第七章

 稽古場の事務所を出ると、雑然とした薄暗い廊下が奥へとのびていた。突き当たりの小さな窓から以外、明かりらしい明かりはない。廊下の電気は消されていて、両脇に雑然と荷物が積まれている。どうやら、この廊下自体が細長い建物の中央にあるらしかった。
 事務所から廊下に出るとすぐ左手に部屋がある。ドアが開け放たれているのでのぞいてみると、真っ暗で、明り取りの窓さえない。向かいの壁面に大きな鏡がはってあることが、暗い中に薄く反射しているのでわかった。大きな部屋だ。足元の床はフローリングになっているらしく、磨きあげられているのか光ってみえる。
 千尋は電気のスイッチを探した。
 ドア左手の壁にそれらしきものがあり、手で探ってスイッチを入れてみた。
 緩慢なスピードで部屋の中の明かりが明滅しながらともると、鏡と床の反射も手伝って、目がなれていないせいもあってか、思わず目をつぶるほどにまぶしかった。
 そこは、千尋が予測した通り、稽古場だった。学校の教室ほどの大きさで、誰もいなくてガランとしているせいか、とても広く感じられる。
 足を踏み入れてみる。
 密閉された空間なので、外気よりも一段と部屋の中の空気は重い。独特のにおいがさらに重さを増した。制汗剤か、ガラスクルーのにおいか、何か香りをつけられた薬品のにおいが混じっている。換気窓は部屋の上部と下部にあることがわかった。しかしわざわざ開けるほどに長居するわけでもない。床を探したが、隅に椅子や折りたたみの机が幾つか立てかけられてありだけで、これといって記憶の足しになるものはなかった。
 ドアと向かい合わせの壁面にはってある大きな鏡に、千尋は自分の姿が映っているのを見つけて、少しがっかりした。
 熱さに疲れた体だ。
 それでなくてもこの部屋は、立っているだけでジットリと汗がにじむ。
 こんなに熱くて、汗で疲れると、わけもなくみじめに感じられた。昔の婚約者に会いに行ったのにいなかった。自分の部屋だと思って行ってみると、他人の部屋になっていた。会社の社長だと思っていた人が、実は自分の婚約者だった。
 千尋は森本のことを思い出して、ビクリとした。
 なんだかいたたまれない。
 恥ずかしいのか、何なのか、よくわからない。とにかく「変な感じ」なのだ。
 そうだ、気にしないでおこう、と、坂本十青の部屋を出たときからずっと考えないように努力していたのに、ふとした瞬間に森本の顔が頭の中を過る。
 考えない、考えない、――そう自分に言い聞かせた。それから訳もなく自分を元気づかせ、部屋を出た。
 廊下に出ると、幾分気温が低いのか、開け放たれた入り口から入りこむ風のせいか、ずっと涼しく感じられる。さらに、廊下を奥へと進んでいく。稽古場に向かい合わせる格好で、右手手前に更衣室、奥にシャワー室があるらしい。シャワー室のドアの前から廊下は左手に折れていける。見ると、突き当たりにドアがあり、右手に簡易炊事場、その奥にまだ一つ、部屋か倉庫があるらしい。
 千尋は建物を縦に切ってある廊下の、数少ない光源である、突き当たりの窓まで歩いていった。右手脇にトイレがある。窓から外をのぞくと、常緑樹が植わっていて、その向こうはどうやら、敷地の広い中庭があるらしい。
 この稽古場自体が、市民広場や会館の脇のスペースに後から建てられたものらしく、新しかった。中庭の向こうにも何か大きな建物が見えるあたり、あれも公共の施設なのだろう。会館といい、稽古場といい、一劇団が使うには、贅沢すぎる代物なのかもしれない。
 千尋はのぞいていた窓を離れると、廊下を引き返し、裏口へと通じる、炊事場の方へ廊下を折れて行った。
