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 そのホテルの前の道を抜けると、ゆるやかな坂道が岬の先端へと続いていた。彼はその岬への坂道を歩きながら、以前来たときは舗装もされておらず地面もむきだしだったのではなかったかと思った。しかし今日きてみると美しく石畳がしかれている。
 彼は悪い予感に襲われながらその石畳の上を歩いて行った。
 まだ、夏には遠いが、それでも、こんな日よりだから、歩くうちに靴底から石畳の熱が伝わってくる。
 彼はその熱を感じながら、足を速めた。そして、岬の先端にある公園を思った。
 こんな緑に囲まれた細い道が舗装されているのだから、あの公園――といっても、岬の先端にあるものなのだから、それほど広くはないのだけれども――だって整備されてしまっているのではないだろうか。
 いらだたしく、足を進める。
 小道の両側の木々はさほど背も高くなく、脇に据え付けられた柵を少し越えるほどで、歩くうちに海の光がまばゆく揺れているのが見えてきた。
 今日も海は濃紺をたたえているだろう。
 空はまぶしいほどの青であろう。
 海から視点を移し、振り向けば、岬へとつながるその半島は、きっと一面、緑をたたえているだろう。
 彼の中のこの景色は、いつも青い。

 そして、岬の先端の公園へと到着し、海からの風を受けながら、彼はひどく腹を立てた。
 岬の先端には広場があったのだが、その広場が土の色を隠し、今日はすっかり石畳で覆われてしまっている。

 誰だ。
 俺の場所を台なしにしたのは誰だ。

 ここで、海を、半島を、空を、展望するのは心地よい。
 誰かもこの場所の心地よさを知っていて、この場所を展望にふさわしく整備したようであったが、本来その美しい変化に喜ぶべきところを、彼はひどく不快に感じた。
 自分一人きりの場所だと思っていたのが、実はそうではなく、誰かが、誰かも、この場所を気にいり、そして彼がそれを知らないだけで、実は大勢の場となってしまっているのだ。
 それが自分の中の何かを汚されたようで、無性に腹立たしかった。
 今日はよく晴れていて、半島の緑も、真青の海も、そして空さえも抜けるようで、風までが爽快だから、そんなことに気分を害さなくてもよさそうなのに、それなのに、無性に腹立たしかった。
 彼は、せっかくの景色をよく見もせず、その場所を後にして歩き始めた。一体何しに、何のために来たのかわからない。にもかかわらず、公園を後にして、傾斜のゆるい坂の途中にある、砂浜へ降りていく道へと足を向けた。

 岬の先端の下は断崖となっていて、断崖から海辺にある砂浜までへと続く海岸線は、比較的傾斜のなだらかな緑の斜面となっている。そこを縫うように遊歩道が作られていた。
 ここも石で塗り固められているかと危ぶんだが、幸いにも土の顔を見せたままだった。坂道の途中に等間隔に滑り止めの木が埋め込まれているだけで、加工された形跡は全くない。
 周囲の木々が美しく、斜面上側の木々がところどころ歩く道に陰を落とし、心地よく海風に揺れている。
 歩きながら海を見ていると、視線が次第に水平線へと近づいているのを感じた。海のにおいが強くなり、波の音が静かに響いてくる。
 彼は道の途中で立ち止まり、海を眺めた。
 来た道を振り仰ぐと、今しがた怒りにかられて後にした岬の先端が見える。意外に段差があるのだなと見上げていると、今歩いて降りて来た遊歩道の脇道から人影が現れた。
「あら」
 人影がそう声をあげて立ち止まる。
 見覚えのある若い女だった。
 白い日傘をさして、真っ白な半袖のブラウスに、長くて裾の広いスカートをはいていた。
「やあ」
 彼は思わずそう答えた。
「あら、あらあら、いつこちらに?」
女は嬉しそうに笑顔を浮かべて近づいて来た。木々の緑が光に反射する中で、女は一層まぶしく見える。
 彼は思わず目を細めた。
「ついさっき来たところだよ。天気がいいから、何はさておき一目散にやってきたんだ。岬からね、海を見たくて」
彼の言葉に女はまた笑顔を浮かべ、
「それで、海は見たの?」
女が歩きながら近づいて来た。女の歩きながら近づく姿を見ながら、
「うん、堪能した…といいたいところだけど、あそこ、整備されちゃっただろ? ちょっと、頭に来てさ…」
「あら、何に頭に来たの?」
二人は並んで砂浜へと歩きだした。
「いや、岬が整備されてたのが」
「整備されて頭に来たの?」
「うん」
彼がそういうと彼女が目をしっかりと開けて下からのぞきこんだ。相変わらず美しい瞳だと思いながら、照れくさそうに「変かな」と彼が付け足すと、女はクスクスと笑い出し、
「だって、普通はきれいになっていたら、喜ぶものでしょう? それなのに、頭にきたの?」
「うん」
「どうして?」
「うん」
彼は「うん」とだけ答えて、理由は言わなかった。
 何かひどく汚されたような気がしたから、とは思った。でも、あそこが自分だけの私有地であったわけではなし、他人もそこで景色を眺める場所として利用していたはずだ。もちろんそんなことはわかっていたはずで、ひどく腹を立てるほうが、この上ない身勝手なのだ。
 それに今気が付いて、急に恥ずかしく感じたのだ。
「そうだな、頭にくることは、なかったんだ。きれいにしてもらって、喜ばないと…」
最後の方は小さくぼそぼそと聞こえるか聞こえないかの声になってしまった。
 そんな彼に、女はわかったのかわからないのか、ふふと笑顔を見せた。

