コメント:故・三原順の出世作にして代表作である。連載当時爆発的人気を博し、名作の一つに数え上げられてもよい作品であり、現に名作の一つに数え上げられてはいる。しかし、名作作品としての知名度は意外と低い。その理由として一つに、娯楽作品としては大変難しいこと、また、作品のテーマが非常に重いこと、さらに、終わり方が非常に中途半端な印象を与えられることが上げられるだろうか。
とにかく、最後の通と半端さを譲ったとしても、難解な部分が多いことに変わりない。この作品を中学生が読みこなすのは、相当難しいだろう。逆に、いい年をしたおじさんが読むと、うなる所の多い作品なのではないかと思う。
そもそも、主要登場人物四人の設定をみても、半端ではない。
まずグレアム。
すぐ年下のアンジーと三ヶ月違いであるが、放浪をする四人の中では一応最年長である。物語のスタート時点で七歳。その彼の父親は名のあるピアニストであったが、家庭では家族を虐待しているといっても過言ではなかったほどの傍若無人ぶりだった。故にグレアムの母親で彼の妻は、グレアムが五歳の時にグレアムを置いて家を出、別の男性のところへ走ったのだ。残されたグレアムは母親がいない中、母の兄夫婦、特に伯母に愛されることになる。しかし体の弱い伯母は、グレアムとふざけあっては倒れ、それ故にグレアムは従姉のエイダから憎まれるようになる。
そしてある時、演奏旅行から帰って来た父親が、グレアムがピアノの練習をしないで伯母や伯母のくれた犬と遊びほうけていたのを知り激怒、犬をステッキで殴り殺そうとした。ステッキはかばったグレアムの右目と犬をうち、グレアムは右目を失明、犬は死んでしまう。そしてあろうことか、父親は、グレアムをかわいがり、またグレアムにとって最愛の伯母に「あんたが死んだらサーザ(グレアム)に目をくれ」とまで迫るのである。結果、グレアムに角膜をと遺言を残して伯母は自殺、従姉のエイダには人殺しよばわりされる。(C)少女マンガ名作選
伯母の角膜をグレアムに移植させようとする父を振り切って、彼は家を出たのだった。
また、グレアムより三ヶ月年下のアンジーは女優志願の母親の元に、父親のわからない私生児として生まれ、伯母の家族の元で育てられていた。母親は休みのたびにアンジーの元に通ってきていて、幼いアンジーは母親が来るのを心待ちにしながら日を過ごしていたのだ。ところが、あるときアンジーは小児マヒの後遺症で右足が動かなくなり、そこへ追いうちをかけるように、女優としてチャンスをつかんだ母親がアンジーを捨てると言い出した。アンジーはそれにショックを受け、母親や伯母一家を捨てて家を出たのだ。
そして、アンジーより二歳半年下のサーニン。
サーニンは曾祖父と父の喧嘩の板ばさみになり、精神を病んで一晩中雪かきして死んでしまった母の、その死のショックのために精神が世界から逃れ、さらに地下牢に閉じ込められていたのを、通りがかったアンジーが救い出したのだ。
父親と曾祖父との板ばさみになって精神を病んだ母親に、サーニンは愛された記憶がない。まして父親に愛された記憶もなく、唯一の友達は鳥だけだった。サーニンとは、元は飼っていたインコの名前であるが、心を病んで地下牢にいるとき、インコが「サーニン」としゃべるので、いつのまにか彼自身の名前になってしまった。
最年少のマックスはサーニンより二ヶ月年下、彼の持つエピソードは既にあらすじで述べたとおりである。
それぞれに親から虐待を受け、あるいは愛を得られず、特にグレアムとマックスの受けた心の傷は、その後彼らの運命を大きく左右する。マックスの被虐体験がひきがねとなり自覚なくして起こしてしまった犯罪が、グレアムを一度発狂させ、後にグレアムの「生」についての在り方を考えさせる大きな事件となったのだ。
「はみだしっ子」は彼らのおかれた状況から、幾つもの「犯罪」を抱え込むことになる。
