母親が最後の針を通してとめ玉をつくった。糸をはさみでチョンと切ると、窓際によせ、光にすかせた。春の暖かな日差しが、少しまぶしい
「どう?」
母の手つきを横でずっと見ていた彼女は、光に透かされたそれに目を細め、
「きれい…」
とつぶやく。
同級生の誰かが学校にブランドもののレースのついたきれいなハンカチを持ってきていた。その話を帰って母にすると、母は残念そうに静かに笑った。娘は、そんなブランドのハンカチなんて買えないのを知っている。知っているからねだらない。でも、ほしいという気持ちは、言葉の端々に出ていた。そして母親も、ねだらない娘の心を知っている。だから、ブランドものではないけれど、今ある真っ白な新しいハンカチに、母のとっときだったレースのハンカチを裂いて、縫い直してくれたのだ。
「あなたがお嫁に行くときは」
母親は彼女にハンカチを手渡しながら話した。
「真っ白なウエディングドレスのベールを、お母さんが縫ってあげるね。」
娘は、え、と声を上げた。
「母さんの得意技だから。そうね、季節は――」
母親はまぶしそうに目を細める。
「六月がいいわね。幸せになるように。」
「何で六月だと幸せになるの?」
「六月に結婚するとね、ジューンブライドっていって、昔から幸せになるって言われてるのよ。だから、絶対六月、六月じゃなきゃ。」
母親は少女のように、まるで自分のことのように嬉しそうだった。
「どんな人と結婚するのかなあ、千尋ちゃんは。」
夢見るような母親の、疲れた顔、疲れた体。まるで自分が子供にかえって結婚を夢見ているのではないかと疑うほどに、彼女はひどく陶酔していた。
後になってからもずっと、この時を彼女は忘れなかった。
母は、逃げたかったのかもしれない。日々の現実からどこかへ、逃げ出したかったのかもしれない。母親は疲れていた。狭い家具だらけの六畳の部屋で、どこにでもある日々の日常で、幸せという言葉が呪文のように彼女の心に残るほど、焼き付いた情景だった。
眠る彼女の目から、一筋一筋と涙が頬を伝った。何かに揺らされる感触でふと意識が舞い上がった。遠くで声がきこえる。「オイ、オイ、何で泣いてるんだ?」そういう問いに、彼女は心のどこかで、そういえば頬を涙が流れる感触があるということに気がついた。
「わからない。」
夢の中で遠くそう答えると、
「わからない? 何か怖い夢でも見たのか?」
問う男の声に、誰だろうと思う。彼女はふと、我に返った。勢いよく起き上がる、と、横に人の気配がする。
見ると、知らない男が横に腰掛けている。ホトリと涙が体を支えている手の甲に落ちて、彼女は思わず頬の涙をぬぐった。
「誰?」
男は首を傾げる。二十七、八歳ぐらいだろうか、面長で眉は濃く、目はスッキリと切れ長だった。でも、知らない。この顔には、覚えがない。
「あなた誰? ここ、どこよ。」
男が眉をしかめて、おもむろに手を伸ばした。彼女は思わず体を後ろに引くと、その手を「いや」と言ってはらった。寝かされていたベッドから跳び上がって床におり、男の背後にまわってドアの前に立った。アッケに取られて彼女の行動を目で追っていた男は、椅子にすわったまま振り返った姿勢で彼女をみつめている。
「あんた誰。何であたしここにいるの?」
彼女はおびえていた。この部屋はどこだろう、覚えがない。六畳くらいだろうか、洋間だ。ベッド脇のライトしかつけられていず、薄暗い。窓は天井にしかない。天井が高く、牢屋みたいだと思いついた時、すわっていた男が立ち上がった。途端に彼女はドアノブを探って勢いよくドアを開けた。光が――蛍光灯の光が目に飛び込ぶ。ドアの外は吹き抜けの居間。
ああ、ここは、メゾネットの――。
「チヒロ。」
後ろからさっきの男の声に呼び止められた。彼女がゆっくり振り返ると、男は立ち上がって彼女に近づいてくる。
「お前まさか…」
男が彼女の額に手を伸ばそうとしたので、彼女は男の手をはらった。それから階段を駆け降りると、玄関に出て、靴を履いた。ドアを開ける。オイ!という声が後ろから聞こえたが、彼女は立ち止まらずに走った。
誰あれ、誰あれ、あたし何であんなトコにいたの? 何で何で何で何で…。
マンションの廊下を走り、エレベーターに行き当たる。ボタンを激しく押した。
早く――!
