどこに住んでたか、ご存じないですか?」
「知ってるけど、劇団の奴がお前のかわりに見に行ったが、もうほとんど荷物も残ってなくて、そんな所でとても生活してるようには見えなかったって言ってたぜ。それで、管理会社にきいたら何か水商売してたらしいってきいたんだけど、親戚も手掛かりもないし、とにかくもう何も覚えてないってんで、仕方なくここに住んでたんだよ。俺たちだって一応調べたんだぜ。でも、オミさんが…」
「オミさん?」
「あんたの婚約者だよ。森本武臣。ここ来てから今までの事情は、オミさんが一番知ってるはずだし――、何できかなかったんだ?」
「え、自分で思いだした方がいいからって言われて…」
「ふ、…ん?」
坂城は首を傾げた。
「そういえばオミさん、遅いなあ。」
「え、そうですか?」
「来るはずなんだろ? あー、来たら呼んでやるし、その辺見てきたら? 鍵なんかかかってねえし。何か思い出すかもしれんだろ。そのつもりで来たんだろ?」
「あ、はい、そうです。」
「時間あったら稽古も見てけばいいし。」
「うん、あ、じゃあ。」
そう言って千尋は立ち上がった。
「あ、おい。」坂城は呼び止めた。「せっかく入れた冷やし日本茶、飲んでけ。」
「あ、はい。」
千尋は慌てて机まで戻ると、まだ冷たいそれを飲み干した。清涼で口辺りのいい味だった。そのグラスを冷蔵庫の脇にある小さな簡易流しで軽くゆすぐと、冷蔵庫の上に伏せた。「じゃあ」と言って頭を下げ、部屋を出ようとしたが、見ると、坂城は「おう」と言ったまま何か考えるそぶりで、千尋を見ようともせず、じっとそこを動かない。
 千尋は苦笑いしながら首を傾げる。そして、雑然とものをつまれた廊下を、見当もつかず歩き出した。

 

