咲花圭良少女マンガ名作選特集・吉野朔実
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吉野朔実「LA MASCHARA―ラ・マスケーラ―」論

咲花圭良

(1990年9月「The Outfield」掲載)


 人間は「限界」に達すると「遊び」を欲するそうだ。この場合の「限界」は種々様々であるが、要するに人間性を失いそうなとき、もしくは自分の存在が消えてしまいそうなときと、解すればいいだろう。その「遊び」とは、子供のするような「遊び」に限らず、また、最近はやりのレジャーの類に限らず、人間に快楽や楽しみを与える全般のものであるといえる。吉野朔実『ラ・マスケーラ』は、その「人間の限界」と「遊び」を描いた作品ではないかと思えてならない。
 この物語はサスペンスでありながら、不思議と犯罪者の動機というものが明確に書かれてはいない。それだけでなく、彼女の作品を読みなれているものならば、神父の登場した場面で、薄々彼が犯人ではないかとわかるのだ。神父が登場するのは、物語が約三分の一まで進んだところで、読み慣れないものでも、半分まで読めばわかる。
 では、吉野朔実は、サスペンスにおいては、その技術が未熟なのだろうか、ということになるが、そうとは言いきれないだろう、と私は思う。なぜならば、この作品は「犯人」の謎を解くよりもむしろ、その「主題」という名の謎を解くのが目的ではないかと思われるからである。
 「主題を探す」というのは、近年の彼女の作品には多くみられる型である。一九八八年十一月に発表された『眠れる森』、そして一九八八年に完結した『ジュリエットの卵』。
 『眠れる森』では、金髪碧眼の「花子」という少女が登場する。彼女は生きながら死んでいる、というような少女で、しゃべらない、表情もろくに変わらない。ここではその「花子」を『眠れる森』にたとえ、作者はその謎解きを我々に提示している。そして、『ジュリエットの卵』では、双子の兄弟を登場させ、冒頭に、一読だけでは意味不明の言葉を並べてある。
  誰も知らない/君でさえも/誰もぼくを知らない/ぼくでさえも
  君の知らないぼくと/ぼくの知らない君は
  いつか何処かで/いつも何処かで出会い続ける
  それが運命の恋人
 この言葉が物語の大方を表しているといってもよく、そしてこの言葉は何かのキーワードのように、クライマックスでも同じような言葉が登場する。
  水は蛍の運命/下田さんは蛍の意志
 水(みなと)は主人公蛍の双子の兄である。この双子は兄妹でありながら、恋人のように愛し合っていたのだが、蛍が大学入学と同時に水のいる金沢を離れたときから、二人の関係が狂いはじめる。そして、そこで蛍に出会ったのが、隣に下宿する、下田游一である。蛍は冒頭で、自分で始まって水で終わる二人きりの世界から放たれて、「水がいない世界は汚い」と言い放つ。が、やがてラストシーンに至り、「世界はただそれだけで美しい」と言うようになる。そう思うようになったのが、下田との出会いだったのだが、一方、独り立ちした蛍に対し、水は「お前がいないなら世界なんてなくていいんだ」と自殺を図り、蛍に固執を続ける。そんな水を前にした、蛍の最後のモノローグはこうである。
  水 世界は美しいのよ 生命はただそれだけで美しいの
  蛍はそれを信じて 今しばらく世界をみつめていたいの
  水 蛍の声をきいて
  水 きこえてる?
  私たちもう一度 生まれることができるわね?
 もう一度とは、どういうことなのか。そして表題『ジュリエットの卵』とはどういうことなのか。
 読者である我々は、推理小説を読むように、彼女の作品を探っていかなければいけない。
 コミックスにおける、こうした「材料だけ提示して、読者に結論を考えさせる」型のものは、既に一九八一年完結の、三原順『はみだしっ子』(白泉社)でなされている。こうした類の作品群は、一読した後、何か物足りなさを感じることが多い。それは、我々の結論を加えて始めて、作品は完結するように仕組まれているからだ、と、私は考える。