 炊事場の隣りの部屋は一体なんだろう、と、ドアをひいてみる。すると、それは倉庫ではなく、休憩室だった。床が一段高くなって、畳がしいてある。向かい側に大きな窓があってレースがひいてあったが、部屋は明るかった。中央にテーブルが据えてあって、床には雑然と雑誌や服、かばんなどが置かれていた。布の塊が隅に幾つかつんであり、おせじにも美しい部屋ではなかった。
 千尋は無意識に畳の数を数えた。
「六枚…」
入り口に玄関分のスペースをたて切ってあるから、正確には六畳ではないだろう。
 彼女は今ままでとは違う、人のにおい――生活のにおいがする部屋の空気に、ふと心が落ち着くのを感じた。そういえば坂城が先ほど、千尋は「しばらくここで暮らしてた」といわなかったろうか。生活のできる部屋など、どう考えてもここしか見当たらない。それなら、生活していたのはこの部屋かもしれない。
 入り口に腰を下した。ヒヤリとした畳の感触がうれしくて、その場に体を横たえた。
 頭にあたる畳の感触が固い。寝転んで見上げた天井は、ごくありきたりの白い壁紙だった。気を許したら眠ってしまいそうな気だるさを畳に預けて、千尋は大きくため息をついた。
 寝転んだまま何げなく部屋の床に目を泳がせていると、冊子の山がある。
 台本だ。
 千尋は手を伸ばしてそれを取ってみた。
 比較的新しいから、予備で印刷されたものかもしれない。表には、「憂情の森」と書かれている。ああ、今稽古してる分だと気がついて、寝転がったままパラパラとめくって見た。
 坂城はなんといったっけ。
 そうだ、今度の舞台に出てくんねえか、と言ったんだっけ。結婚式も記憶喪失もわかってる。お前しかいないんだ。助けると思って――
 結婚式――記憶喪失――結婚式――結婚式?
千尋はガバッと起き上がった。
「ちょっと待って。結婚式っていつ?」
結婚式は六月十九日なのだ。ということは、もう一週間を切っていることになる。
 誰と結婚するのよ――森本さん――?
 千尋は思わず口元を手で覆った。
 でもそんな知らない人と結婚するなんて――。
「ちょっと待って。」
 何でそうなるのよ、と考えてみたが、頭の中にそれらしい答えはみつけられなかった。だいたい自分は何でこんなとこにいるんだろう。なんで記憶喪失になったんだろう。考える――違う。考える――そうか。
「だからそれを探しに来たんだっけ」
千尋はもう一度大きなため息をついた。
 千尋は手に持ったままの脚本を見つめた。「憂情の森」――そうだ、すらすらと出てきた台詞――でもさっきお前見てたら、台詞覚えてたじゃないか、坂城はそういった。そうだ、あれはもう、頭が記憶しているのではなかった。体が、覚えているのだ。誰かがたたきこんだ。坂城か、それとも記憶喪失前の自分自身か。
 今の状況でさえこんぐらがりそうなのに、どうしてこんなことは奇麗に体に残っているのだろう。
 台本の表紙には、作者の名前が書かれている。脚本、園山隆史、演出、坂城春樹。パラパラと台本をめくると、字の海が目の中に飛び込んでくる。
 ふと、手が止まった。主人公エレナの台詞だ。
「みんな、」と読みかけたとこえろで、すらすらと頭の中から台詞が流れ出す。
「みんな、大切な何かをなくしてしまったのよ。それは、決して目には見えない、だけど、ううん、だからこそ、なくしてはいけない、忘れてはいけないものなのよ。
 忘却は、罪です――忘れられたものにとってはこれ以上にない」
 千尋は目を閉じて顔を覆った。
 何も残らない記憶に、口から流れ出す言葉が彼女を責める。
「残酷な仕打ちです。」
 ボウキャクは――、