とくにストーリー全体の核となる、マックスの自覚なき殺人、アンジーのその殺人の隠蔽、そして傍観するしかなかったグレアム――三人三様の在り方は、次第に誰よりもグレアムを傷つけていくことになる。その事件の責任をとらなければいけないとグレアムは考え、償いをしようとすら考えるのだ。しかし彼自身、事件の時は体が動けず不可抗力の状態の中、目の前で惨劇が繰り広げられたのである。彼に責任はない。それは、言ってみれば誰にとっても事故だったと言ってもいい事件だった。しかもマックスはまだ十にも見たず、グレアムだとて十になるや否やという頃である。
それでも彼は、償わなければいけないと考えるのだ。
人一人、死なせた罪の重さに後悔して、というよりは、彼は「自分のせいで死んでしまった何ものかへの償いをしなければいけない」と考えているかのようにも見える。それは、マックスの犯したその事故への償いではなく、幼児の頃、体が弱いとはいえ病気でも何でもなかった伯母に父親が「奥さん、あんたが死んだらサーザに目をくれ」と言ったがために、伯母が自殺し、その幼い心に負った伯母への罪の意識を別の形で償おうとしているかに見える。自分のために起こった過去の悲劇を、ほとんど事故に近い状態で行われた惨劇とすりかえ、償いをしようとしているように見えるのだ。
だから物語の中で、死に臨んだ父親を前にしてもグレアムは冷たい。二十歳になったら自分が殺すんだから死ぬなとまで言い放つ。伯母を死に追い込んだ、その父の死。グレアムにとって父親はその罪を償わなければいけないはずで、ただ病で早死にするだけでは駄目なのだ。少なくとも、グレアムにとっては、伯母を死に追い込んだ量刑相当「目には目を」という、その何ものかでなければいけない。
しかし父は病死だった。
こうして、子供の頃にうえつけられた罪の意識が、後の彼の生き方――少なくとも十四歳で終了する作品時点までを左右することになる。しかし、物語の中では、幼児の頃にうえつけられた原罪感に左右されたと表面的には描かれることはない。
すべて計算され組み立てられたはずなのに、微塵にもそんなことを感じさせない。しかも上にとりあげたことは作品のメインとはいえ、一部にしかすぎないのだ。核として描かれるこのストーリーに、他の三人分のエピソードと補助的なエピソードが複雑に絡みあい、しかも表面的に意識されることももつれることもなく話は進んで行く。実に、うまい。
メインのストーリーに並行しながら進むもう一つの大きなエピソードに、雪の日に精神を病んで死んだ母親の亡霊を見てしまうサーニンのものがある。この少年は、母親の死で現実の世界に目を閉じ、アンジーによって開かれたのであるが、後にサーニンが健康になり、偶然出会って深く愛するようになったクークー(マーシア・ベル)の姿は、まるで「出会ったあの日、もしもアンジーによってサーニンの扉が開かれていなかったなら」という、サーニンの「もしも」の姿そのもののようでさえある。
そしてサーニン自身もまた、彼女を前に様々な問いを発するのだ。
開かれて人と普通に接している自分は幸福で、開かれなかったマーシアは不幸なのか、開かれずに自分の世界に閉じこもったものに『生きる意味はない。』のか。
確かにそこに、存在しているのに。
「はみだしっ子」をみていると、三原は、心理学をおそらくかじってはいただろうが、それほど詳しくも学んでいなかったのではないかと思う。学んでいるにしてはその学にとらわれすぎていない。
ちなみに、学んでいなくても描けるのが、一流の作家である。
設定やストーリーを見ると、三原の『はみだしっ子』は「早すぎた」感がある。二〇〇〇年初頭の今ならば親に愛されず虐待される子供が、その親を捨てて浮浪児になるのは決して「はみだし」でも何でもない。それが物語の世界のみならず、現実にできることならば、是非とも現実の子供たちにおすすめしたいくらいである。