エレベーターがつくと、乗り込んでガチャガチャと激しく一階を押した。閉じる、男は追って来ない。
室内で、彼女は一人ホッとした。
逃げなければ、ここはどこだろう、何であんなところにいたんだろう。エレベーターついたら、人通りの多い道を探して、それから、走って、走って…
一階に到着した途端に、彼女は飛び出した。マンションのロビーをかけぬける。マンションの玄関のガラスごしに見える外の色は、黒かった、日が暮れているのだ。玄関を駆け抜けて、通路を走る。走る眼前に、暗い空が一面に広がり、その広い空間の中に高い位置で街頭が美しい光を連ねている。広い通りだ、そう思って、通りに出ると、車の来る方向をみつめた。車が一台、あ、タクシーだ、そう思って彼女が手を上げる。タクシーは容易に停車し、ドアは開かれた。
乗り込むと、ドアは閉じられた。車の方向指示機が反転させられ、車の動き出す気配があった時、運転手はゆっくりと車を動かしながら、
「お客さん、どちらまで?」
やわらかにそう言った。
彼女は驚いた。
フロントガラスの暗い虚空をみつめた。彼女の戸惑う気配に、運転手はブレーキを踏み、ギアを切り替えて振り返った。振り返った運転手の顔はにっこりと笑っている。つられて彼女もニッコリと笑った。
「どちらまで?」
顔が強ばり、心臓が高鳴った。行き先が、頭のどこを探しても出てこない。
「やだなあ、お客さん。行き先も忘れるほど酔っ払って。どうします? 走りますか? 降りますか?」
彼女はオドオドと、運転手の顔を見た。運転手はやはりニコニコ笑っている。
ドアは開かれた。降り立つと、車は走り去った。見上げると、高い高いマンション、真っ黒な空。風は湿気を含んで冷たかった。少し上気した体に、風が半袖の腕をなでていく。
マンションの前には川が流れていて、彼女はその真っ黒な川面に目をやり、自分が誰かさえ、忘れていることに気がついた。喪失した自分に、呆然となりながら、あるだけの記憶をたぐっていく。
おびえた心の情景に、男の声でよみがえる。その声を、彼女は自分の声でたどってみた。
「チヒロ」
名前だけが、懐かしく、心に響いた。
チャイムを押すと、ドアは中から開かれた。開いた主はさっきの男で、男の顔はにこにこと笑っている。
「おかえり。」
彼女は立ち止まったまま、上目使いに彼の顔をみつめた。やはりこの顔には覚えがなかった。さっき表札を見ると、「森本」と書いてあったが、その名前にも覚えがなかった。自分がわからないのに、他人のことなどわかるはずがない。
「どうした、入れよ。」
男が優しい顔で中に入ることを促すので、彼女は中に入った。玄関の中に入って、彼がドアを閉める。彼は、部屋の中に入ろうとして、彼女が玄関に立ち止まったまま、動かないのに気が付いた。
「どうした、何であがらないんだ。」
「あなた、誰ですか?」
彼女がそう言うと、彼はまたニコニコと笑った。それから彼女に近づいて、
「何、それ。どういう遊び?」
「遊び?」
「ちひろちゃーん、どうしちゃったのよ。まさか、あれぐらいのことで…」
「あれぐらい?」
彼は言葉をつごうとして、その言葉を飲んだ。それから真面目な顔になって彼女をみつめると、
「ちょっ、ちょっと上がりなさい。」
「え、でも…」
「いいから。」
そうして彼女を、吹き抜けになった居間の、ソファの所へと導いた。彼女を座らせると、対面になって自分も腰掛けた。「いいかい」彼はすわったまま体を乗り出して、彼女の顔をじっとみつめた。
「自分の名前言えるかな?」
彼女は彼の目をみつめ返した。眉ねを寄せて、こめかみを指で押さえたが、一向自分の名前が出てこない。
「『ちひろ』、じゃないの?」
「ちひろ? 本当に?」
彼女がうっと泣き出しそうに顔をしかめたので、彼は慌てて、
「ごめんごめん、そうだよ、千尋だよ。君の名前は、池野千尋。覚えてる?」
彼女は大きくかぶりをふった。それから、自分の過去を頭の中で探した。しかし、何も覚えていない。
