その日、坂城春樹は、森本と電話で話しながら、目の前のホワイトボードを眺めていた。予定表には、六月十九日、「結婚式」と書かれたまま、まだ消されていなかった。公演はそのまま七月二日に開始される予定で、劇団自体の状況も何も変わらないが、坂城の心はどこかいつも通りでなく、落ち着かなかった。森本と話していても、せわしない話し方しかしてないと、自分自身でも気がついていた。
森本の話は簡単なものだった。簡単で、複雑だった。
まだ、千尋がみつからない。かつて暮らした場所を全部洗ってみたが、それでも出てこない。もう帰ってこないのだろうか、という内容のだ。そして、何か情報をつかんだら、教えてほしい、と言って、切れる。そんな日が、もう五日――千尋がいなくなってから、もう五日、続いていた。
坂城は受話器を置いて、ため息をついた。
椅子にすわったまま、机に大きく肘をつき、頭を両手で抱え込んだ。
二、三度頭を両手でガシガシやらせると、ふっと顔を上げて胸ポケットの煙草に手を伸ばした。
火をつける。
ふーっと吐き出すと、椅子の背もたれに体を投げて、もう一度ホワイトボードを眺めた。
「こっちだって、時間ねえんだよ。」
坂城はそう一人ごちると、煙草をくわえて立ち上がった。
事務所を出て、稽古場の前を通り、廊下をつっきる。左に曲がって休憩室の前を通ると、裏口にたどり着き、ドアを開けた。
空を見上げた。どんよりとはしているが、雨は降りそうになかった。
裏庭の噴水へと歩を進める。
この間、――そう、たった一週間前だ。たった一週間前、柴野がそこに、千尋をねらって――今だからはっきりわかる――植木鉢を落としたのだ。
その後、坂城は何度も、ここへ来るたび、いや、来なくても、あの時もっと柴野の行動に敏感になっていたなら、柴野を思い止まらせることができただろうか、などと考えた。考えても仕方のないことだと思いながら、それでも考えずにはいられなかった。
その心のわだかまりがやるせない。
たまらない。
だから心も落ち着かない。
劇団オーナーの園山隆史も、柴野の従兄なのだ。
そう考えると坂城はまたやるせなかった。
坂城は歩を進めると、噴水の水際に腰を下ろす人影をみつけた。坂城が「千尋。」と声をかけると、千尋は振り返った。
「またオミさんから電話あったぞ。」
そういいながら、千尋の横に腰を下ろした。まだ、両腕の包帯が、事件の跡を生々しく語ってみせている。
千尋は坂城の言葉に答えようとせずに、静かに笑っただけだった。
「お前、どうせ公演始まったら、ばれんだぜ。いつまでオミさん奔走させとくのよ。」
言いながら煙草に口をつけた。
千尋は答える様子もなく、噴水の流れる水をみつめるばかりだった。
「あいつだって仕事始めて軌道に乗せなきゃいけない時期なのにさ、仕事手につかんじゃ、話にならんだろ?」
坂城は噴水の中に煙草の灰を落とした。千尋はその煙草の灰をみつめ、行く先を眺め、そして坂城を見ると、
「じゃあ、坂城さんがそう言ったらどうですか? 千尋はもう帰ってこないから、仕事に専念しろって。」
「お前が言ったらどうなのよ。」
すかさず坂城がそう言うと、千尋はふっと笑って、
「坂城さん、冗談きつい。」
視線を落とした。
「冗談か?」坂城はまた煙草に口をつけた。「冗談ねえ…」
千尋はそうぶつぶつという坂城に視線を移して、
「だって冗談でしょ? 坂城さん、わかってるのに、言うんだもん。」
坂城は煙を吐いた。
「オレの超能力に頼るなよ。」
「何が超能力よ。」
千尋は吹き出した。
洞察力の誤りでしょ? といおうとして、言葉を継ぐのを止めた。
「今口きいたら、だめだもん。」
「オミさんと?」
「そう。決心にぶるじゃない。」
坂城はうつむいて考えるそぶりを見せた。
例のベランダの端に置いてあった、植木鉢の位置を見上げると、