 金魚鉢の中から腰をかがめてのぞきこむ格好で舞台をみつめていた坂城は、チッと小さく舌打ちした。彼は舞台をみつめたままの格好で、「なあ、オミさん」と森本に声をかけた。森本は返事をせずに、すわったままの姿勢で坂城をみあげる。
「なあ、オミさん。千尋貸してよ」
坂城の言葉に森本が小さくため息をつくと、坂城は森本の方に振り返って、「な」ともう一度言葉をつごうとした。そこで森本が、
「そんなに千尋が必要なのか?」
と言葉をついだ。言いかけた言葉をさえぎられた坂城はグッと言葉を飲んで、フッと息を吐くと、
「おうよ、必要なんだ」
「でも今までも十分やっていけたじゃないか。松田さんだって、そんなに遜色ないと思うよ。この短い間に、よくやってるじゃないか。」
「ダメならはっきりダメって言えよ。」
坂城はイライラしながら言葉をついで、舞台の方へ顔を向けた。
「ダメなことはないよ。お前の気持ちもよくわかるし、千尋にその気があるなら出てもいいんじゃないか? ただ今、状況が状況だからな。」
坂城はイライラした肩の力を抜いた。唇をかんで視線を落とすと、
「記憶喪失…か。なんなんだろうな、あの病気は」
坂城の言葉に森本はフッと笑うと、
「病気か?」
「病気だろう。普通二度もなるか、記憶喪失。今回は脳に衝撃を受けたとか、そんなんじゃないんだろう?」
「ないね。」
「病気だよ」
「思い出したくないことがあるのさ」
森本の言葉に、坂城は流し目に視線を送った。部屋の中が暗くて正面が明るいので、暗い中に坂城の目が何かの光を反射して白く見える。
「だからだよ」
森本は坂城の「だから」の意味が理解できず、少し首をかしげた。
「だからあいつを使いたいんだ。あいつ自分で気づいてないけど、台詞に時々、自分自身をシンクロさせてんだ。この舞台のテーマは、記憶と、忘却と、それにまつわる約束だからな。」
「俺に難しいこと言うなよ。」
「難しかないさ。お前、ただわかりたくないだけだろ。理解したくないんだよ。」
「わかりたくないって?」
坂城は言うつもりのない言葉が過ぎたと思って、次の言葉をためらった。正面を向く。
「おい、ハルキ」
「千尋は何かにシンクロしてる。シンクロしてることをわかりたくない。わかりたくないのは、千尋の過去がわからないからだ。あいつを知らないうちに支配してる、千尋の過去に、お前は嫉妬してる。」
森本はカッとなった。坂城は後ろの森本の気配を気遣いながら言葉を続けた。
「それを見せつけられるのがいやなんだ。だから、お前はこの件に関して、珍しく、うやむやな返事しかしない。思い出してほしいようで、思い出してほしくないんだ。なんてったって、今の千尋は、〃まっさら〃だからな」
森本は膝の上に置いた手を握りしめた。感情が爆発する前に、抑え込もうとよくする彼の動作なのだ。森本は横できいている坂本十青のハラハラとする気配に我に返り、首を振った。
 息を一つはく。
「優秀な演出家どのには適わないね。」
「おうよ。人の心が読めなくて、ものなんて作れるかい。」
「苦労するな、お前も。」
森本の言葉に、坂城はまた流し目をくれた。それからまた無言で正面に向き直った。
「遅いな、千尋は。」
言いながら森本は立ちあがろうと姿勢をかがめた。
「稽古場で何かみつけたんじゃないか?」
立ちあがる。
「ああ、見てくるよ。」
森本はドアの方へと歩くと、中を振り返らずに出て行った。
 
 休憩室を出てすぐのところに、敷地の中庭に出ていけるドアがあった。建物自体の勝手口にあたる、それを、開けると、芝の敷き詰められた向こうに石畳があって、噴水が見える。会館脇にめぐらされた噴水と池の水が、ここの噴水池に流れ込む構造になっている。中庭のデザインは会館のデザインに合わせられていた。平たくて薄い池の表面を、這うように水が流れ込み、その中央部分から緩やかに水は吹き出している。子供が水遊びするのにちょうどいいだろう、などと思いながら、千尋は噴水際まで足を進めた。