「で、俺が」彼は自分の胸に手を当てて、「森本武臣」
「モリモトタケオミ。」
「そう。君の会社の上司。て言っても、小さなインターネットの放送局の俺が社長で、」
「社長?」
「そう。」
「本当に?」
「うん。」
「でも、すごく若くみえる。」
「そう? もう二十九よ。」
「二十九で?」
「最近起こしたばかりの会社なんだ。で、君が数少ない社員の一人。どう、覚えてる?」
もう一度、彼女はかぶりをふった。
「え、あたし何で自分のことわかんないんでしょう。」
「いや、たぶん記憶喪失か何かじゃないかな。」
「記憶喪失ですか…」
彼女はわけもなく肩を落とした。うーんと言って彼が困ったと顔をしかめると、ふと彼女は顔を上げた。
「あたし、ここに来る前、どうだったんでしょう。」
森本が少し考えるそぶりを見せてから、
「俺がきみを仕事の帰り、車で送ろうとした。すると、君は突然車内で悲鳴を上げて卒倒した。僕はきみをそのままにしておくわけにも行かず、仕方がないから自分の家――つまりここね――まで、運んだ。」
彼女は両手で口を覆った。そんな彼女を見て、彼はためらいがちに、
「本当に何も覚えてないの?」
「覚えてません。」
「ちょっと、ちょっと来てごらん。」
彼は立ち上がり、手招きしながら、彼女を居間の奥の部屋へと導いた。部屋の中は雑然としていて、パソコンとその機材、書類の束や本があって、書斎のように見てとれた。彼はそのパソコンの前まで彼女を導き、そこにすわらせた。画面は、開きかけたまま放置されている。彼は彼女の脇からマウスに触れると、画面がすぐに立ち上がった。
「これが、僕の放送局。」
立ち上がった画面に、いろんな目次が並んでいる。彼女は自分で、マウスに手を伸ばして、それから画面をいじり出した。
特集記事の中に、結婚の項目がある。
「結婚…」
彼女はそこをクリックした。
「結婚、幸福な結婚、二人の新しいスタートを…」
ブツブツと画面を読みながらクリックしていく。
「ホラ、扱えるじゃないか。」
横から森本が声をかける。彼女は画面をみつめながら、「本当だ」と答えた。
「ねえ」彼女は振り返った。「今日何日?」
「え?」
「六月、十九日?」
彼は一瞬息をつまらせた。それから、
「いや、六月十二日だよ。」
一瞬息をつまらせたので、彼女は彼に少し不審を抱いた。
「本当に?」
「本当だよ。こんなことでウソついて、どうするの。すぐにわかることじゃない。」
「そうね。」
「何で六月十九日だと思ったの?」
彼女はそう尋ねられて、目を宙に泳がせた。それからまた、首を横に振る。
彼は声に出してため息をついた。彼女は何だか申し訳なくて、うつむいた。膝の上で固く握りしめた手が目に入る。
「これ…」彼女が左手を上げながら、「これ、婚約指輪じゃないの?」
そう言って、左手薬指にはめた指輪を彼に見せた。指輪は、一カラットあるだろうか、プラチナ台のダイヤモンドだ。
「ああ、何だ、あたし結婚するんだったんだ。」
「ああ、うん、そうみたいだね。」
「誰と結婚するの?」
「それも覚えてないの?」
そう問う彼に、彼女はマジマジと彼の顔をみつめて、
「もしかしたら、あなたじゃないの?」
彼はにこにこと笑った。
「何でそう思うの?」
そこで彼女は首をかしげた。それを見た彼はアハハと豪快に笑って、彼女ごしにパソコンの画面に近づいた。
「この中にね、式場が載ってるんだ。」
言いながら画面をクリックした。すると、二十ばかりの式場の項目が現れた。
「この中に、覚えのある式場がないかな。もしかしたら、君が結婚する式場があるかもしれないよ。」
彼女は再び画面に向かって、それを順番にクリックし始めた。
「あ」六つ目の式場をクリックした後で、彼女は画面を前に戻した。「ここ」彼女は彼に振り返った。「ここ、覚えがある。ここよ、ここ。きっとここ。」
「ここで、結婚する予定なの?」
「そうよ。だって、他のはピンと来ないもの。でも、ここ…」