「オレ別に、別れるほどのことじゃないと思うけどね。時間をおきたいなら、時間をおきたい、それでいいんじゃないの? 言ってやればさ、それで」
「あたし、坂城さんみたいにかしこい考え方できないもん。」
千尋は坂城の言葉を切った。
「あれはあれ、それはそれ。だから次行こう、みたいな、割りきった考えできない。」
坂城が千尋の顔に目をやると、彼女もまた、植木鉢の位置を見上げていた。坂城もまた、ベランダの植木鉢に視線を移し、
「そだな。」
と付け足した。
あの日、植木鉢は、柴野の手を離れ、千尋には当たらず、地面に落ちて大破した。大破した植木鉢の残骸は、既にきれいに掃き清められ、落ちた形跡すらない。
なぜ、あの日、柴野は千尋を狙ったのか。
一人殺せば、後一人殺すのも、本人にとってはたいした差はないのかもしれない。
もうあの日、柴野は警察に追われていることを知っていたはずだし、それから、死ぬ覚悟だってできていたのかもしれない。だから、千尋に、何か危害を加えようと――。
しかし、千尋を殺していい理由は、柴野にはないはずなのだ。
それは結局、逆恨みでしかない。
柴野という女は、育ちがいいだけに、どこかとっつきにくいところのある、お嬢さんだった。しかし、なまじ頭があるだけに、理知的で、感情に走って誤った判断などしない女だった。
それがかえって、憎らしいくらいに。
それとも、それが、坂城の思い違いだったのか。
それとも――
坂城は腰かけたまま、頬杖をついて自分の足元をみつめた。
「なあ、千尋。」
と坂城が問うと、千尋が「はい」と言葉を返した。
「お前、柴野のこと、恨んでるか?」
坂城の言葉があって、やや間があった。答えがなくて次の言葉を継ごうとすると、
「なんで?」
という千尋の言葉がかえってきた。
「なんで、あたしが柴野さんのこと恨むの?」
坂城は、自分で質問をしておいて、そういえば、なぜそんな風に思うのだろう、と自分でも不思議に思った。柴野がエイジを殺したからか、それで千尋が記憶喪失になったからか、あるいは、今こうして、千尋の結婚を奪ってしまったからなのか――
言葉が出ないで坂城が黙っていると、千尋が、
「坂城さん、あたし、柴野さんとのことがあってから、いろいろ考えたのよ。一体、今度のことで、誰が本当に悪かったんだろうって。どこから、何がいけなかったんだろうって。池野の父と結婚した母がいけなかったのか、それで二人が死んだのがいけなかったのか、エイジと出会ったのがいけなかったのか、それとも、彼が、死んだらいいと思ったのがいけなかったのかって、いろいろ――。
でもね、母も、池野の父も本気だったし、気持ちに嘘がつけなかったのよね。だから結婚して、そのせいで出来た負債で他人に迷惑をかけられなかったんだと思う。母の意地もあったんだと思う。
エイジは――そうね、エイジは――」
千尋もまた、視線を下げて、自分の手元をみつめた。
「この間ね、あの事件の後、常喜先生が言ってたの。あたしが記憶喪失になってしまったのは、エイジのこともあるけれど、お父さんとか、お母さんとか、いろんなそれまでのことが全部原因になってるんだって。エイジが――」
そこで、千尋の言葉が途切れてしまった。坂城が千尋の方に視線を向けたが、彼女はうつむいているので、その表情が読み取れない。坂城が千尋の頭に手を伸ばし、いつものようにぐしゃぐしゃとやらせると、千尋はくすくすと笑いながら少し頭をもたげた。
「柴野さんは、自分がエイジを殺したんだって言ってた。でも、それは違うと思うの。だって、柴野さんは薬を入れ換えたって言ってたけど、エイジだって普段飲んでる薬かどうかわかると思うのよ。柴野さんにも、殺意はあったと思う。でも、エイジも死にたかったんだと思う。覚悟がなければ、あんな薬の飲み方できないし、それから、あたしも――危険だと思いながら、止めようと思わなかったのは確かだもん。いろんな、いろんなことが、いろんな気持ちが重なって、エイジは、死んでしまった。」