 会館を振り返る。ちょうど会館の裏手になるのだ。
 会館の裏手中央、多分三階ぐらいの高さの位置にドアがあるらしい。二階あたりがベランダのような形になっていて、その高さで建物をめぐり、少し高めの壁に花の鉢が幾つか並べられていた。階段は一度向こう側へ隠れて、そしてこちら側に降りてこれるようになっている。うっとおしいほど複雑な構造だ。
 見上げると、梅雨にふさわしく、晴れているのに白く厚い雲が空を覆っている。うす曇の中に浮かぶ石の建物は、大きな影となって迫っている。
 うんざりした気分になって、千尋は視線をもう一度噴水の方に返した。
 足元は噴水池を形作るのと同じ石が敷き詰められていて、会館表まで通路を形どっていた。石の通路の周りには芝が敷き詰められ、周りには所々、楠の木の常緑樹や桜の木が植えられている。
 噴水の向こうにはさっき稽古場の建物の中から見えた大きな建物があった。木が邪魔をして、こちらからは窓の中がよくのぞけないが、どうやら図書館には小さいから、公民館のような施設らしい。作りがどことなく可愛らしいから、児童会館に近い役割を果たしているのかもしれない。
 木を隔てて窓からのぞきこめる建物の中は、本だなと、それから蛍光灯の明かり。
 幼い子供と母親が、きっと楽しそうに――休みになると子供たちが、きっと楽しそうに――そういう幸せな空間なのだ。行ってみようかと思って、千尋は躊躇した。あそこは、自分が、足を踏み入れていい空間では、ないのだ。
 幸福とは、自分が、足を踏み入れていい世界では、ないのだ。
 そう思ってしまった自分に、千尋はゆるいショックを感じた。
 ――やはり、お許しにならないのですね――
 昨日未散が教えてくれた、千尋が最後に彼らの前を去る前に残して行ったという言葉が、頭を過る。
 なぜだろう、どうして、そんなふうに、感じてしまうのだろう。
 思いだしたい、そう思いながら、心のどこかで拒絶している。幸福に近づきたいと思いながら、心のどこかでやはり、拒絶している。でも、このままではいけない。何かが、いけない。だから、思い出さなければいけないのだ。
 そうだ、だって、もう間近に、森本との結婚式があって、それから、坂城が舞台に出てほしい、と――
 その時、背後でガッという、石をするような音が聞えた。いや、違う、背後ではない。
 頭上だ。
 後ろの上の方で、ガッという、石をすり合わせるような音――千尋は振り仰いだ。
 音は会館裏のベランダの位置、花の鉢が宙に浮き上がっている。その向こうに、白い手――白く広げた手――五本の指まではっきりと広げられた、白い、手――
 落ちる――落ちてくる――このままでは、ぶつかってしまう――あの、土を含んだ陶器の塊は、間違いなく千尋を打ちのめすために、落ちてくるだろう。
 飛んでくる、飛来する――やがては彼女をうちのめし、地面へと散らばり――
 飛んでくる――塊が、白い――あれが当たると、とても、トテモ、イタイ――いつも、
 いつもやめてって言ってるのに、
 コワクテ声ガ出ナイ――ブ、タ
 母親の大きな体、普段はあんなに細いのに、飛んでくるときは、まるで、
          イデ
                      凶器のように――カタマリが、

ブタナイ     デ
 ブタナイで、オ
    母さん、お、母さ、――ん、い
            やめて、イヤ、あたると、イタイのあたると、

 い、
       ィい――ぃヤあァあああああ―――――――――――――――!