画面には、森の中に噴水があり、その奥にテラスがあって、教会がそびえている。
「本当に、ここ?」
彼が尋ねると、
「だって、すごくそんな気がするの。」
「じゃあ、明日ここに行ってみる?」
彼の言葉に、彼女は途端に顔を曇らせた。
「行ってどうするの?」
「誰と結婚するんだったか、わかるじゃないか。」
「わかってどうするの?」
彼女は少し、おびえた色をみせた。彼は少し首をひねりながら笑って、
「覚えてないんだろう? 何も。そしたら、行けば思い出せるかもしれないじゃないか。」
「思いださなきゃいけないの?」
彼はハッと笑い声を立てると、
「当然じゃないか。このままでいいのかい?」
「あなたが、」彼女は真剣に彼の目をみつめた。「あなたが教えてくれたらいいじゃないの。あたしの上司なんでしょ? じゃあ、あたしが誰だか知ってるんじゃないの?」
「駄目だよ、そんなの、自分で思いださなきゃ。」
「わかった。」彼女は椅子から立ち上がった。「あなた本当は、あたしの知り合いでも何でもないんじゃないの? 名前も何もでたらめで、勝手につけて、それであたしがわからないのをいいことに、何かに利用しようとして」
そう言いながら、彼女は歩きだした。居間へと部屋を出て、玄関の方へ行こうとする。
「オイ、オイ、どこ行くんだよ!」
彼がその後を追ってきた。
「どうもお世話になりましてありがとうございました。」
彼女は大きな声でキッパリハッキリこう言った。
「お世話になりましてってどうするんだよ。何も覚えてないんだろう?」
「何も覚えなくったってどうにかします。こんな危険な所にはいられません!」
「何言って…、オイ」
そう言って彼は彼女の手をつかんだ。
「落ち着けって、何感情的になって」
「だっ…」彼女が彼の手をふりほどこうとしたが、力でかなうはずがない。手を振りほどこうとして、今度は体を抱きとめられた。
「ようし、ようし、落ちつこう。落ちつこう。な、その混乱する気持ちはわかるけど」
動きを制せられた彼女は、途端にギクリとして彼の体から離れた。
立ち止まって両手で顔をおおった。
動く気配をみせない。
出ていくことも抵抗することもしなくなったので、森本はわけがわからず、息をはいて、
「じゃあ、警察でも行くか?」
彼女はギクリとした。
「警察?」
「俺が信用できないんなら、警察に」
「ダメよ!」
彼女は叫んだ。顔がおびえている。その声に驚いた彼は、一瞬気を飲まれたが、
「じゃあ、医者にでも」
「い、医者?」
「そう、記憶喪失を見てもらいに。」
「い、医者も駄目。」
「何で。」
「だって、」彼女はおびえた目で彼をみつめた。「駄目なものは、駄目なのよ。なぜか」彼女は視線を落とした。「わからないけれど。」
彼はじっと彼女をみつめている。それで彼女は顔を上げ、無理に笑顔をつくろうとして、
「ごめん…ごめんなさい。そうね、明日、明日になったら、あの式場に行ってみよう。探さなきゃ、あたし、あたしを、そうだ、結婚するのかもしれないし、手遅れになったら困るし。うん。」
彼はため息をついた。
「そうだ。もう今日は遅いし、とりあえずは今日はここに泊まって、それで明日また動き出せばいいよ。そんな記憶喪失の人をほうり出しておくわけにはいかないし。ね。」
彼の言葉に彼女は無理に笑顔をつくって、コクリとうなずいた。
彼は、僕は下のソファを使うから、君は上の寝室のベッドを使いなさい、と言った。使うのなら、バスルームも使っていいよ、と言ってくれたが、彼女は、今日はもう疲れたからいいです、すぐ休みます、と言うと、おやすみなさいを言ってベッドルームに入った。時計を見ると夜中の二時をまわっている。体が溶けそうにだるかった。ベッドの中に入ると、激しい睡魔が彼女を襲ってきた。
覚えがあったのだ。
彼に抱きとめられた時の感触を体が、覚えていた。
この人は、知っている人だ、あれは安心できるぬくもりだ――体がそう覚えていて、彼女は彼を、信じることにしたのだ。