千尋は頭をもたげて、前をしっかりと見据えた。
「何がいけなかったのか、本当に、最初から考えたの。本当に、最初から。父が、片岡の父が依存症だったのがいけなかったのか、それとも、池野の父と恋をした母がいけなかったのか、エイジと出会った、あたしがいけなかったのか、柴野さんを好きになれなかった、エイジがいけなかったのか――ねえ、坂城さん。」
千尋は、坂城の顔を見上げた。見上げた顔の口が、少し歪んでいる。
「誰がいけなかったんだと思う?」
坂城は、千尋から視線をはずす。それから、考えるふうに腕を組んだ。
千尋は千尋で、また視線を前に戻して、言葉を続けた。
「みんなその時、その時で、精一杯だったのよ。その時その時で、精一杯にやってきた。それが、誰かを不幸にしたり、誰かを傷つけたりしてしまった。避けられる方法はあったのかしら。避けられるように、努力した方がよかったのかしら。
でも」
千尋はそこで言葉を切った。それから、千尋は両手で、眉間を抑える。
「誰も最後こんなふうになるなんて、知らなかったんだものね。知ってたって、逃げられたかどうか、わからない。」
何か、わからない、激しい情動が、胸の奥に迫っては、かみ締めるたびにひいていく。吐き出してしまえば、心のつかえはもっと楽になるだろう。でも、何をどう、吐き出していいのか、それさえ、千尋にはわからなかった。
それは、記憶喪失になる前、エイジを死なせてしまったことに苦しんでいた自分と、どこか似ている。やり場のない、気持ち。逃れられない、想い。たとえエイジが生き返っても、たとえ、両親が生き返っても、とても楽になりそうにはないと、おもった。
それは、激しい、原罪感に似ている。
坂城が、組んだ両腕をほどいて、立ち上がった。
「純情以上の、正論はないってことか。」
千尋はすわったまま、立ち上がった坂城を見上げた。
「でもな、お前の話きいてるとさ、お前がオミさんを奔走させてる理由にゃならねえよ。あいつだってバカじゃないんだから、お前の考えてることなんてわかりそうなもんさ。待ってくれるって、あいつなら。さっさと言ってやれよ、さっさと。お前が言ってやらなきゃ、俺が言ってやろうか?」
坂城がそういうと、千尋が坂城の袖をつかみにかかった。
「いや、坂城さん。そんなの、坂城さんの口出す問題じゃ、ないじゃない。」
「バ―――――カ、おめえ、オレはオミさんの高校時代からのダチなんだぜよ。お前より付き合い古いんだ。お前を取るか、オミさん取るかと言われれば、オミさん取るんだよ。」
「じゃあ、もう舞台出ない」
千尋の言葉に坂城はグ――と言葉を飲み込んだ。
「何言って…、そりゃ、別問題じゃん」
「別問題でも何でも、出ないもんは出ない。」
坂城は自分をみつめる千尋の顔を見て、ハ――ッと息を吐いた。
右手で額を抑えると、
「あのな、千尋。」
と言葉を継いだ。
「じゃあな、あいつの気持ちはどうすんのよ。」
グッと言葉を飲み込んだのは、今度は千尋の方だった。
「お前、勝手だよ。」
坂城の言葉に、千尋は視線を落とした。
外で立ち話をしていると、じっとりと汗がにじむ。坂城は手の甲で額の汗をゆっくりとぬぐった。
「お前なんで、あいつと結婚しようと思ったの?」
千尋は思わず顔を上げた。上げた顔を坂城は正面からとらえた。普通の人とは違う、坂城の舞台で鍛え上げられたこういう度胸は、千尋には――千尋でなくても――時として毒なのだ。
千尋はすぐに視線を戻した。
「笑った」
言葉を出そうとして、千尋の声はつまった。顔が歪んで、ホタリと一滴、涙が落ちる。
「笑った顔が好き」