 森本は会館の出口を稽古場の方へ回って出た。稽古場のある建物のドアは開けっぱなしで、事務所のドアも開けっぱなしだったが、千尋のいる気配は既になかった。
 ――千尋の過去に、お前は嫉妬してる――
 さっきの坂城の言葉を消しさろうと努力するのだが、頭の中からその台詞が消えない。気にしないようにと何度も首を振ったが、まるで脳みそにしみついたようにとれなかった。
 元々坂城は、必要があれば舞台に立つ人なのだ。そのせいかどうかはわからないが、彼の言った言葉は声ごと、頭の中に残ることがある。森本は気にしないようにともう一度首を振ったが、ただイライラとまとわりつくばかりだった。
 だいたいこの暑さがいけない。まとわりつくような湿気がいけない。今年の梅雨は、雨が多すぎる。湿気が多すぎて、一度気分が滅入ると深みに入っていけない。
 暑さにも増して、稽古場には独特のにおいがあった。それでもまだ、建てかえる前の何かすえたようなにおいよりはマシだ。そういえば坂城のロッカーを開けると服がかびてキノコが生えてた、なんて話もあったっけ――思い出して、森本はふと笑った。
 笑っている場合ではない、と、我に返って、千尋を探すことに集中した。
 そうだ、俺だって、千尋のことでは努力をしているんだ、と森本は思う。本当は、いやな過去なら、きっと思い出さないほうがいいんだ。――いいんだ、と思う、が、千尋の医師は賛成しなかった。
 外傷による記憶喪失ではないのだから、と。千尋には、何か外傷による記憶障害にあったような形跡はない、というのである。彼女が生きていくために、自分で消してしまった記憶なのだ、ともいった。取り戻さなければ繰り返す。取り戻さなければ、彼女の知らないところで、彼女を苦しめる、だから、取り戻さなければいけない、というのだ。
 治療で出てくるのは、千尋にとっていい過去でないことは分かっている。苦しむことを承知の上で、失われた記憶と闘わなければいけないのだ。だから、おびえる千尋のために、すぐそばで、すぐ手の届く距離に、というのが森本に対する医師の要求だった。
 俺だって怖いさ、と森本は思う。千尋の過去を知って怖いのか、過去を知って衝撃を受ける千尋をみるのが怖いのか、判然とはしない。けれど、森本が恐れていては、千尋は決して前に進まないのだ。
 それでも記憶の何かを補えればと、戸籍を頼りに千尋の過去を探したこともあった。しかし、両親は二人とも既に他界し、親族もほとんど残っていなかった。少なくとも、千尋の助けになるような親族は、いないと言ってよかった。
 千尋の父親は千尋が小学校五年生の時に癌で他界している。その後母親は、千尋が中学校一年の時に池野正博という医師と結婚、千尋の今の姓は、母親の再婚相手の姓なのだ。千尋はもちろん養女として迎えられている。池野正博と、母親は、どうやら交通事故で、彼女が高校三年生の秋に他界していた。
彼女は、記憶を取り戻すときの催眠治療で、何度かその話を語ったことがあった。
 ―――
 長椅子に横たえられた彼女は、医師の言葉と共に記憶をさかのぼった。
「…そう、お母さんに、再婚するって言われたんだね。きみはそのことに対して、どう思ったの?」
千尋は緩慢な動きで、ゆっくりと首をかしげながら、微かに笑みを浮かべて、
「うん、嬉しかった。」
「そう、どうして嬉しかったのかな?」
「だって、お母さん、やっと幸せになれるのよ。」
「そう、きみはお母さんに幸せになってもらいたかったの?」
「そうよ、だって、お母さんずっと、苦労してきたんだもん。人生の苦労分、取り返していいくらい、幸せにならなけりゃいけないのよ。」
「そう、それで、お母さんはいつ再婚されたのかな?」
千尋は口元に笑みを浮かべて、
「六月十九日よ。」
森本はギクリとした。これは千尋が、自分たちの結婚式に選んだ日だ。大安だし、ちょうどいいでしょう、そう言って選んだのである。