 
 さて、そこで『ラ・マスケーラ』の謎解きである。毎年ヴェネチアで行われる仮面祭で起こる連続殺人事件の犯人が神父だとわかり、その心情をせつせつと語るのは、物語の約六分の一、最後の三〇ページでである。もちろんこの話でも謎を解く鍵の言葉が登場する。  
 主人公オストリカをヴェネチアによび、連続殺人事件を取り扱った「赤き死の仮面」という題で記事を書くルポライター、コステロは、それ故に神父に殺され、原稿も奪いさられるのだが、その殺されたコステロが握っていた「赤き死――」の第一ページ目が実にその鍵となる文章なのだ。物語中には、その文章が抜粋の形で紹介される。
  ヴェネチアに 死の二月がまた廻って来る
  仮面に紛れて 悪魔が カルネヴァーレに忍び込み
  花々に幻惑された 黒い髪 碧の眼の青年が 胸に十字を刻まれて 運河の祭壇に流される
  悪魔は 人々が祭りを楽しむように 殺人を楽しみにやって来る
 これらの言葉には、意味不明にみえて無駄な言葉が何一つない。虚飾めいているが、無駄なものなど、何一つないのだ。
 神父は十八年前、最初に自分が殺したやはり神父であったオストリコに生き写しの娘、オストリカに、オストリコに語りかけるように、自分が殺した時の気持ちを語る。
 ここには明確に描かれていないが、この最初の殺人の動機は嫉妬だったのかもしれない。彼は神父として、まず、オストリコがうらやましかったに違いない。オストリコは神父という職分にふさわしく、いつも人のために苦しんでいたのだ。苦悩――それは、つらいもののはずである。普通は苦しむことなど羨ましがるはずがない。だが、彼は神父だった。他人のために苦しむ、それは、自分以上に自分を愛するということである。そしてそれを羨ましいと思った彼自身は、他人のために苦しむということが出来なかったのだろう。事実彼は話の中で「私にはわからない痛み(苦しみ)でした」と言っている。真に聖職者たりえるためには、それは必要なことである。が、やはり、人間として手に入れることは、とても難しい。そこで彼は「苦悩」を神からの贈り物、その苦悩を感ずることが出来る者を神に選ばれたものだと考える。
 ところが、その羨望の的であったオストリコは一人の女に出会い、恋し、還俗して結婚をする。神父にとってその行為は、せっかく与えられた神からの贈り物を台無しにする、すなわち、「女という生暖かい平和の中に逃げ込む」ことだと考えるのだ。
神父はそこで神を裏切った、汚れたオストリコの魂を救ってやろうと決心するのだ。それはナイフで清め、その罪を神父がひきうけることなのだ。いえまでもなく、殺人であり、その場合には道徳的な「苦しみ」が伴う。その「苦しみ」を抱いたとき、神父は自分が「神に選ばれたもの」だと信じるのだ。
 ――愛とは悪魔の誘惑に何てよく似ているんだろう――
 愛とは、オストリコにとって、妻ガブリエラに対する愛であり、神父にとっては、自分以上に他人を愛することから生じる「苦しみ」である。
 では、「悪魔の誘惑」とは何だろう。神父は物語前半部分で、連続殺人事件の捜査に来たルキノ警部に対し、オストリコは「悪魔に殺された」と言い、また、クライマックスで、「肉体の死など取るに足らないことだ 魂の充実こそが真の幸福 神からの贈り物だよ」と言っている。
 神父がいうところの、オストリコにとっての「悪魔の誘惑」とは、神を裏切らせ生暖かい平和の中に誘うもの、すなわち女である。前半部分で神父が言った「悪魔に殺された」と言う言葉は、「=苦悩という神からの贈り物を女が奪い去った。=魂の充実が悪魔に奪い去られた」ということを言っているのだろう。
 では神父にとっての「悪魔の誘惑」とは何だろう。彼は必死で、自分の中の誘惑を否定しようとしている。
――悪魔のささやきに耳を貸してはならない 誘惑に負けてはならない より多くの苦痛を――
 この「悪魔の誘惑」がすなわち「人間が限界に達すれば欲するという遊び、そこから得られる快楽」ではないかと私は考える。それでは彼にとっての快楽とは何だったのだろう。それは人を殺すという、人倫を犯すときに生じる快楽だ。
 彼は物語前半で「彼(オストリコ)が殺されてからずっと私も悪魔と戦いつづけているのです。」と語り、クライマックスでは神父に刃物を向けられるオストリカが「そうやって毎年のように父を殺し続けたのね」と叫ぶ。彼は快楽のために十八年間毎年、悪魔の仮面を着けて神を裏切った青年たちを清めるための儀式として殺人を続けたのである。「胸に十字を刻まれて運河の祭壇に流される 凶つ儀式」なのだ。
 青年たちはいずれも追い詰められて苦しんでいたのだ。そう、神父のいう「神からの贈り物」を得、苦しんでいたものたちなのだ。ところが彼らはその苦しみから逃れるために、女に、酒に、麻薬に手を出した。すなわち「花々に幻惑された」のである。それは間違いなく、神の贈り物を捨て、神を裏切ったことになるのだ。そして神父は清めるためという名目のもと、その実は快楽のために、殺人を続けたのである。
 発端は、彼がオストリコを死に追いやったことにあるのだ。
 そして、最後に、彼は認めるのだ。
  でもあの時
  私は私の中にも悪魔が潜んでいることを知ったのだ
  純然たる殺意
  水底のガラスが光りを反射するようにただ一瞬けれども瞳を射る程
  に強い
  ひとごろしの炎
 殺人の快楽に酔う悪魔の仮面、それが「赤き死の仮面」の意味だと思えてならない。「赤き」の「赤」とは血の色ともとれようが、この赤はどちらかというと「ひとごろしの炎」の炎の色ととった方がいいだろう。