いや、別に二〇〇〇年代の現代でなくても、決して「はみだし」た感はなかった。そこに書かれているエピソードを見ると、少年たちが親を捨てるのも当然の行為、無理からぬ行為だと思える。要はその必要性として彼らを三原が「はみだした存在」として描きたかったということではないだろうか。
作中で彼らは、確かに社会から「はみだし」てはいるが、彼らは彼らの人生を生きながら、また、出会う人々の「傍観者」の役割もよく果たしている。この「傍観者」は「はみだし」た位置からだから可能なのであり、三原はその視点を通してメインストーリーには関わらない、様々な人間像を描いていくのだ。
隣の人間の考えていることがわからないことの怖さ、善意は時として悪意と考えられてしまうこととか、戦争で憎しみもなく人を殺し後悔する人もあるのに、戦争でもないのに憎み傷つけあうことがあるとか、あるいは利己的な親族のために生きる屍となってその生の意味を考えさせられるとか。
もし、これが大人の「わかりきった」視点から描かれたのであれば、大人たちは簡単に折り合いをつけて解決してしまっただろう。適当な理由をつけて。しかしこの作品はあくまでも汚れなき瞳を持ったいたいけな子供たちの視点で描かれているのである。それはとても澄んだ、純粋な視点なのだ。
故に「はみだし」た彼らより、「はみだし」ていないはずの人たちの方が汚く見えることもある。いや、汚く見えることの方が多い。しかしそれが、普通の人であるのも事実で、してみれば世の中は、「そういうもの」ということになるかもしれない。
しかし正直な話、登場人物である彼らと同じ十代の私には、『はみだしっ子』は難しすぎた。すごさだけは何となくわかったが、きちんと理解してはいなかった。今読み返すと、恐ろしいほどの作品である。後続のあらゆるジャンルの作家たちが、『はみだしっ子』の複雑に、幾つもにわかれ、そして絡んで描かれたテーマやモチーフの、一つについて描くことを得ても、全てを絡ませ、作品としてそれぞれに遜色なく描くということは、なかなか出来ないのではないかと思う。
残念ながら、『ムーン・ライティング』『SONS』『Xday』などの作品群を残しながら、『ビリーの森ジュディの樹』を遺作としてその生涯を閉じた。以前ホームページの短い原稿でも書いたが、こんな天才には二度と出会えないだろうと思う。虐待、ドメスティックバイオレンス、心の闇などの言葉が当たり前のように飛び交うようになったのは、三原の死後のことであるが、もしこの天才が生きてこれらのことに接していたら、どういうふうに受け止めたであろうか。
ストーリー自体は、印象が非常に中途半端で物語を閉じる。しかし、なぜあそこで止まったかというに、それはタイトルが『はみだしっ子』だからだろう。後半、四人は揃って一つ家庭に入るが、形のみならず、サーニン、アンジー、マックスの順で家族としての触れ合い、葛藤を経て、家族の一員として家庭の中へと入っていく。そして最後にグレアムであるが、この物語は心の中に一番大きな傷を抱えるグレアムが、自分と自分の過去に最終的に向き合う未来を選択して物語を閉じるのだ。
そこにはもう社会から「はみだす」必要などない。自分という存在のあるべき姿を「はみだし」てもいない。あるのは、帰るべき場所であり、彼らが探し求めた「居場所」である。
最終話「つれて行って」というタイトル。どこへ、という問いともに、ここに第一話「われらはみだしっ子」との連携がある。彼らはあの日、雪の中で「恋人」と「神様」を待ち、どちらかが彼らを「つれて行って」くれることをのぞんだ。そしてその後、様々な事件を経て、グレアムののぞんだのは、どちらだったのか。
彼らを愛してくれる「家族」、つまり第一話のあの日、雪の中で待ち続けた、彼らを愛してくれる「恋人」がやってきた。安心して暮らせる「居場所」へ「つれて行く」ために。
私はそう、解釈したい。