 目の前に横たわった千尋は、そのまま続けた。
「幸せな花嫁にならなけりゃいけないからって、あたしがこの日にしようって言ったの。」
「どうしてその日だとよかったの?」
「そりゃあ、ジューンブライドだもの。六月なら、いつでもよかったんだけど、その日は確かお休みだからって」
医師は森本の様子に気がついて、チラリと彼の方に視線を送ったが、すぐに視線を戻して、
「そう、じゃあ、質問を変えようか。」
 ―――
 彼女は、その後、医師の養父の元で、どれだけ幸せだったのか、ということを話した。ピアノと声楽を習わせてもらったの。大学は音大に行く予定だったのよ、と。毎年両親の結婚記念日には家族でお祝いしてね、色んなところに出かけたのよ、新しいお父さんはとても優しい人でね――
 彼女の話はいつも、その結婚から始まって、高校三年生の夏で終わってしまう。繰り返し、繰り返し、高校三年の夏までたどりついては、また最初へと返っていく。
 まるで、その時、彼女にとっての全ての幸せが終わってしまったようだ、と森本が思うほど、繰り返し、繰り返し――。
 森本にとっての千尋の記憶は、その時から、一気にこの劇場へ来た時間まで飛んでしまう。記憶を亡くして生気のない彼女の顔を、最初に生き返らせたのは、坂城が稽古に参加させてみた発声練習だった。声を出すだけじゃつまらんだろう、と、台詞を与えてみた。感情を込めて語りかける彼女に、次第に笑顔が浮かんだ。まるで、花が開くように、千尋は変化した。
 そうだ、本当なら、好きな女の過去など、知りたくなければ知らずにすむものなのだ。それなのに、彼女が掘り返さねばならず、また彼がそれにつきあわねばならないのは、彼女に与えられた業と、そんな彼女に出会ってしまった森本の因果なのかもしれない。彼自身はごく普通の家庭に育った青年だった。坂城と出身が同じで、高校時代の先輩と後輩なのだ。彼はいつも、こういう種類の連中に囲まれて、そうしてこういう連中に魅せられるのだ。憧れて、並べず、見守り続ける。坂城といい、千尋といい、劇団の連中といい。
 並べない彼らに嫉妬して、いつかは彼らの元を離れたいと思った。そして、立ち上げたのが今の会社なのだ。
 焦がれて届かない――それもまた、恋に似ている。
 ―――
 森本は廊下を曲がった。突き当たりのドアが開け放たれている。いつも閉めてあるのに開けてあるのは、やはり風通しが悪いからだろうか。それとも、千尋がここから外に出たからだろうか。
「千尋?」
声をかけて休憩室のドアを開けた。しかし、中には誰もいない。
 そうか、じゃあ、中庭か、と休憩室のドアを閉めようとした時、中庭からけたたましい叫び声と、それからパリンという音に混じって、ガッチャ―――ッと何かの割れる音が響いてきた。
 千尋の声だ―――!
 森本はドアからかけだした。
 
 鉢は千尋を微かにかすって、彼女を傷つけずに地面に落ちて大破した。
 彼女はそこに倒れて、腰をついたまま、動けなかった。
 まともに当たっていたら死んでいただろう。
 放心していた彼女は、森本の「千尋!」という声で我に返った。それから体を起こそうとしたが、うまく動かない。
 白い手が、頭の中に過る。
 森本がドアからかけてくるのが見える。手をのばす。でも、何て遅い。
 白い手が、目の前をチラチラとかすめる。
 早く、来てほしいのに、どうしてあんなに遅いのだろう。距離が、何て遠い。
 早く、はやく、はやく―――!
 早く来てくれないと、次、次は――!
 会館の三階から、ガターン!とドアの閉まる音が聞えて、千尋は鉢の並んだベランダを振り仰いだ。ベランダを囲む塀が高くて、その向こうは、この位置からでは何も見えない。
 瞬間、また、あの白い手が頭の中に蘇った。
 足音――石の上を走るハイヒールの足音が中庭じゅうに響き始めた――近づく音、ちかづく音? それとも、逃げる音か、一体――あれは――!