 さて最初に提示した「人間の限界」そして「遊び」。「遊び」の方は「殺人」と結論づけたのだが、それでは「限界」は一体なんだったのだろう。それは前述したような「嫉妬」だったのかもしれない。それとも、オストリコを殺すときは本当に「苦悩」を「神からの贈り物」ととってそれを捨てるオストリコを「許せない」と思ったからかもしれない。だが、私がこの「遊び」を「限界」ゆえのものだと思ったのは、その『ラ・マスケーラ』に記載された「赤き死の仮面」の第一ページの全文を読んだからである。
  「悪魔の涙はそのとき乾き、悪魔の傷はそのとき癒える」
 幾つかある言葉に中から特に選びだしたが、私は最初にこの「涙」の理由が、「傷」の原因があるような気がしたのだ。もちろん、この「限界」や「遊び」は神父に限ったものではない。苦しみ、花々に幻惑された青年たちも形こそ違え、やはり同じなのである。

(文章は一部、理解を補う程度で改変してある)


 補足

 この文章を書いてから、かれこれ九年の月日は経とうとしておりますが、今から考えれば、これはいわゆる「サイコ・サスペンス」のハシリだったのかもしれません。この当時はまだ「羊たちの沈黙」は上映されていなかったような気がするのですが、どうだったでしょうか。
 今から考えれば、神父の「限界」とは、「聖人ではないのに、聖人であり続ける」という生活あるいは精神の「限界」だったのかもしれません。
 「悪魔」「苦悩」というキーワードが頻繁に出てくるのですが、これは使用する人物、あるいは適用される人物によって、少しずつ解釈のずれが生じているような気がします。いつか機会があったら、このズレを確認した上で、もう一度考えてみたいのですが。
 「悪魔の囁きに耳を貸してはならない」という神父の言葉は、もしかしたらただの詭弁だったのかもしれませんが、あの頃の私は(19歳だもんなあ…)何か真面目にとらえてみたかったのかもしれません。


資料

 ・吉野朔実『ジュリエットの卵』

 ・    『LA MASCHERA』(原案・入江敦彦)

   初版 ブーケ・コミックス・ワイド版 1990年6月(全一巻)

   初出 『ぶーけ』1990年2月号〜4月号掲載

参考文献

 霜山徳爾『人間の限界』(岩波新書)

冒頭


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