夕闇が迫っていた。急行列車はいまだ都心を出でず、車内はラッシュで混み合っていた。ドアの近くに立っていた彼女は人波でドアに押し付けられている。次の停車駅までもう少しの我慢。窓の外に広がる、西の空の残り火のような朱が、せめてもの救い――。
「お母さん、人がいっぱいね。」
細い女の子の声が、彼女の胸元から聞こえてきた。
「そうね、でも、もうちょっと我慢しようね。」
彼女の背後から耳元へ、少女の母親らしい女の声がきこえてくる。
「何でこんなに人がいっぱいいるの?」
「みんなね、会社からお家へ帰るのよ。」
「お家?」
「そうよ。」
「ふーん。」
ラッシュには珍しい親子づれの、ラッシュには珍しい会話。この混雑には不似合いな程の家庭的な空気に、彼女はおもらず微笑んだ。
西の空はもう消えようとしている。次の停車駅まであと少し。箱の中に押し込められた集団の重苦しい沈黙に押されて、親子づれの会話さえもふつりと止んでしまう。
列車は速度を緩めて駅の明かりの中へとすべりこんでいった。この混雑からやっと解放されるのかと彼女はほっとする。この駅を過ぎれば、このひどい重苦しさから解放されるのだ。
列車は停止して彼女いたのと反対側のドアが開くと、安堵のため息がもれたかのように空気が緩む。人の波がひいて車内が明るくなった。重苦しい喧噪はホームへ――。彼女は乗車してくる人々と目を合わせるのが気まずくて、相変わらずドアの方向に向いたまま立っていた。
目の前には反対方向行きの列車、ドアが向かい合っている。この時間の都心行きは立っている人もまばらで、車内の様子もよく見えた。
その時だった。
都心行き列車の乗客に、覚えのある顔が見える。ドアの手擦りにつかまっている女――彼女は慄然とした。彼女は、あの女を知っている。
あれは、あれは彼女の家庭を砕いた女ではないか。
七年前、高校生だった彼女は不登校の生徒だった。屈指の進学校に進学したものの授業にはついていけず成績は落ちる一方。勉強しか知らなかった彼女には友達もなく、学校は苦痛を感じる場所以外のなにものでもなかった。家にいると母親が心配する。父親は学校に行けと怒鳴る。一月もすると父親は諦めたのか怒鳴ることは、彼女の不登校は夫婦仲までをも険悪にした。
彼女は苦しかった。学校に行かなくてはいけないのは分かっている。でも、行きたくないのだ。朝はちゃんと起きる。行こうと努力する。が、恐ろしい吐き気や腹痛にみまわれて、結局登校しない。
このまま、学校に行かなかったらどうなるのだろう。社会から落ちこぼれるのだろうか。中学まで、あんなに一生懸命勉強したのに、あれは一体何だったんだろう。土台、私にあの学校は無理だったんだ。それなのに、お父さんもお母さんもうるさいぐらいに勉強しろ勉強しろって――。
一月も経った頃、ある朝担任がやって来た。学校へ行こうと誘いに来たのである。彼女には信じられなかった。問題児に気を遣う先生があの学校にもいたなんて――車で誘いに来た担任は、早く学校へ行こうと毎日ドアの所まで誘いにくる。そのうち彼は部屋の前までやってきた。しまいには部屋の中まで入って来て、彼女に学校へ行こうと言った。
やがて、彼女は学校へ――。最初は保健室にいた。一時間だけ授業に出るようになった。「分からないところは先生にきけ、一人で悩んでるからどうしようもなくなるんだ。」――そういう彼に、土台頭が違うのに、と思いながらも、彼女はやる気になっていた。嬉しかった。ただ、彼の期待に答えようと思い、彼と一緒にいる、それだけが楽しかった。
間違いはどこから起こったのか、今はもうまぼろしのようで――母親が妻子あるその男と間違いを犯し――その間違いを目撃したのは、彼女だった。
学校から帰ってきた彼女がドアからかいま見たのは、母親ではなく、不貞の女だった。担任ではなく、不貞の男だった。「汚らわしい」――戦慄が走ると同時に、めくるめく吐き気とめまいが彼女を襲う。不貞の男と不貞の女は彼女の存在に気付かない。彼女は走った。堪えられなかった。
誰か嘘だと言って――。
どれが本当なのか、何を信じたらいいのか。いつから? 最初から? あれは何? あの女――!
彼女の父親への告白で、父親は母親に詰め寄る。女は攻め落とされ、家庭は堕ちて行った。
「私はお父さんの方に行く。お父さんの方が好きだもの…お父さんの方が…。」
あれから七年、女はそこにいた。発車のベルが鳴り、ドアが閉まる。彼女は我に返って後ろを振り返った。駄目だ、間に合わない。向き直り、彼女はドアにへばりついた。向かいの列車をみつめると、向こうの列車も発車しようとしている。女は気付かない。叫ぼうとする、でも、声にならない。
誰か、とめて、あの人に――…。
列車は発車した。二人の女の距離は、加速をつけて伸びて行く。
もう一度、お母さんって言いたかった! お母さんって! お母さん、お母さん――!
明かりの箱は遠く遠く、瞬間に近づいた二人を引き裂いた。恐ろしい偶然、恐ろしい現実――。
ふと気がつくと、列車の、窓ガラスの向こうは夜の闇に沈んでいた。車内の明かりが反射して、ガラスは彼女一人を浮かび上がらせている。呆然と泣いている、夜の闇の中に浮かび上がるその女は、紛れもなくあの女だった。反対方向へと遠ざかっていった、あの女の姿だった。
そこで彼女は我に返った。果たして、あれは本当にあの女だったのか。あの女が、この街にいるはずがないのに――本当に、あの女だったろうか。
ドアのガラスに頭をつけて外の世界を覗きこむ。街は夜の闇に沈んでいた。窓ガラスに映る車内に気付いて彼女は後ろを振り返る。すると、家路に向かう人波の中に先程までいたはずの親子連れの姿は、どこへともなく消えていた。
(『雑文芸術1』1994年12月掲載)