 ヒョイと、落ちた植木鉢の位置から、髪の長い女の顔がのぞいた。千尋は瞬間心臓が止まるかと思うようなショックに襲われたが、女は千尋を認めると、
「どうしたの?」
そう叫んだ。
 森本が、女の方を見上げながら、近づき、落ちた植木鉢の位置、千尋の位置、そしてベランダの位置を目で測って、千尋にかがみこんできた。
「おい、千尋、大丈夫か?」
森本の息が荒い。千尋はすわったままの格好で、森本の懐にしがみついて行った。森本に、もっと近づきたいのに、体が動かない。口を大きく開ける。大きな声で叫びたいのに、声が出ない。こころが、あまりに大きすぎて、どこへも出ていけない。
 森本は千尋を抱きしめたまま、抱え上げて彼女を立たせた。千尋の体はガクガクとわななく。女はカツカツとハイヒールをならして階段を降りると、千尋たちに走り拠って、
「植木鉢が落ちたのね。千尋さん、大丈夫?」
千尋は森本の腕の中で震えながら、彼女をみつめた。森本はそんな千尋の顔をのぞきこむと、
「おい、千尋、大丈夫か?」
千尋は返事をせずに、視線を落とした。裏の公民館らしき建物から、中年の女性と、初老の事務服姿の男性が出てきて、女性が、
「どうしたんですか。」
と、声をかけた。森本が、
「ああ、植木鉢が落ちてきたんですよ。」
「え? 植木鉢が?」
と女性の声ガ驚いた様子でかえってくる。
「それで、ケガは?」
「たいしたことないみたいです。ご心配おかけしてすいません。」
それで、公民館から出てきた二人はまだ心配気な様子だったが、誰も大事ないのを確認すると、顔を見合わせて、公民館の中へと帰っていった。
 女は落ちた植木鉢まで近づくと、ベランダを見上げた。
「あっぶないわねえ、あんなとこに花の鉢並べておくなんて。何かがぶつかった拍子に、落ちれかけてたのかしら。」
そう言って、女は森本の方を振り返った。それから、肩を少しすぼめると、皮肉に笑って、
「おあついわねえ。もうすぐ結婚式だからって、あんまり見せつけないでよ。」
女はそう言って茶化したが、それでも千尋は森本から離れようとしなかった。千尋は小さく、「誰?」と問うと、
「柴野さんだよ。ほら、園山さんの――ああ、劇団のオーナーのいとこで、榎木碧が所属してるプロダクションの、」
「やだ、しばらく会わない間に、あたしのこと忘れちゃったの?」
「いや、こいつまた――」
「こいつまた?」森本の言葉を繰り返してから、女は、「また、なんなの?」
森本は言うのをためらってから、大破した植木鉢に視線を移した。
「柴野さん、これ、自然に落下したんだと思うか?」
千尋はギクリとした。
「何? 違うの?」
森本はベランダを見上げると、
「自然落下じゃこの距離は不自然じゃないか?」
そう言われて、柴野はベランダを見上げた。
「そうかしら。言われてみればそうなような気もするけど…、でも、誰かが落としたにしても、あたし三階のドアの前に立って上から舞台見てたんだけど、あたしの方には誰も、入って来なかったわよ?」
千尋は森本にしがみついたまま、ビクリとして再び柴野をみつめた。柴野はまだ上を見上げている。
「ベランダ伝って表に逃げたのかしら。でも――」
柴野はこちらに振り返った。振り返って、千尋を見てギクリとした。それから慌てて、また目をそらせた。その様子に気づいた森本は、再び千尋の顔をのぞきこんだ。
「でも、千尋さんに誰が植木鉢落とす必要があるのよ。第一劇団の連中はみんな、稽古中だし、みんな舞台に集中してるのに」
森本は千尋の顔から柴野の方に視線を移した。柴野も森本の視線にハッと我に返って、
「ああ、でも、もしそうだとしても、千尋さんが誰ってわかってやったんじゃないかもしれないし、偶然落ちただけかもしれない。とりあえず、あたし坂城さんに一応報告しておくわ。こんなことまた起こっちゃ、危なくてしょうがないもの」
「ああ、うん、そうだな。」
森本は付け足すように返事をした。
 柴野は二人を振り返らずに、進む方向だけみつめて、急ぎ足で階段へと歩いていく。出てきたドアから入るのだろう。
 千尋はその女の後ろ姿をみつめた。
 それは勘でしかなかった。
 しかし、あの、女――髪も肌も爪もよく手入れされて、ブランドのブラウスとスカートを当たり前のように着こなしている、あの、女――
 ウソをついている。