やや間があって、坂城が「オミさんの?」ときき、「それから?」と尋ねる。
「仕草が好き」
「ふん」
「優しい。大きい。」
「ふんふん」
「あたたかい」
そういうと千尋の目からボロボロと涙がこぼれて、千尋は思わず手で頬をぬぐった。
「坂城さん。」
「ふん」
「こういうイジメ、趣味なの?」
見上げる千尋の涙顔を、坂城は上から見下ろしたまま、
「別にいじめてねえじゃん。」
坂城の言葉に、千尋の目からまた涙がボロボロと落ちた。
坂城はその場にぺしゃんと腰を下ろす。
「面倒くせえな、お前も。」
「うん」千尋は涙を手でぬぐいながら、「面倒くさい」と付け足した。
「あたしずっと、記憶喪失になるまで、母の、呪縛みたいなのに縛られてたのと思う。幸福になる、そういうことにばっかり。本当の幸福が何かもよくわからないのに、幸せ、幸せって。大きなお家があって、お金がたくさんあって、優しい人と結婚して、――そう、シンデレラみたいっていうの? そんな、それが、幸福なんだと思ってた。
記憶を、失ってね、何も、なくなって、あたしやっと、自分の、自分で、人を好きになるとか、幸せって何か、とか、気付けたんだと思う。
たった一年だったけど、森本さんとの時間は、でも、あの頃は、あたしの生活の全部だったし――だから、余計、不幸な時間を忘れて手に入れた幸福は、幸福に逃げてしまうのは、あたしは、とてもずるいと思う。そしたら、エイジの気持ちとか、柴野さんの気持ちとか、吉本先生の気持ちとか、どうなるんだろうって思ったら、とても、全然」
千尋の目からボロボロと涙がこぼれた。両手で涙を抑えようとして、うつむく。すると、目の前に腰を下ろしていた坂城が、千尋の頭に手を伸ばし、ポンポンとなでた。
「でもな、千尋、それでも全部」
そこまで坂城は言いさして、次の言葉を飲んだ。
言葉を切った坂城を、千尋はみつめる。
坂城は、視線をそらせてため息をつくと、千尋の頭をポンとはたき、
「しょうがねえな」
言ってまた立ち上がった。
「どうせ、近いうちにバレんだぜ、ここにいること、オミさんによ。」
千尋はうなずいた。
「今だって、オレのこと信じてるから、電話ですんでんだぞ。」
また千尋はうなずいて、
「その時はなんとかする。」
答えた。
坂城は、あてになんねえな、という顔をした。それから、どんよりとした空を見上げると、
「おう、明日っから、衣装つけて、通しやるぞ。」
千尋はうなずいて、鼻をずるずる言わせた。
「あと一週間っきゃねえしな。」
千尋はまたずるずると鼻をすすった。
「鼻水で返事してんじゃねえよ。」
千尋は吹き出した。
「きったねえ顔」
坂城が言うので、千尋は腕に巻いた包帯で、顔の涙をぬぐった。
もう包帯の下は、ほとんど痛みもない。そろそろはずした方が、傷のためにもいいのだ。
一昨日傷のことで大学病院で看護婦をしている真崎に相談に行くと、真崎は電話ごしに、吉本広二が婚約するのだと教えてくれた。先輩の勧めで見合いしたらしい。「この間会った時に言おうと思ったんだけど、あの時はいいづらくて、ごめんね」と電話口の真崎は言った。
「坂城さん」
そろそろステージに戻ろうとする気配の坂城に、千尋は声をかけた。
「おう」
「あの日の柴野さん、すごくキレイだったよ。」
坂城は、千尋の言葉に少し、戸惑う素振りを見せた。それから、
「あいつはここ二、三年、ずいぶんいい女だったよ。」
付け足した。
「オレも早く、青二才卒業しなきゃな。」
ひとりごちた。
坂城は舞台に戻ると言って千尋の元を離れた。
柴野も誰かを憎みきれたら、楽だったろうに、などと坂城は、思う。選択肢はもっと、広がっただろうに、とも――。
すべてはもう、すんでしまったことなのだ。
「好きで添えない人の世を、か。」
坂城はまた、空を見上げた。