 歩くうちに、耳に小さく波の音が響いてきた。
 遊歩道は海岸線に沿った小さな砂浜の入り口でその脇にある柵が途切れていた。道はその先ゆるゆると上り坂になり、緑の傾斜の中へと入り込んでいる。
 彼が道の行く手をみつめていると、砂浜に、女がサンダルの足を踏み入れた。それに誘われるように続いて、彼も砂浜に足を踏み入れる。
 砂浜は、海水浴場というほどに広くはなかったが、一応整備された美しい白砂の浜だった。利用するのは岬近くにあるホテルの客だろうか。まだシーズンではなかったせいか、彼ら以外、人の姿は見えなかった。
 あるものといえば、海に向かって右手の奥に木製の粗末なあばら屋があるばかりである。しかし、それも何に使うものかはわからない。倉庫か、それとも今は閉じられた休憩所か、何か。
 それより手前の白砂の上に、棒切れに結ばれたのか、赤いきれが、半分砂に埋まりながら風にはたはたとはためいている。そのはためき具合を見ながら、意外に風があるのだなと思った。そう思うか思わないかのうちに、先を歩いて砂浜に入った女が「あ」とも「きゃ」ともつかぬ声をあげて、風にあおられた日傘を必死で支えていた。その動作を助けようと彼が近づこうとした途端に、女は日傘の奥深くに手を延ばし、カチンと音をたててそれを閉じてしまった。
「意外と風がきついのね。」
「うん、海辺だからね、風が強い日はもろにその風がやってきて…」
 男は、風にあおられ乱れた髪をなでつける女の左手をみながら、言葉をなくした。
 白い手だと思った。
 その白い左手の小指に、男は糸をひいたような赤い線をみつけた。何かの切り傷なのか、その線をみつめながら、誰があんなところに傷をつけたのだろうなどと考えていた。
「ねえ」、と、紅をほどこした形のいい唇が動いた。
 女の指をぼんやりと眺めながら、うつろに「うん」と男が返事をする。
「あなた、覚えているかしら」
女に覚えているかしらと尋ねられて、男はぼんやりと、何を覚えているのだろうと思った。
「あの日」
その言葉で、女が彼の顔を見上げ、みつめていることに気がついた。男は女にみつめられ、不意に、この女はこんな顔をしていただろうかと思った。
 あの日――?
 彼は自分の中の記憶を探った。
 あの日とは、いつだ――?
 しかし、ただそこには何もない。そして「何もない」ことだけを確認し続ける。それでも、なぜか、それを早く、強く、思い出さなければいけないような気がして仕方がなかった。
 この女は誰なのか。
 そして、自分は一体誰なのか。 
 自分の頭の中をどれほど探っても答えが出ず、届かない記憶に軽いめまいを覚え始めたころ、女はふと視線を男の背後へと移した。女は大きく上を見上げ、さきほど髪をなでつけた左手を上に上げた。それから、背後に向かって嬉しそうに大きく手を振り始めた。
 つられて男は振り返る。
 背後にあった、それは、先ほど早々に後にした、あの岬の先端だった。誰かに整備されたと言ってひどく怒った、あの先端の公園だ。
 岬は海へと大きくせりだし、砂浜から見上げるとちょうどその先端が見える。そこに、誰だろう、遠くて見えないけれども、人がこちらへ向かって大きく手を振っている。
 誰だ――男か――若い――
 この位置からは判然とせぬのに、女はその影が誰だかわかって手を振っているのだろうかと、彼はいぶかしんで女の方をもう一度見た。
 すると、女は嬉しそうな笑顔のまま、手を振り続けている。しかし、彼の視線に気がつくと、身をひき、流し目でためらいがちに彼へと視線を向けた。その姿に、彼が激しい嫉妬を覚えた瞬間、女の振っていた左手の傷から、砂が吹き始めた。
 あ、と声を上げる間もなく、砂は手一面に広がり、手の形をなくして砂へと化していく。
 彼は思わず女を抱きとめようとして、手を伸ばした。
 途端に、女の姿が揺らぎ、白く煙ったかと思うと、海からのどう、という音とともに吹き上げる風が、女の姿をかき消してしまった。
 彼はしばらく、砂が流れた方向を見続けた。伸ばした手の中には、砂一つさえ残らず、風が通り過ぎただけ――。
 彼はその風を握りしめると、もう一度手の中をみつめた。
 そうだ。
 そうだ、覚えている。
 あの時、俺は何をした?
 彼は白砂の上に膝をつき、女の姿が流れたあたりの砂を両手ですくった。そして、そこに少しでも女の形跡が残っていないかと探してみたが、何もない。
 ひどく、酔って――いや、正気ではなかっただけかもしれない――あの日、あの傷、左手の小指に――
 手の中に、ざらざらと砂の感触だけが残る。もう一度救いあげて探してみたが、やはり、女の形跡はどこにも見つけられなかった。
 彼の中で、さきほど見た女の小指に浮かぶ、赤い線が甦る。
 しかしもう、それは、すべて終わったことではないのか。
 すべて、終わってしまったことだった。
 左手の小指の傷――姿を消した女――ただ一つ、わかっているのは、女がもういないのに、依然彼の奥深くに影を残し続けていることだった。
 彼を激しい後悔で、さいなみ続けていること。
 いつも、青の景色の中にあって、彼の心を呼び続けている。
 彼の中のすべての罪障を飲み込んで、あの景色の中に生き続けている。
 それがこの世の、ただ一つの真実でもあるかのように――

 きみの色はブルー。
 いったい誰が、それを疑ったろう――

(2006.6.27)