 坂城がホールに戻ると、スタッフの一人が、「オミさん来てますよ。」と声をかけた。「どこに?」と尋ねると、客席後部にある調整室を指さした。調整室の中は明かりが落とされていて、中の様子は坂城の位置からは見えなかった。
 坂城は客席にとどまらず、ロビーに出て調整室へと向かった。
 ロビーにある調整室の扉を開けると、薄暗く、暗闇でも機械が操作できるように計器の所々が青く光っていた。照明、音響、ビデオなどを調節する部屋で、向かって左手が舞台正面になっていて、客席側の壁に窓のような感じでガラスがはってある。中には奥に坂本十青が椅子に腰掛け、手前に森本が立っていた。坂城が扉を開けると、「よっ!」と森本が笑顔で手を上げたので、坂城は歩みより、ガバッと両手を広げ森本に抱き着いた。
「会いたかったあ!」
意味もなく突然抱き着かれたので、森本は理由がわからず驚いて、
「おう、おい、どうした、春樹、オイ!」
と坂城を引き離そうとする。坂城が顔を上げると、森本との顔は至近距離になる。森本は逃げようとするが、坂城がガッチリ抱きとめているので離れない。
「オミさん、オミさん、会いたかったあ、アタシ寂しかったのよぉ。」
「こら、ハルキ、やめろ、突然オカマになるな。」
顔が近すぎるので森本は力づく、両腕で引きはがそうと抵抗する。
「オミさん、オミさん、ちょっと会わない間に、アタシのコト、嫌いになっちゃったのねぇえ。」
坂城はしつこい。
「こら、おい、ち、ひろはどこ行ったんだ。千尋は。来てんだろ?」
「オミさんったら、オミさんったら、いっつも千尋ちゃんの話ばっかり。あの子なら、その辺まわってるわよ!」
「春樹ぃー。」
「今日はオミさんが来るっていうから、ちゃあんとヒゲもそったのにぃーい。あー…」
と言って坂城は抱き着いたまま泣き出すので、森本は呆れ返ってため息をついた。
「お前なんで千尋のことほったらかしてんだ?」
坂城は突然、抱き着いたまま耳元でつぶやいた。
「ほったらかす?」
「記憶のない部分だよ、何も説明してないじゃんか。医者にかかってある程度取り戻してたんだろ?」
言いながら坂城は森本から離れた。
「あいつちょっと馬鹿になってない?」
「馬鹿?」
森本が問い返すと、
「馬鹿っていうかさ、退行したってのかな?」
「治療では十八歳のとこまで来て止まってるよ。」
「それで馬鹿になってんのかな。」
「馬鹿になってんのか? その辺の詳しい原理はわかんないよ。オレ医者じゃないし。」
「また、記憶喪失になったんでしょ?」
二人の会話に坂本十青が横から口を挟んだ。
「ああ、うん。」森本は少し口ごもらせた。それからため息をつくと、 「また、元の木阿弥だ。」
「お前何したの?」
坂城がたずねる。
「いや、何もしない。」
「何もしないじゃないだろう? 何かしたからああなったんじゃないのか?」
「いや、本当に何もしないよ。車で走ってたら、急に外見てた千尋が錯乱して卒倒したんだ。」
「何だそりゃ。」
「森本さん作ってるんじゃないですか?」
十青が横からニヤニヤしながら口を挟んだ。
  「馬鹿言うなよ。俺が何で何を作るんだよ。」
「オイオイ、それどこでだって? その錯乱した場所。」
二人の会話の流れを遮るように、坂城が口を開いた。
「いや、どこでだったかなあ、その日のルートをもう一回思い出せば、だいたいの位置はわかるはずだけど…」
「ふーん…」
坂城はガラスの向こうの舞台を眺めながら、気のない返事をした。計器の中央にあるデジタルの時計をみつめて、
「おい、トーセー、マイク入れてくれ。」
そう言った。坂城は調整室内の台に設置されたマイクに腰をかがめて口を近づけると、
「おう、休憩終わりだ。パーティーのディックが入場してくる場面からもう一回。」
ホールに坂城の声が響き渡った。そろそろ時間だったので集合していた役者たちが、坂城の声でワラワラと配置に動き始めた。坂城はかがめた身を起こし、腕を組んでハアーと深いため息をつくと、
「オレ間違えたかなあ…」
とつぶやいた。それに横目で見ながら森本が、
「何が?」
「千尋だよ。柴野の言うこときいてさ。」
舞台の下からスタッフが坂城に向かって手を振っている。坂城はもう一度身をかがめると、
「オーケー、じゃあ哲のセリフから。ヨーイ、スタート!」
途端にホールの端から、「エレナ!」という大きな声が響いた。役者が一人客席通路をかけて舞台に近づいていく。
 柴野――柴野有里、タレントエージェンシー所属のご意見番だが、実質はこの劇団のオーナーの従姉妹だった。年は坂城より一つ下で今年二十七になる。大学時代の後輩でもあり、坂城をこの劇団に引き抜いてきたのも彼女だった。会社の仕事もあって、劇団にはたまにしか顔を出さないが、その、たまの口がなかなか大きい。現在の「憂情の森」第一回講演の時、エージェンシー所属の榎木碧が主役についていたのを、千尋に変更しようかと坂城が考えていた時も、反対したのは彼女だった。
「みろよ、たいしたもんだろう? たった二カ月ちょっとで脇役一から主役までこなすようになったんだぜ。」 あの時も、確かこの三人に柴野を加えて、調整室から舞台を見ていたのだった。坂城だけが立って舞台をみつめていた。試験的に碧にかわって千尋に主役のエレナをやらせていたのだが、実際、碧よりも坂城の理想に適っていたのである。
 坂城の言葉をききながら、柴野は椅子に腰掛け、足を組み腕を組んで彼を見上げ、いつものように、事務的な口調で、
「だめよ。あの役はもう碧に決まってるじゃない。」
「いや、でもさあ。」
坂城は言いながら柴野に振り返った。
「でもさあ、じゃないわよ。あなた園山さんからここ受け継いで第一作目じゃない。そりゃあ、坂城春樹っていう若手は、ツウのツウ、業界の中じゃ、そろそろ注目されてきたか知らないわよ? でも、今榎木碧のネームバリューがなくって、この舞台に客が入ると思ってるの?」
坂城は柴野の言葉に苦笑いを浮かべた。
「絶対零度の名前で入るんじゃないの?」
「でも、それは園山さんが作り上げた功績じゃないの。常連だって、マスコミだって、園山さんの名前で来てたんじゃないの? そりゃ、あなただってご活躍だったけれど、一人では、まだ未知数じゃない。いいじゃないの、碧で。碧だって、若手の中じゃ実力あるんだから。」
「そぉりゃ、わかってるよ。ありゃ中学からやってた粗削りのを、俺が大学の時みつけてしこんだんだから。でもなあ、キャスティングってのはなあ、時によって、上手い下手じゃどうにもならねえって時もあるんだよ。」
「だからって、あんなどこの馬の骨ともわからない、ズブの素人使う気? 坂城さん、よっく考えてよ。一体、園山さんが何で若干二十六のあなたをこの劇団の後に据えたと思ってんの?」
坂城は正面の舞台から目を背けた。というより、柴野を視界から外したと言った方が正確かもしれない。
「お父上に会社の後継いでくれって泣いて頼まれて、劇団続けられなくなったからだろ?」
「それは園山さんが続けられなくなった事情でしょ? あたしはあなたのこと言ってるの。期待が大きいから、才能を早く世に出したいから、劇団を大きくしてくれるだろうって、だからあなたを抜擢したんじゃないの。それでもまだ、若くて心配だからって、園山さん、うちの社長に頼んであたしをオブザーバーに入れたんでしょ。そしたら、案の定。――両方に報告するあたしの身にもなってよ。」
「でも、名前や経験だけで、何でも決めていいってもんじゃないだろ? 見ろよ、あいつ、ちゃんとこなしてんじゃないか。あいつだって、この舞台でたら」
「サカシロさーん。別にあの子だったら、別に今度じゃなくっても、いつだって使えるじゃない。もー。」
柴野は我慢できないというように首を横に振った。坂城はそんな柴野を見ながら、「柴野。」坂城の笑った顔がひきつっている。
「お前俺のプライド傷つけてんのよ。」
坂城のその言葉に、
「わかってるわよ。」
柴野はにっこりと微笑んだ。思わず、坂城は舌打ちした。
「碧だって、いい役者じゃなーい。あなたが育てただけあるわよー。何が不満だって言うのー?」
ふん、と坂城が鼻で笑うと、
「へっ、まあ、あいつが姫川亜弓だとするとだな、」
無理に笑った唇がゆがんでいる。
「千尋は北島マヤってとこかな。」
柴野はふふんと笑った。
「ホント、貧乏くさいトコまでそっくり。」
それで思わず、顔をおおって二人から目をそむけたのは、隣にいた森本だったのだ。

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